ハッピートラブル
happy trouble

続編


第11話 解任



「蓬」

柊崎の胸に頬を寄せていた蓬は、名を呼ばれて慌てて顔を上げた。

「は、はい」

焦って返事をしたものの、柊崎と目が合い、急激に羞恥心が増す。

キスの直後で、彼女の顔は真っ赤な筈だ。

こんな顔を柊崎にまともに見られるのは、恥ずかし過ぎる。

思わずさっと顔を伏せてしまったら、柊崎が顎の下にやさしく指を触れてきた。

抗うこともできず、顔を上げさせられてしまう。

仕方がないので、今度は目だけ伏せた。

「君の部屋に行って、他の服に着替えておいで」

き、着替え?

確かに、ここには蓬の部屋があり、着替える服も何着でも揃っている。

だが、那義に着るように命じられて、いまはアンダー・バトラーの役目をいただいてしまっているのに……勝手に着替えるのって、強烈に抵抗を感じるのだが……

「で、でも……」

困って口にしてしまい、柊崎の機嫌を損ねてしまったようだった。

「那義を気にすることはない」

眉を寄せている柊崎をチラリと見て、蓬は「は、はい」と返事をした。

「そうだ、青い花柄のワンピースがあっただろう? 君にきっと似合う。あれを着ておいで」

どうやら、もう着替えてくるしかないようだ。

那義の反応は気になるが、那義にしても柊崎の命令を聞く立場。

まあ、それであっても、那義は蓬にとって直属の上司的存在だし、彼には逆らいづらい迫力がある。

もちろん、柊崎の指示に逆らうこともできないわけで……

あーっ、板挟みだぁ。

当然柊崎の指示に従うけれど、那義がどう思うかが心配だし、ビビってしまう。

胸の内で悩みながらも、柊崎に言われるまま、蓬は彼と一緒に寝室から出た。

「私は書斎で……」

口にしていた柊崎が、何かの気配を察したかのように視線を余所に飛ばした。

なんだろうと彼の視線を追うと、那義の姿があった。

着替えをすることに後ろめたい気分でいたから、なんとも気まずい。

そうしている間に、那義は歩み寄ってきた。

「どうした? もう夕食ができたのか?」

柊崎が那義に問いかける。

主従の関係で、あるべき姿なのだが……

柊崎の隣にいる蓬は、那義の目をまともに見られず、もじもじしてしまう。

本当なら、自分が夕食を作らなければならないのに、那義にさせてしまっているのだ。物凄ーく居心地悪い。

本心は、那義に向けて、『すみません』と頭を下げたい。

「いえ、まだです。もう少しお待ちください」

「そうか」

そのふたりのやりとりの間に、蓬は柊崎の少し後ろに下がり、柊崎に気づかれないように、那義の視線が自分に向いた一瞬を捉え、『すみません』と口パクした。さらに、マッハで小さなお辞儀もつけ加える。

気の咎めにいたたまれずにやったものの、那義のほうになんの反応もなく、今度はいまやったことに対して後悔が湧く。

まあ、那義さんがなんらかの反応をしたとしたら、柊崎さんにバレて困るわけだけど……。

あー、なんか、もう、どうしていいのか。

わーかーんーなーいーーーっ!!

「蓬、どうした?」

身悶えしていた蓬は、突然柊崎に声をかけられ、ぎょっとして姿勢を正した。

「は、はいっ?」

「早く着替えておいで」

あわわっ!

目を泳がせたあげく、那義の反応を窺ってしまう。

那義がじっと見つめてきて、蓬は息を止めた。そんな彼女の反応が面白くなかったのだろう、柊崎が「蓬」と咎めるように呼びかけてきた。

「は、はい」

半分泣きそうになりながら、蓬は返事をした。

「姫野君」

「は、はい」

「ご苦労様でした」

那義のその言葉に、蓬は「へっ?」と叫んでしまった。

「アンダー・バトラーのお役目ですよ。ご苦労様でした。任を解きましょう」

ということは? き、着替えてきていいということよね?

「もういいんですか?」

「ええ。もう充分でしょう。ねぇ、若」

「ああ、充分だ。……那義」

「はい」

「私よりお前のほうが、彼女にたいして影響力を持つように思えてならないが……お前、そこのところをどう思う?」

柊崎は腕を組み、那義にずいぶんと冷たい目を向けた。だが、那義はまったく意に介さず、澄まして首を横に振る。

「それは、それぞれの立場の違いからくるものでしょう。姫野君を平社員とするなら、私は課長、若は社長。平社員にたいする影響力は、課長の方が大きい。さらに付け加えれば、社長は、課長に多大な影響力を……」

「もういい!」

那義の言葉を遮断するように、柊崎が叫んだ。那義はぴたりと口を閉ざす。

「ところで那義、杏子さんはどうしたんだ? 紅茶を淹れてくると言って出ていたんだが」

「それが、大奥様が夕食を作るとおっしゃられて、私はキッチンから追い出されてしまったのです」

あらら。

柊崎がぷっと噴き出した。

「そうか。確かにそのほうがよさそうだな」

「若、それはどういう意味でおっしゃっておいでですか?」

那義は澄まし顔で言ったが、むっとしているのが伝わってくる。

「そのままの意味に決まっている。お前より、杏子さんのほうが料理は上手い」

那義は無言で眉を上げ、くすっと笑った。

「ほら、蓬、着替えておいで」

「はい」

今度は素直に従い、蓬は自分の部屋に向かった。





   

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