ハートに薔薇色のときめき 
第4話 まずは催促 〜 亮介 〜



「ふぅっ」

亮介は大きく息を吐くと、ほっとしつつ周りを見回した。

部屋の中は、いかにも引っ越し直前といった様相を呈している。

新しいマンションへの引っ越しは明日へと迫った。

ずっと引っ越しの準備に追われて過ごしていたが、ようやく明日で終わる。

すべて業者に任せてしまえば簡単だったのだが……
この際だし、必要ないものはすべて処分してしまいたかった。

それに、気分を一新するために、家具も、すべてではないが、新しい住居に馴染むものに買い替えることにした。

しかし、自分ひとりが住んでいただけなのに、あれこれと物が増えているのには驚いた。

引っ越し先で、また荷物の片付けをすると思うとうんざりするが……そちらはそう慌てることもない。ゆっくりやればいいだろう。

近所に、亮介が越してきたとわかったら、彼女はどう感じるだろう? 

いつもと同じ、無表情な祥子の顔が脳裏に浮かぶ。

嬉しそうにはにかんでいる顔を、なんとか想像してみようとしたが、無理だった。

これは自分の想像力が乏しいせいなのか? 

それでも、ほんのりと微笑んでいる顔は思い浮かべられる。

この二年の間に、幾度か目にしたことがあるのだ。

それは、いつもほんの一瞬だった。

顔を逸らす瞬間、祥子はふわりと微笑むことがあるのだ。

たぶん、本人が意識しないときだけ現れる笑み。

まったく不思議な子だ。

無表情だから冷たく見えるが、言葉を交わせば、驚くほどの純粋さに触れられる。

けれど、内面には踏み込めない。

それは彼女との間に壁を感じるからじゃない。

ただ、彼女が戸惑うからだ。

あの戸惑いが、こちらの動きを止める。

なんなんだろうな、あれは? 

