ハートに薔薇色のときめき 
第1話 危険な笑み 〜 祥子 〜



「本川君」

書類に目を落としていた本川祥子は、その声にドキンとし、顔を上げた。

声をかけてきたのは、祥子の直属の上司、石見亮介だ。彼の姿を目にし、祥子の胸がきゅんとする。

「はい」

祥子はいつものように無表情で答えた。まるでときめきなど感じていないように……

「滝野が夕食をと言うんだが……君、行けるかい?」

亮介の誘いに、嬉しさが膨らむ。祥子は即座に「もちろんです」とクールな口調で答えた。

「やったー」

亮介の隣にいる滝野錦司が、ぴょんと跳び上がりながら叫ぶ。

仕事に集中しすぎて気づいていなかったが、滝野は、退社後に三人でご飯を食べようと、亮介に言っていたようだ。

滝野は、祥子と同じく亮介の直属の部下。彼女より一年先輩だ。

悪い人ではないのだが、お調子者でかなり騒がしい。

彼は亮介に懐いているのだが、亮介のほうは騒がしい彼とふたりきりの食事など疲れてしまうのだろう、滝野に声をかけられたときは、いつも祥子を誘ってくれる。

彼女が酒を飲めないというのも、誘ってもらえる理由のひとつ。

亮介も滝野も酒を飲まない。
滝野などは外見は酒豪のように見えるのに、体質的に受けつけないということで、一滴も飲めない。

亮介は付き合い程度は飲めるようだが、酒が好きではないらしい。

亮介に特別な好意を寄せている祥子としては、こうして誘ってもらえることが嬉しくてならない。

滝野からは、仕事でしばしば迷惑をかけられるけれど、夕食のきっかけを作ってくれることだけに関しては、感謝したいくらいだった。

今夜、また亮介と一緒にご飯が食べられる。祥子は心を弾ませながら、残りの仕事に取りかかった。

「和食かぁ。俺、もっとパンチのきいたもんが食いたいんっすけど」

チョキの形の自分の手を見つめながら、滝野が不服そうに言う。

何を食べるかでジャンケンをし、祥子が勝って、今夜は和食ということになったのだ。

「負けたんだ、素直に諦めろ。お前の好みに合わせてたら、毎回こってりしたものばっかりになる」

亮介に叱られて、滝野は拗ねたように唇を突き出す。

大男のうえに、ごつい顔をした滝野のふくれっ面に笑いが込み上げそうになり、祥子は顎にぐっと力を入れた。

亮介の前で、絶対に笑うわけにはいかない。笑ってしまったら、彼に気味悪がられてしまう。
そんなことになったら、彼女は生きていけなくなる。

祥子の笑顔は、ひどく薄気味悪いらしく、人様に嫌悪感を与えてしまうのだ。

『祥子ちゃんさ、笑うと顔が怖いよ。みんなも気味が悪いって言ってるし……だから笑わないほうがいいよ』

小学生のとき、仲の良かった子が、打ち明けるようにして教えてくれた真実。
そのときのことを思い出すたび、祥子の胸はずくずくと痛む。

笑わないほうがいいよと、注意してくれた友達は、祥子のためを思って言ってくれたのだろう。

だけど……その真実は、祥子に生半可でないショックを与えた。

それ以来、彼女は笑みを浮かべるのをやめた。
表情を変えないようにするのが一番楽だったから、無表情に徹した。

娘が笑わなくなったことに両親は眉をひそめ、もっと笑うようにしろとたびたび注意してきたが、高校生くらいになると、無表情の祥子に慣れてしまったらしく、小言を言われることもなくなった。

ほとんど表情を変えない祥子は、女の子たちから敬遠された。

親しい友達もできず寂しくてならなかったが、気味悪がられるよりましと、自分を慰めた。

いまの会社に入社して二年目になるが、親しい友人なんて夢のまた夢……それどころか、ひどく嫌われてしまっている。

実際陰口を耳にしてしまったこともある。
笑顔を浮かべない祥子は、はたから見ると、とっつきにくく、ひどく怖いようなのだ。

それでも……気味悪がられるよりは……マシ……よね? 

ありがたいことに、男性社員たちのほうは、不思議と彼女に話しかけてくれる。

彼らは、祥子が笑おうが笑うまいが、別に構わないらしかった。
この無表情も怖くないらしい。

たぶん、亮介と滝野のおかげだ。彼らが祥子を普通に受け入れてくれているのを見ているから、あまり怖がらずに話しかけてくれるのだろう。

女の子の友達を持つことはもう諦めているが、それでもやっぱり憧れを捨てられずにいた。女子社員の中で浮いた存在になり、敬遠されて完全に孤立してしまっているとしても……





