ハートに薔薇色のときめき 
第2話 引っ越しの目的 〜 亮介 〜



「石見主任、お疲れさんでした。また明日っす」

助手席から降りた滝野は、夜中だというのに大声を出す。

まったく、こいつほど神経が図太いやつは、そうそういまい。

「少しは声を抑えろ。近所迷惑だぞ」

「えーっ、俺、そんな大声出してないしぃ」

心外とばかりにむくれて言い返してくる滝野に、亮介は心が折れた。

こいつには、何を言っても無駄だ。

「それじゃな」

「はーい。主任、気をつけて」

無邪気に大きく手を振られ、亮介は半笑いで手を振り返すと、すぐに車を出した。

確かに滝野に難点はあるが、それでも充分亮介の役に立ってくれているのだ。

不本意だが、奴には感謝すべきだろう。

滝野がいるからこそ、祥子を自然に誘えるのだし、彼女も気軽に誘いに応じてくれるのだ。

運転しつつ、亮介は笑みを浮かべた。

今日も祥子は美しかった。

自分は特別面食いというわけではないつもりだが……彼女の顔を目にすると、亮介は思わず見入ってしまいそうになる。

あんな顔が自分の好みだったのだなと、いまさら思う。

二年前、入社してきた祥子を初めて見た日から、亮介の心は彼女に囚われている。

祥子が自分の部署に配属されたと知った瞬間など、危うく跳び上がりそうになったほどだ。

感情のこもらない独特の話し方と、クールな性格。
整った目鼻立ち。目を引くほど長いまつげ。
引き締まったウエストに、すらりと伸びた脚。ほどよくふくらんだ胸。

何もかもが亮介を虜にする。

もちろん亮介は、祥子との距離を詰めたい。だが……

彼女の反応を見るに、祥子が彼に対して上司以上の気持ちを持っているとは思えなかった。

この二年、なんの策も取らなかったわけではない。さりげないアプローチを何度もしてきた。

だが……まるで効果はなかった。

彼女への好意を伝えようと微笑んで見せたときは、あからさまに引いていたし、ワザと勢いよくぶつかって、抱き締めたときも、哀しいほど華麗にスルーされた。

それでも、嫌われていないとは思う。

少なくとも、嫌悪されてはいない……はず。

彼のことを嫌いなら、いくら上司の誘いだからって、こう頻繁に一緒に食事をしてくれたりしないだろう。

頭の中に滝野の顔がひょいっと浮かび、亮介は顔を歪めた。

まさか、あの厚顔無恥な滝野を好きなんてことは……ないよな? 

絶対にありえてほしくない想像を、亮介は切って捨てた。あんな奴に男として負けるなんて、プライドが崩壊する。

むっとした顔で運転している自分に気づき、亮介は気を取り直そうと、深呼吸した。

注意すべきは滝野などではない。亮介と同期の柿沼。奴のほうだ。

柿沼は祥子に好意を持っているようだ。たぶん、亮介同様に、彼女が入社してきたときから。

ことあるごとに柿沼は祥子の仕事ぶりを褒めるし、自分の部署に来ないかと繰り返し彼女を誘っているらしい。

頭がよく、仕事もできて、見た目もいい。

いささか変人ではあるが、そういうおかしなところが不思議とひとを引きつける。それが柿沼という男だった。


車をマンションの駐車場に止め、自分の部屋に向かっているところで携帯が鳴った。

相手を確認し、携帯を耳に当てる。

「亮介、いまどこにいる?」

きりっとした声の主は、松田修治。亮介の高校時代からの親友で、従妹のめぐみの夫でもある。

「うん? ああ、なんだ来てたのか?」

亮介の部屋の前で携帯を耳に当てている修治の姿が見えた。

「修治、こっちだ。いま行く」

こちらに振り返り、亮介の姿を確認したらしく、修治が手を上げてきた。

「いま来たところか?」

亮介は駆け寄ると、玄関の鍵を開けながら尋ねた。

「ああ。いいタイミングだったみたいだな」

家に入って何より先に暖房を入れると、亮介は飲み物を用意するために、キッチンに入った。

修治は居間のソファの、互いの顔が見える位置に腰かけ、すぐに話を切り出してきた。

「頼まれてた物件だが、思ったより早く完成した」

「本当か?」

笑顔を浮かべた亮介は、勇んで聞き返した。

「ああ、入居開始が二週間早まった。亮介、どうする?」

「もちろん、すぐに引っ越すさ」

コーヒーを淹れながら、機嫌よく答えた。

修治は不動産屋で、亮介は彼に新しい住まいを探してもらったのだ。

別に、いま住んでいるこの部屋に文句があるわけではなかった。

彼が引っ越す目的は、ただひとつ。それは、祥子のご近所さんになること。

亮介の希望にぴったりの物件はすぐに見つかったものの、そのときはまだ建築途中だった。

半年以上待たなければならないと知り、別の物件も探してもらったが、祥子のアパートに近いところには他にいい物件がなかった。

どうせ引っ越すのなら新築のマンションのほうが居心地もいいし、仕方なく完成を待つことにしたのだ。

「ほんとに最上階で良かったのか?」

「いいさ。高みで暮らすという経験も悪くない」

あの高さからなら、祥子の住むアパートも見えるかもしれない。もちろん、彼女の生活を覗こうなどと不埒なことは考えていないが。

「ここも悪くないと思うんだが……」

コーヒーカップを受け取りながら、修治が言う。

「それにしても、片付いてるよな。この部屋が男のひとり所帯だなんて、誰も思わないぞ」

まるでけなすように言う。

亮介は声に出して笑った。

「掃除は苦にならないんでな」

「おかしなやつだよな、お前って。料理はそこいらのレストランよりうまいときてるし……」

そう言った修治は、愉快そうに笑い出した。

「めぐみのやつ、お前が越してくるのを手ぐすね引いて待ってるぞ。ほんとに、あそこで良かったのか?」

従妹のめぐみはまるで遠慮のないやつで、亮介のところにやってきては、ご飯を食べさせろと横柄に言う。

さらには自分の家の夕食まで作らせたり、ケーキを作らせたり……

今度引っ越す先に難点があるとすれば、それは修治たちの家が、ここよりもかなり近くなるということ。

めぐみには悩まされることになるだろう。だが、祥子を手に入れる可能性が増すのなら、甘んじて受け入れるつもりだ。

「まあ、お前が近くに住むようになれば、ちょくちょく酒も飲めるだろうし、俺は大歓迎だけどな。しかし、うまいな。このコーヒー」

「そうか」

亮介は自分もコーヒーを口にしながら、近づきつつある引っ越しの手順について考え込んだ。





   
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