ともかく、彼女の家の近くに引っ越せば、仕事以外でも親しくなれるチャンスが格段に増えるだろう。

三人で夕食を食べた帰りも、今度は滝野が先、彼女を後で送れることになる。

無条件でふたりきりになれるのだ。

それだけでも引っ越す意味がある。

建設中のマンションには何度か足を運んだが、祥子のアパートのほうには行っていない。

彼女と親しくなりたいという理由で引っ越すことが、バツが悪いのだ。

こんなことでは、近くに引っ越したことを、なかなか告げられないかもしれないな。

亮介は顔をしかめた。

でも、告げないことには、送る順番も変えられないし……

ぐだぐだと悩んでばかりいる自分に嫌気がさし、亮介は立ち上がった。

もう夜もかなり更けている。さっさと寝たほうがいい。

寝室に入り、ベッドに潜り込む。

このシングルベッドも今夜限りだ。
引っ越し先の部屋はかなり広いので、セミダブルのベッドを購入した。

亮介は、自分が選んだベッドを思い出し、身じろぎした。

健康な男の身体を持つ身だ。祥子を求める気持ちは、膨らんでいくばかり。

手に入れたい……なんとしても……





翌日は快晴だった。

引っ越し荷物は手馴れた男たちの手で神業のように素早くトラックに積み込まれ、一時間後には真新しいマンションの十階にある部屋に運び込まれていた。

「驚くばかりだな。あっという間に終わった感じだ」

亮介は笑いながら、引っ越しを手伝ってくれている修治に言った。

「何言ってる。これからが本番だぞ」

「まあな」

家具は配置されているものの、どの部屋も雑然としている。

「まずは、キッチンと居間だけ綺麗にするさ。あとは、ぼちぼちやる」

「お前のことだから、五年経っても引っ越しした日のまま、段ボールがあるなんてことはなさそうだな」

「は? 五年もそのままだなんて……そんな奴いるのか?」

「いるいる。人間色々だぞ」

愉快そうに言った修治は、急に周囲をきょろきょろと見回した。

「どうかしたのか?」

「いや、ほら、連中はどうしたんだ?」

連中と言われただけで、すぐに誰のことを言っているのかわかった。そして、わかってしまった自分になんだかむしゃくしゃする。

連中というのは、亮介の大学の後輩である中本哲郎と、蓑田昇のことだ。

滝野に似たタイプで騒がしい上に、世話も焼ける。

ふたりとも大学院に進み、いまだ学生の身分。
金に困りがちな生活をしているため、食べるものに事欠くと、ふたりして亮介のところにやってくる。

なぜか、必ずふたり一緒なのだ。彼らがひとりで来ることはまずない。

さらに、なんの連絡もなく突然やってくる。

おかげで自分のぶんの食事をふたりに取られ、当の亮介は、なんにも食べられなかったなんて、許しがたいことすらあった。

さんざん振り回され、疲れさせられ、どうしてこいつらの世話を自分が焼かなきゃならないんだと、虚しさに囚われる。

「あいつらには引っ越しのこと、知らせてないんだ」

顔を歪めて言う亮介に修治は吹き出し、声を上げて笑い出した。

「どのみち、ばれるのに」

そんなことはわかっている。
見つからないように身を潜めていようと考えているわけでもない。
気のいい奴らだし、慕ってくれるのは嬉しいのだが……

「ばれるのは、遅ければ遅いほどいい」

「気持ちはわからないでもないが……来ないと来ないで寂しいもんだぞ」

亮介はぷっと吹き出した。

「そうなんだろうな」

世話が焼ければ焼けるほど、いなくなれば寂しいだろう。それでも……当分は顔を見なくてもいい。

「そういや……めぐみ、遅いな」

妻の名を口にし、修治が腹に手を当てる。

めぐみはいま、食料品の買い出しに行っている。

縁起物だし、引っ越し蕎麦を食べようと言い出し、自ら買い物に出かけた。

もちろん、蕎麦を作るのは亮介だが……

「そろそろ帰るだろう。お湯、沸かしとくかな」

亮介は立ち上がり、キッチンに入った。

修治も移動してきて、キッチンの中で動き回る亮介を、カウンター越しに見ている。

「なあ、亮介」

「うん?」

足元の段ボールから皿を取り出し、食器棚に詰め込みながら返事をする。

「この引っ越し、なんか理由があるんだろ?」

その問いにどきりとし、思わず手が止まった。

「ずいぶんと焦ってるようだったから、最初はストーカーにでも悩まされてるのかと思ったりもしたんだが、半年待つことにしたところを見ると、そんな緊急性があるわけでもなかったようだし……」

どうやら、修治は亮介から答えがもらえるとは思っていないらしい。ひとりでぶつぶつ言っている。

好きな女との仲を進展させたくて、彼女の家の近所に越してきたなんて知ったら……腹を抱えて笑うんだろう。

ヘタに知られたら、笑われるだけでなく、余計なお節介をされそうだ。

めぐみは言うに及ばず……

ふたりに知られないように気をつけないとな。


「ああん、もう、亮ちゃんの作ったものは最高だね!」

蕎麦を完食しためぐみは、満足そうに叫び、お腹を撫でまわす。

てんぷらを揚げてトッピングを豪華にしたから、蕎麦だけで充分お腹いっぱいになったようだ。

修治もうまそうに食べてくれている。

亮介はそんなふたりに目を細めた。これだけうまそうに食べてくれると、作り甲斐がある。

「そうそう、実はね、スーパーですっごく素敵な夫婦を見ちゃったよ」

「素敵な夫婦?」

「うん。年齢はわたしと修ちゃんくらいでさ、奥さんのほうは白い杖を持ってた」

「へーっ」

「なんかすっごいしあわせそうでね。奥さんの笑顔が最高なの。ほんで、旦那さんもかっこよくてさ……奥さんのこと、うっまいことカバーしてるんだ」

「お前、そのふたりを眺めてて、帰ってくるのが遅くなったんだな」

修治の指摘は図星だったらしく、めぐみはにははと笑う。

「しあわせとはいかなるものかを見たね。人生っていいなって思った」

めぐみと並んで座っている修治が、めぐみの頭のてっぺんをぽんぽんと叩いた。

めぐみは、修治に笑いかけ、きゅっと肩をすぼめて見せる。そのめぐみの目は、涙で潤んでいた。

そんなふたりに、亮介は強烈な羨ましさを感じた。思いを共有できる存在が側にいる。どんなにか心が満たされるだろう。

「さて、亮ちゃん。来週はいよいよバレンタインデーじゃない。今年もおおいに期待してるわよぉ」

涙をなんとかひっこめられたらしいめぐみは、目を潤ませたことを誤魔化そうとするように元気に言う。

バレンタインデーという言葉に、亮介は顔をしかめた。思い出したくもないのに……

正直、亮介は、バレンタインデーなど消えてなくなればいいと思っている。

チョコをくれる子の好意は嬉しいし、ありがたく受け取るべきだとは思うのだが……本音を言えば、受け取りたくない。

過去の出来事が思い出され、亮介は暗い気分に陥った。

三年前のバレンタインデー。あの年も、たくさんのチョコをもらった。
チョコだけのものが多い中、チョコ以外にプレゼントがついているものもいくつかあった。
プレゼントの中にはかなり高額のものもあり、亮介はブランド物のネクタイと名刺入れをくれたふたりの子に、もらったものに見合った品を返した。