食事は美味しかった。
和食に難色を示していた滝野も、楽しそうに話しながら豪快に食べている。

「滝野、少しは静かに食べられないのか? 周りに迷惑だぞ」

「えーっ、俺、迷惑になるほど騒いでないっすよ」

「騒いでない? 機関銃みたいに言葉を連射してるやつが、よく言う」

亮介と滝野の愉快なやりとりを眺めながら、祥子は小さく微笑んだ。

その瞬間、亮介が祥子のほうを向いたので、彼女は反射的に笑みを消す。

亮介が、やわらかに微笑みかけてきた。

その笑みにハートを射抜かれ、祥子の息が止まる。

亮介はもっと自分を知るべきだと思う。
彼は自分がどんなに破壊的な笑みを浮かべているか、まるでわかっていない。

彼は、笑顔が浮かべられない祥子とは真逆で、どんな女性のハートもとろけさせるような魅力的な笑みを浮かべる。

笑顔に強烈なコンプレックスを持っているせいで、祥子は魅力的な笑顔の持ち主である亮介に、どうしようもなく惹かれてしまうのかもしれない。


「石見主任、送ってくださってありがとうございます」

アパートの前で祥子はお辞儀した。

「なんのなんの、気にすんなよ、本川」

亮介の車の助手席に座っている滝野が、大きな顔をして手を振ってくる。

「僕に言ってるのに、なんでお前が応える」

運転席の亮介が、滝野を睨みつけて文句を言う。亮介の言うとおりだと祥子も思うが、滝野は全然気にしていない。

ほんと、滝野さんってば、困った人だ。

車で出勤しているのは、亮介だけだ。
滝野は車を持っていないし、祥子は免許さえも持っていない。

三人で食事に行くとなると、当然のように亮介に乗せてもらうことになる。

祥子は、食事のたびに家まで送ってもらうことを申し訳なく思っているのだが、滝野は、これっぽっちも気にしていないらしい。

「本川君、寒いから早く家に入れ。風邪をひくぞ」

確かに、二月に入ったところで、外はひどく冷え込んでいる。けれど、亮介のやさしい心づかいに、寒さも吹っ飛ぶ。

その場では、「はい」と答えた祥子だが、結局、亮介の車が見えなくなるまで見送った。

彼の車が見えなくなった途端、寒さが身に染みてくる。

祥子は急いで部屋に入った。

亮介と過ごせて、今日もしあわせだった。食事も美味しかったし……

一人暮らしのアパートで、ひとり黙々とご飯を食べるのは寂しい。

本当は、毎日、亮介のやさしい笑みを眺めながら食事をしたい。でも、そんな考えは贅沢すぎる。
会社の女の子たちは、一度でいいから亮介と一緒に食事をしたいと願っているのだから。

彼の微笑みに魅力を感じているのは、祥子だけではない。
その証拠に、昨年のバレンタインデーに亮介が受け取ったチョコの数は、三十を超えていた。

どのチョコを誰から受け取ったか、書き留めたのは祥子だったのだから、忘れようもない。

たぶん、今年もその役目が回ってくるんだろう。

「はーっ」

思わず大きなため息を漏らすと、祥子は肩を落として淡い桃色のソファに座り込んだ。

このソファはついこの間購入した、いまの祥子のお気に入りだ。
彼女は可愛いものが大好きなのだ。

会社の女子社員が知ったら似合わないと笑うかもしれないけれど……。
もしかしたら亮介も祥子に可愛いものは似合わないと思うかもしれない。

祥子は再び深いため息を漏らした。


お風呂に入って温まった祥子は、急いでベッドに潜り込んだ。

「石見主任、おやすみなさい」

暗い空間に向けてそっと呟く。

すでに習慣となっている挨拶だ。

目を閉じれば、優しく微笑んでいる亮介が容易に浮かぶ。

石見主任に、この先もずーっと、恋人ができなければいいのに……

もし彼に恋人ができたら、もし結婚してしまったら……

その考えに、身が震えた。

そしたらもう、苦しすぎて、彼の側にいられなくなる。

でも、仕事を辞めるなんてことは、そう簡単にできない。
この先もずっと、彼女はひとりきりで生きていかなければならないのだ。

働かなければ生きていけない。
いま会社を辞めても、新しい仕事なんてそう簡単に見つかりはしないだろう。

そのときは……他の部署に異動願いを出そうか? 

柿沼恭弘のことが、頭に思い浮かんだ。
柿沼は亮介と同期。彼もまた他の部署の主任をしている。

彼は祥子の仕事ぶりを認めてくれているらしく、自分の部署にこないかとしきりに誘ってくる。

もちろん、いまはそんなつもり、さらさらないが……

もし、亮介が結婚……いや、恋人ができたら……

柿沼に頼めば、彼の部署に異動させてもらえるかもしれない。

未来への不安が、ほんの少しだけ和らいだ。

そんな未来など来なければいいと思うけど、一生、亮介が結婚しないなんてことはないだろう。

いずれ、彼は誰かと付き合い、そして結婚……

胸がつぶれそうに痛み、祥子は思考をストップさせた。

やめよう……

わざわざこんな辛いことを考えて苦しがるなんて……不毛だ。

祥子の頬に涙が零れ落ちた。

彼女は、指先で涙に触れ、馬鹿な自分を笑った。





  
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