ハートに薔薇色のときめき 
第3話 花丸でしあわせ 〜 祥子 〜



「ねぇ、もう用意した?」

「用意って……ああ、チョコのこと?」

チョコという単語に思わず反応し、祥子は着替えの手を止めた。

仕事が終わり、更衣室は賑やかな会話で溢れている。彼女の背後で会話しているのは、三人の後輩たちだ。

「決まってるじゃん。もう来週だもんね。あちこちの特設売り場を見て回ったんだけど、この間オープンしたばっかのショッピングモール、あそこが一番だったよ」

「ああ、わたしもあそこに行こうと思ってたんだ」

「ならさ、一緒に行かない?」

「えーっ、わたしたちライバルなのにぃ」

「ライバルねぇ……」

そう言った後輩は、「あんたさぁ」と、ぐっと声を潜めた。

「本気で石見主任にチョコを渡す気なの?」

「べ、別にいいでしょ」

「聞いたじゃん、先輩から。石見主任は、本気のチョコは受け取らないって」

周囲の騒がしさにかき消されてその言葉は周囲の女子社員たちには届かなかったようだが、三人のすぐ後ろに立っている祥子には筒抜けだった。

話の内容が亮介のことだったから、聞くまいとしても耳に入ってしまうのかもしれない。

「あんなの本当かわかんないもん。ライバルを減らそうっていう、先輩たちの策略じゃないかと思うんだよね」

「策略ねぇ……けど、まあ、あんたじゃさ……」

「そうそう、遠目に憧れるだけにしといたほうがいいって」

「えーっ、あんたら、それひどくない?」

むっとしたような声のあとに笑い声が上がった。
その後も、きゃいきゃい言いながらの会話が続く。

三人の楽しげな様子を羨ましく思いながら、祥子は知らずため息をついていた。

亮介は、この社の女子社員の憧れの的だ。
そんなひとを相手に、自分が恋心を抱いているなんて、滑稽かもしれない。

それでも……

好きなものは好きなのだ。
好きな気持ちはどんなにあがいたって捨てられないし、彼の側にいることで、さらに好きという気持ちが膨らんでいくのも止められない。

突然、背中にドンという衝撃を食らい、祥子はよろめいた。

「わわっ!」

驚いて振り向くと、楽しそうに会話をしていた後輩たちが、恐れおののくように祥子を見ている。

「も、本川先輩……す、すみませんでした」

このくらいのこと、別にどうということもない。

「いいえ」

なんとも思っていないということを伝えるためにそれだけ言って顔を前に戻すと、祥子は着替えを再開した。

「ほ、ほ、本当にすみませんでしたっ」

怯えきった声に祥子は驚き、思わずまた振り返ってしまう。

目が合った途端、後輩は「ひっ」と悲鳴を上げ、恐怖に顔を引きつらせた。

「別に……何も気にしていないわ」

祥子は自分の気持ちを正しく伝えようと口にした。だが、それすら事態を悪化させただけのようだ。

先ほどまでの賑やかな声は途絶え、更衣室の中は、いまや凍りついたように静まり返っている。

またやってしまったようだ。
自分のせいで……またみんなに嫌な思いをさせてしまった。

そんなつもりなど、まったくないのに……

泣きそうになった祥子は、ぐっと涙を堪えた。

先に着替えを終えた三人の後輩たちは、逃げるように出ていった。

彼女たちがいなくなっても、部屋の空気は元に戻らず、気まずさに押しつぶされそうになりながら着替えを急ぐと、祥子も更衣室から出た。

ドアが閉じた途端、更衣室の中がざわめく。

「ひゃーっ、相変わらず怖いわ、クールビューティ本川。更衣室の中が、北極になったかと思った。この鳥肌見てよ」

楽しげに嘲る声が聞こえた。ドアの外に声が漏れることなど気にしていないらしく、辛辣なコメントはまだ続く。

「ほんと、うっざいよね。男にばっかり取り入っちゃって。あんな女の敵、さっさと辞めちゃえばいいのに」

彼女は耳を塞ぐようにして、その場から去った。


「あら、本川さん」

廊下を急いでいた祥子は、急に呼び止められ仕方なく立ち止まった。

他部署の先輩が三人、立ち話をしていたようだ。

「なんでしょうか?」

声をかけてきた先輩は、祥子をじろじろ見てくる。

「ねぇ、あんたさ。また石見さんにくっついてるつもりなわけ?」

くっついて? 

