ハッピートラブル happy trouble 続編 |
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第5話 なんでかレッスン ユールと別れた蓬は、すぐさまエンジェルカフェから離れ、急いで携帯を取り出した。 ようやく柊崎さんに電話できる。声が聞ける。そう考えるだけで、胸がきゅんとする。 いまはまだ仕事中だろうけど……出られるようなら電話に出てくれる。 わたしからの電話は、なにより優先してくれるし、今日もきっと…… 期待を胸に、ドキドキしながらかけたものの、電話は通じなかった。 電源を切ってしまっているのか、はたまた携帯の通じない場所にいるのか…… 「なんだ……残念」 期待のぶんだけがっかりしてしまい、蓬はしょんぼりと肩を落とした。 そのあとも、アパートに向って歩きながら、何度もかけてみたけれど、結局通じぬまま帰り着いてしまった。 柊崎さん、いったいどうしたんだろう? 会社にいるのなら、電源を切ったりしないはず……となると、外出してるのかな? 那義の部下である吉野が、柊崎の秘書代理を務めているのだが……蓬は吉野の電話番号を知らない。 那義か弥義に連絡を取れば、柊崎がどこにいるかわかるだろうけど……なんの用事かと問われても、答えようがない。 『声を聞きたいだけなんです』なんて、恥ずかしくて口にできないし…… 電話をかけるのは諦めよう。それよりさっさと柊崎さんのマンションに行こう。 夕食を作りながら待っていれば、すぐに帰ってくるはずだ。 朝の電話で、今日は早めに帰るって言ってたし…… 立ち止まっていた蓬は、携帯を握り締め、小走りで部屋に向かう。 外階段の前に来たところで、目の前にすっと人が現れ、突然行く手を遮られた。 ぎょっとして足を止める。 「な、那義さん!」 いつもと同じ、かっちりとした派手なデザインのスーツを着た那義が、背筋をぴんと伸ばして立っている。 那義がアパートに来たのは、これが初めてのことではないが、現れ方があまりにも唐突。 あー、このひと、本当に心臓に悪い。 心臓がバクバクし、驚いた拍子に息を止めていた蓬は、どっと疲れを感じて息を吐き出した。 「どうしたのですか?」 無表情で那義が聞く。 ――それはこっちの台詞なんですが。 「いえ、驚いただけです」 正直に言うと、那義は軽く頷いて口を開いた。 「お待ちしていましたよ。さあ、こちらに」 腕に軽く手を添えるようにして促される。 見ると、促された先には黒塗りの車が駐車してあった。 マンションに行く前に済ませておきたい用事もあったのだが……部屋の掃除とか、夕食の準備とか…… 蓬は、柊崎たちの夕食を作ってはいるけど、自分は一緒に食べない。 柊崎は一緒に食べたがっているけど、彼の祖母である杏子から、夕食は別々に取ること、そして蓬は八時までに帰宅するようにと申しつけられている。 蓬が女だということを柊崎が知ったからには、独身男のマンションに夜遅くまでいるのは、よろしくないということなのだ。 確かに、制限を設けてもらえて良かったんじゃないかと思う。 蓬だって柊崎と一緒にいられるのなら、ずっと一緒にいたいわけで、制限がなければ、ずるずると柊崎のマンションで過ごしてしまうに違いない。 「どうしました?」 考え込んでいた蓬は、その問いかけに我に返った。すでに車のところにいて、那義は運転席のドアを開けてこちらを見ている。 「あ、はい」 慌てて車に乗り込んだ蓬は、そんな自分に対して顔をしかめた。 どうしても那義には緊張してしまう。 それにしても、これからどこに連れてゆかれるのだろう? 那義は何も言わずにエンジンをかけ、車をスタートさせようとしている。 「あ、あの、那義さん。いったい何事なんですか?」 またやっかいごとを持ち込まれるんじゃ? 不安に思ったところで、思い出した。 そ、そうか、あのかなり失礼な態度だった濡れネズミ貴公子のことに違いない。蓬のほうに、那義から連絡が入るだろうと、弥義が言っていたんだっけ。 あのひとは、わたしが男か女かを突き止めろとの指令を受けたってことだったけど…… 「わたし、何かしなきゃならないんですか?」 「今日の夕食は三人分作ってください。お客様がおいでになりますので」 「お、お客様?」 三人分ということは? 柊崎と那義のぶんとお客様の…… 「貴女も一緒にとのご要望です」 「わ、わたしも……ですか?」 でも三人分って? 「姫野君」 「は、はい」 「お客様が誰だか、わかりましたか?」 「えっ?」 戸惑った。そんなもの、わかるわけがないし…… 「いえ、わかりませんけど……」 「やれやれ。姫野君、即答する前に少しは考えなさい」 叱責するように言われてしまい、蓬は恥ずかしくなり身を縮めた。 「す、すみません」 「手にしている札から答えを導き出す力は、常に熟考することで身につくのですよ」 那義ときたら、まるで教師の説教のようだ。 