それが礼儀だと思ったのだ。だが、それが窮地を招いた。

高価なお返しをもらったふたりがふたりとも、亮介は自分の告白に応じてくれたと思い込んだのだ。
会社から帰ろうとする亮介のところに、ふたりは一緒に来て、彼を責め立てた。

もちろんそんな気持ちなどなかった亮介は、正直なところを告げた。

そのあと彼は、かなり長いことふたりから憎まれ続けることになった。いまは、ふたりとも寿退社していなくなったが……

あんなことにならないように、いまの彼は、チョコ以外はけっして受け取らないし、必ず「義理だね」と確認するようにしている。

義理ではないと口にする子からは、もちろん受け取らない。

そのときもらったブランド物のネクタイと名刺入れは、手にしているのも嫌ですぐさま処分したけれど、気持ちの上で尾を引いていて、そのどちらのブランド製品もいまだに買う気にならなかった。

「亮ちゃん? ちょっとぉ、話、聞いてる?」

「あ……ああ、聞いてる」

「いい、あいつらに、いいのを全部持っていかれないように、気をつけてよ」

そう言っためぐみは、「あれっ?」と言い、周囲をきょときょとと見回す。

「そういえば、あいつら、来てないの? 絶対、お昼を狙ってくるもんだと思ったのに」

その言葉を聞いて、亮介は苦笑した。

めぐみの言うあいつらとは、もちろん中本と蓑田のことだ。

「そうか、それでか。買ってきた蕎麦の量が多いと思った」

「だって、亮ちゃんのイベント事に、来ないやつらじゃないもん」

めぐみは腑に落ちないというように、首を捻りながら言う。亮介は、修治と目を合わせて笑った。

「知らせてないんだってさ。ワザとな」

「へっ? ああ、そうなんだ」

夫の言葉に、めぐみの顔がパッと華やぐ。

「そうだ、この際さ、あいつらに亮介を探し回らせて楽しもうよ」

「お前な、趣味悪……いや、性格悪いぞ」

夫の軽い咎めにも、めぐみはへっちゃらでにやにや笑っている。

「いいのいいの。あいつらはそんくらいやったって、どうってことないって」

「亮介、いいのか?」

修治が苦笑しながら聞いてくる。亮介はどう答えるか決めかね、苦笑いを返した。
「そいじゃ、今年のチョコは、このわたしが全部もらいだね」

腰に手を当て、めぐみはにっしっしと笑う。

「おいおい、お前ときたら、まったくごうつくばりだな」

「どうせ亮ちゃんは食べないもん。もらってあげなきゃ、チョコが可哀想だよ」

夫婦の会話を聞いていた亮介は、昨年のバレンタインデーのことを思い出した。

いつものように、昨年も大量のチョコをもらったが……きっともらえるだろうと思っていたチョコはもらえなかった。

あのときのショックを思い出し、亮介は肩を落とした。

本命チョコを期待したわけではない。義理で充分だった。

他の子がくれるのと同じように、祥子からもらえれば嬉しかったのに……

救いは、彼女が誰にもあげなかったこと。

どうも、バレンタインデーに男にチョコをあげるという考えが、欠片もなかったらしい。

バレンタインデーなんてイベント、たぶん祥子にとって意味がないんだろう。

くれないのかと冗談混じりに催促したら、くれるだろうか? 

くれるかもな……

明るい見通しに心が弾み、自然と口元がほころぶ。

「なーにー? 亮ちゃんったら、思い出し笑いなんてしちゃってぇ」

めぐみの指摘に、亮介は顔が赤らむのを感じた。

「あ、いや……」

「あいつらがあたふたしてる顔、想像してるんでしょう。ほーらね、修ちゃん。意地が悪いのはわたしだけじゃありませーん」

「意地が悪いとは言っていないぞ。俺は、性格が悪いと言ったんだ」

修治は真顔で答える。

「もおっ、修ちゃんってば、すぐそうやって、ひとの揚げ足取る」

めぐみは、唇を尖らせて夫をぽかぽか叩く。

「間違っていたから、訂正しただけ。揚げ足なんか取っちゃいない」

「まったく、あーいえば、こーいうんだから」

じゃれあうような夫婦喧嘩を、亮介は笑いながら見守った。

こんな風に心の通い合った相手を手に入れているふたりが、羨ましくてならなかった。

ふたりのように、祥子と心を通い合わせている未来を、自分は手に入れられるだろうか? 

ともかく、まずは……

チョコの催促をしてみるとするか……





   
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