確かに、仕事で補助をしているので、仕事中は彼の側にいるし、昼食も滝野も加えた三人で食べるのが日課になっているから、くっついていると言われればそうだろう……

「そんなに邪魔したいわけ?」

「邪魔……ですか?」

意味がわからず、祥子は問い返した。

「邪魔に決まってるじゃない。チョコレートを渡そうっていうときに、あんたがぴったりくっついていたんじゃ、せっかくのイベントも台無しってことよ」

バレンタインデーのことを言われているのだと、ようやく気づいた。

「そうでしたか……すみません」

ですが、と続けたいところだったが、祥子は口を閉ざした。

反論しても、いい結果は生まれないだろう。

確かに昨年のバレンタインデー、祥子は亮介にくっついて歩き、彼に頼まれた仕事をした。
受け取ったチョコの管理とくれた相手のチェックを頼まれたのだ。

もちろん仕事ではないが、そこは上司の頼みだし、言われるまま引き受けたのだが……

女子社員たちには、良く思われていなかったらしい。

よくよく考えてみれば、確かに先輩の言葉も頷ける。

もし祥子が亮介にチョコを渡そうとして、彼の側で名前をチェックしている女性がいたら、心が萎える。

「ほんと、あんたって最低な女よね。女心なんてまるでわかってないし」

「あんたたち、わたしに言わせりゃ、この本川に女心を期待するほうがおかしいっての。もとから感情がないのよ、感情が。なーにがクールビューティ本川よ。笑わせるわ」

「男には人気あるもんねぇ。この無表情がたまんないんだってさ」

「男をはべらせて女王様気分か。さぞかし気持ちがいいんでしょうねぇ」

祥子が俯いた、そのときだった。

「本川先輩っ! こんなところにいらっしゃったんですかっ!」

急に大声が聞こえ、祥子は後ろを振り返った。

声をかけてきたのは、顔と名前は知っているものの、親しいと言うほどではない後輩だ。

彼女は小走りで駆け寄ってきて、祥子の手首を掴むと、「早く来てくれないと困りますよぉ。さあ、こっち、こっち」と叫びながら、駆け出す。

腕を引っ張られた祥子は、呆気に取られたまま一緒に走った。

角を曲がり、他の部署に連れ込まれる。

「おーっし、園島、よくやった」

そこにいたのは柿沼だった。
そして、祥子を引っ張ってきたのは、柿沼の部下である園島都美子。

「あ、あの……柿沼主任、何か御用でしょうか?」

戸惑いながら問いかけた途端、柿沼がずっこける真似をした。

隣の園島も付き合うようにずっこけるふりをする。

「君がこわーい先輩に捕まって、のっぴきならない窮地に陥っていたようだったから、助けを差し向けたんだが」

「えっ?」

助けてくれたのか? ふたりして? 