きっと那義は、自分が養成している部下に対して、こんな風に指導しているんだろうけど……わたしは、那義さんの養成している部下とかじゃないし…… 「貴女は将来、若の奥方となるお方です。それなりくらいには、若に相応しいだけの素養を身につけていただけると、私としても安心なのですが」 「す、すみません」 くどくどと小言を食らい、なんとも複雑な気分に陥ったが、奥方という言葉に反応して顔が赤らむ。 那義は先ほどの問いの答えを待っているのか、黙って運転している。 お客様が誰かなんてわからない。だいたい、これまで一度も、お客様など迎えたことがないのだ。 あっ、そうだ。そんなことより…… 「あの、那義さん。柊崎さんに何度か電話したんですけど、ぜんぜん繋がらなくて……どうしてかなって気になってるんですけど」 「ふむ。……そうですね。これはいいレッスンになる。姫野君、手にしている事柄から、答えを導き出してご覧なさい」 えーーっ! 蓬は反論を込めて反抗的に叫んだ。 もちろん、心の中で…… だって、そんな回りくどいことしなくたって……那義が教えてくれたら、それで済むのに…… わかりませんよと言い返したい気持ちを、ぐっと抑え込む。 そんなことを言ったりしたら、また心が折れるほどの小言を食らってしまうかもしれない。 はあー、仕方がない。 ここは那義に従い、答えを導き出す努力をするしかなさそうだ。 えっと…… 柊崎さんに電話したけど繋がらない。 ということは、柊崎さんは携帯の電源を切っているか、繋がらない場所にいる。 まず……電源を切る必要があるとすれば…… えーっと…… 切らなきゃらない場所にいる? でも、そんな場所ってあるっけ? マナーモードにしなきゃならない場所なら、いくつでも思いつくけど…… つまり、切らなきゃらならないじゃなくて…… あっ、ちょっとぴんときたかも! 「那義さん、柊崎さん、携帯が故障したんじゃないですか?」 勢いよく言ったが、那義は返事をしてくれない。 静まり返った車内の空気が重苦しい。 「……それが熟考の結果、貴女が導き出した答えですか?」 「い、いえ……考えてたら、ちょっと思いついて……それが正しい気がしたというか……」 「正しい気がした……ね」 呆れたような口調に、蓬は身を小さくした。 「ち、違うんですか?」 「私の態度から見て、それは聞くまでもないのでは?」 「た、確かに……」 やっぱり、このひと苦手だよぉ。 あー、早くマンションにつかないかなぁ。 もう目と鼻の先なのだが……一秒一秒がやたら長く感じる。 「早く考えなさい。もうマンションに着いてしまいますよ」 いや、こっちは、さっさと着いてほしいんですってば。 そう胸の内で答え、仕方なく、再び考え込む。 携帯を切らなきゃならない場所……? あっ、病院! そうだわ、病院がある。 えっ? それがほんとだと…… ま、まさか柊崎さん、倒れたんじゃ? 病院に運びこまれて、だから携帯の電源を切ってて…… 「まさか、倒れたんですか?」 「ようやくですね」 肯定の返事をもらってしまい、一瞬息が止まる。 「ええっ!」 大きく息を吸い込み、蓬は叫んだ。 「ど、ど、ど、どうしよう。倒れたなんて、柊崎さん、いまどこに?」 「そこに」 へっ? そ、そこって? 蓬は座席の間から顔を出し、那義を見た。那義は、前方に向けて指をさしている。 蓬は前方の車を見つめた。 後部座席に人の頭が見えるけど……まさか、あれが? 「えっ、あれって、柊崎さんなんですか?」 「ええ。先ほどの交差点で、たまたま一緒になったのですよ」 眉を寄せて、それが柊崎か確認してみる。 確かに、柊崎っぽいようだ。 なんて偶然。いや、ほんとに偶然なんだろうか? けど……後部座席に座っているのはひとりじゃない。ひとりは明るい栗色の髪をしてて……な、なんか……女のひとみたいなんですけど…… そのとき、栗色の髪をしたひとが、柊崎らしき人物の頭へと腕を伸ばした。そして、彼の髪に馴れ馴れしく手で触れる。 ズキンと胸に痛みが走った。 さらに、柊崎らしき人物は、栗色の髪のひとに振り向いたのち、軽く頭を寄せた。 嘘…… な、なんで柊崎さん……他の女のひとに…… 胸が潰れそうなほど傷んだ。 「どうしたんですか? 姫野君、君、顔色が悪いようですが」 「あ……の……しょ、食事……一緒に食べる人って……あの」 心に受けたショックから、震える唇でそこまで口にしたところで、ハッと気づいた。 栗色の髪のひとって……も、もしや? 「あの、那義さん」 「なんですか?」 「杏子さん、髪染めました? 明るい栗色に」 「確かに、それは見て明らかですね」 ひょいと前方を指し、那義はこれまでになく、朗らかに言う。 疲れを感じて、蓬は座席にもたれた。 絶対、那義さんに嵌められたんだわ。 「うむ。いまのは良い答えでしたよ、姫野君。十ポイント差し上げましょう」 十ポイント? なにが十ポイント? そんなことじゃないし! もおーーーっ! 悔しさが突き上げてきてならず、蓬は運転している那義に気付かれないように地団太を踏んだのだった。 |