ハッピートラブル happy trouble 続編 |
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第10話 甘い余韻 「まあぁ、アルプリちゃん、案外大胆なのねぇ。おほほほ」 「ちっ、ちがっ……むぐっ」 首を振って否定しようとしたら、柊崎に口を塞がれた。 「ええ。このとおり、ベッドから出してもらえそうにないので。杏子さん、夕食は……」 「柊崎さんってば! 杏子さん違います、違うんです。夕食はわたしが……」 必死に叫んだら、杏子はわかっているというように頷きながら、こちらに歩み寄ってきた。 「よくなったようね?」 柊崎を見つめて、杏子が問う。 「ええ。アルプリのおかげで」 柊崎も真顔で答え、蓬の頭の上に手のひらを当ててきた。 すでに彼女が焦る必要のない雰囲気で、蓬は黙ってふたりを交互に見つめた。 「知ってはいても……こうして実際に目の当たりにすると……ほんと、驚くべきことねぇ」 杏子は苦笑しつつ、手近な椅子を引っ張ってきて、ベッド脇に座り込んだ。 柊崎もベッドに腰かける。 蓬はどうしていいかわからず、ベッドの上で正座して姿勢を正した。 「ふたりがこうして一緒にいることが、なんだか夢みたいよ」 笑みを浮かべた杏子は、そう言ったあと、大きく息を吸い込み、ふうーっと満足げに息を吐く。 「杏子さんのおかげですよ」 「ふふ。もうお礼はいいわ」 しばし満ち足りた時が流れ、蓬もそれに浸っていたのだが、次第にベッドの上に正座している状態でいることが、居心地悪くなってきた。 「あ、あの……わたし夕食の支度に取りかかります」 「ああ。アルプリちゃん、今日はいいわよ。せっかくだもの、三人で話をしましょうよ。圭さん、気分がよくなったのなら、書斎に場所を移さない? それとも、まだ横になっていた方がいいかしら?」 「いえ。もう大丈夫ですよ。蓬もいてくれるし、書斎に行きましょう」 「あの、でも、わたしは食事の支度をしないと」 「もうやってくれているわ。だから大丈夫」 蓬は顔をしかめた。 どうやら杏子は、那義に夕食作りを頼んでしまったらしい。 前もって那義から、今日は三人分夕食を作るようにと言われたというのに……那義に作らせてしまうのは、蓬の立場として、ひどく気まずいのだが。 「けど、夕食作りは、わたしの仕事で。バイト代を頂いてるし」 「蓬」 機嫌を悪くしたのか、柊崎は少し顔をしかめて呼びかけてきた。 蓬は困って俯いた。 「だって……やるべきことをやらないでいたら、バイト代を頂けなくなります」 「まあまあ、アルプリちゃん、深刻に取らないで。今日だけよ。今日は私の話し相手になってもらいたいの。ダメかしら?」 そう言われてしまうと、ダメとは言えない。 「そ、それでしたら……」 「ああ。そうだったわね。今日はアルプリちゃんは、アンダー・バトラーだったのだわ」 杏子は、急に蓬の役回りを思い出したらしく、くすくす笑いながら言う。 「それにしても、良く似合っているわ。男の子だと言われたら、そうなのかなと思ってしまいそうになるわねぇ。不思議」 「悪趣味ですよ。那義も杏子さんも」 「それは、この制服のことじゃなくて、アルプリちゃんに男の子を演じさせたことを言っているの?」 「もちろんそうですよ」 「女の子だと知っていて、あなたは雇ったかしら?」 柊崎は痛いところを突かれたというように、苦い顔をして黙り込んだ。 「ほーら、ごらんなさい」 「ですが……もっと早く真実を教えてくれても……」 「一番いいタイミングだったと、わたしは思うけど。アルプリちゃんはどう思っているの?」 「えっ? わ、わたしですか?」 蓬は、自分を見つめている杏子と柊崎を見て、口ごもった。 「わたしは……その……こんないまがあることが、ただ嬉しいので……それだけでいいっていうか……」 「んまぁっ」 立ち上がった杏子に、蓬は勢いよく抱き着かれた。 ベッドという不安定なもののうえに正座していた蓬は、その勢いにバランスを崩しそうになる。 「わわっ!」 「杏子さん」 どこか呆れたように、柊崎は杏子に呼びかけた。 「なあに?」 「書斎に移動するのでしょう?」 「ああ、そうだったわね」 「すみませんが、飲み物を頼めますか? 私は紅茶がいいな。蓬、君もそれでいいか?」 「紅茶なら、わたしが」 いまだ杏子に抱きしめられていた蓬は、もう腕を解いてもらおうと身体を軽く捩りながら言った。 「君にはここにいてほしい。まだ気分がすぐれないんだ」 柊崎は、前髪をかき揚げながら嘆息する。 確かに、気分がすぐれなさそうな表情だけど…… 「はいはい。アルプリちゃん、私が持ってくるわ。あなたはこの駄々っ子の側にいてあげちょうだい」 杏子は蓬を離し、腰に手を当てて言う。 「だ、駄々っ子?」 軽く憤慨したように言葉を繰り返し、柊崎は杏子を睨む。 「あら、反論できて?」 にやにや笑いながら言われた柊崎は、しばしむっつりとして杏子を見ていたが、急に首を横に振った。 「……いえ、駄々っ子で構いませんよ」 柊崎ときたら、「ではよろしくお願いします」と、手を振って杏子を見送る。 杏子は、くすりと笑いドアの向こうに消えた。 「蓬」 ふたりきりになり、柊崎は蓬の顎に手をかけて、自分に向かせた。 那義に食事の支度をさせたうえに、杏子にまで紅茶を頼んでしまったなんて、彼女にすればいたたまれない。 「蓬」 「は、はい」 「君はいま、アンダー・バトラーであるならば。主人である私の命令を聞くべき立場だと思うが……違うか?」 「そ、それは……そうかもしれませんけど」 「『けど』は、必要ない」 「すみません」 「蓬」 「はい」 「十秒だけ、姫野蓬に戻ってくれ」 そう言った柊崎は、先ほどまで自分が着ていたと思われるスーツの上着を取り上げると、蓬の肩に着せかけてきた。 「じゅ、十秒?」 「ああ。十秒だけ……いいだろ?」 柊崎は蓬の頬に手を当てる。そして、そっと顎を持ち上げるようにしてふたりの唇を重ねた。 驚いて一瞬身を引いた蓬だったが、頭の後ろにも手を当てられ、身を引いた分引き戻される。 そのキスが十秒で終わったのか終わらなかったのか、甘い余韻にぼうっとなってしまっていた蓬にはわからなかった。 |