喜びよりも、驚きのほうが大きかった。

園島は頬を染め、達成感に満ちた笑顔を浮かべている。

「もおっ、勇気ふりしぼりましたよ。あの先輩たち、怖すぎなんですもん。まだ足が震えてます。柿沼主任から、行ってこいって命じられて、生きた心地がしませんでした」

「よく言う。俺が言う前から、助けたがってたじゃないか?」

「そ、それは……だって、見てられませんよ」

「正義感バリバリだもんな、園島」

「みんな一緒ですよ」

「そうかぁ? そうは思えないけどな」

「あ、あの……気を使っていただきまして、ありがとうございます」

祥子はふたりに向けて頭を下げた。

助けてもらえるなんて……それも、同性の園島に……それが何より嬉しかった。

「本川先輩、やっかまれてるんですよ。あの素敵すぎる石見主任の側にいられるから」

「素敵すぎ……か?」

「いま、鼻で笑いましたね?」

園島は柿沼の言葉にむきになって言い返す。

「そこで睨むな」

「別に睨んでなんか……」

顔を赤らめて拗ねている園島を、祥子は憧れの目で見つめた。

本当に、可愛いひとだ。長いまつげはくるんとカールし、大きな目が愛らしい。

感情のままにくるくると変わる表情、そしてチャーミングな笑顔。

祥子がこうありたいと願う女性像だ。

あまりに完璧で嫉妬する気にもならない。

祥子の部署の男性社員の中にも、彼女に好意を寄せている者は多い。

「それで? 本川君、そろそろ部署異動する気になってないか?」

「なるわけないですよ。あんな素敵な上司の下で働けてるのに、柿沼主任みたいな、部下をこき使うひとのいる職場になんて……」

「こいつ、言ったな」

「真実ですからね。いくらでも言いますよっ」

柿沼と園島ときたら、掴み合い、揉み合いながら互いをけなし始めた。

ふたりの愉快すぎるやりとりに、祥子は無意識にくっと笑った。

掴み合っていたふたりが、音を立てる勢いで振り返る。ぎょっとした祥子は、笑いを引っ込めてふたりと見つめ合った。

「見たか?」

「み、見ました……」

それは囁くようなやりとりで、祥子には聞こえなかった。

「あの……? どうかしました?」

自分が笑ったことに気づかない祥子は、いつもの無表情でふたりに問いかけたのだった。





自分のアパートの部屋で夕食を終えた祥子は、箸を置いてため息をついた。

今日は色々あった。
更衣室での出来事。そして廊下で先輩たちに言われた言葉……。

言葉はきつかったが、ああ言われても仕方がないと思う。だから、恨む気持ちも湧かない。

それでも、あの場から救い出してくれた園島と、その指示を出してくれた柿沼には感謝とともに、嬉しさが込み上げる。

特に、同性の園島。あれほど好意的に接してくれた女性など、これまでひとりもいなかった。

あのあと柿沼に誘われ、祥子たち三人は喫茶店でお茶をした。

園島と友達になれたなどと、おこがましいことは思っていないが、それでもただの先輩後輩という間柄よりは親しくなれたのではないだろうか?

バレンタインデーか……

先輩たちの言葉で、昨年の祥子の行動は、亮介に憧れている女子社員たちに嫌な思いをさせてしまっていたことがわかった。

今年は、頼まれたとしても、断らないと。

あの役目は、滝野にしてもらえばいい。

だいたい今年は、チョコを渡す彼女たちに、祥子も交ざるつもりでいるのだ。

今年は、絶対にチョコを手渡す。そして、キャンディーボックスを手に入れるのだ。

「そう、キャンディーボックス……」

無意識のうちにその言葉が唇から零れ出たことに、祥子は苦笑いした。

昨年、祥子は亮介にチョコを用意しなかった。

バレンタインデーという行事そのものに、当日になるまで気づかなかったのだ。

山ほどのチョコを受け取っている亮介を、どんな気持ちで見守ったか……

ただ、亮介は、チョコを差し出す全員に、「これは義理だね?」と問いかけ、そうだという答えをもらってからしか受け取らなかった。

どう見ても、本命としか思えないチョコを差し出している子たちも、あの魅力的な笑みで問いかけられ、顔を強張らせながらも「そうです」と答えていた。

亮介に恋人ができなかったことにほっとしたが、ひと月後のホワイトデー、祥子は泣くほど後悔する羽目になった。

その日、亮介は大きな紙袋をふたつ提げて出社してきた。

その中には、なんとバレンタインデーにチョコをくれた子たちに渡す、キャンディーボックスが詰まっていたのだ。

もちろん、亮介にチョコをあげなかった祥子に、そのキャンディーボックスをもらう権利はない。

なのに祥子は、キャンディーボックスを配りに行く亮介に、付き添わねばならなかったのだ。

嬉々としてキャンディーボックスを受け取る女の子たちを眺める苦行。

それから数日、祥子はがっかりしすぎて魂が抜けたようになった。

だが、今年は違う! 

祥子はぐっと手を握りしめ、心の中で宣言した。

絶対にチョコを渡し、キャンディーボックスをゲットするのだ。

祥子は勢いのまま立ち上がり、壁に貼ったカレンダーに歩み寄った。そして、十四日に付けた、赤い大きな丸を凝視する。

もうすぐだ! 

覚悟を胸に秘めて、ひとり頷く。

今度の週末にはチョコを買いにいかなければ。

亮介だけにチョコを渡すわけには行かないから、滝野にもあげるとしよう。

祥子は眉を寄せて考え込んだ。

滝野にあげるとなると……やはり同じ部署の人たちにも、あげないわけにはいかないだろうか?

最大、何人くらい欲しがるだろう?

せいぜい五人くらいかしら? 

滝野は、昨年もチョコをくれないのかと言ってきたから、今年も欲しがってくれると思うのだが……

そしたら、滝野さんに感謝チョコという名目で渡し、ついでの感じで、石見主任にもどうぞと渡せばいいわよね? 

なんだか思ったよりも、簡単にいきそうだ。

祥子は自分でも気づかないうちに、大きな笑みを浮かべ、カレンダーをめくった。

三月十四日にもすでに赤い丸がつけてある。

祥子は足取り軽く、赤いペンを取ってくると、その赤い丸を花丸にした。

カレンダーの中央の花丸を見つめた祥子の顔は、しあわせ色に光り輝いていた。





   
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