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第5話 おかしな遭遇 〜 祥子 〜
うわーっ!
ベランダに出た祥子は、目に沁みるような青空に、心の中で歓声を上げた。
気持ちよく晴れたものだ。これならば、洗濯物も、干し甲斐があるというもの。
パンパンと音を立てて洗濯物を広げ、ハミングしながら干していく。
ひとり暮らしだから、そんなにはない。
洗濯かごの中に残っている最後の一枚を取り上げ、祥子は苦笑した。
男物のトランクスだ。二年ほど愛用している。
もちろん、彼女が穿いているわけではない。
母親から防犯のために洗濯物の中に混ぜて干せと命じられ、素直に従っているのだ。
確かに、防犯の役に立っている気がするし……
「それにしても、これも古くなっちゃったわね」
洗濯を繰り返してすっかり色落ちしてしまっている。
新しいのを買おうかしら……
けれど、男物の下着。独身の祥子には、なかなか難しい課題だ。
これをレジに持っていくのは、かなり勇気がいる。
勇気を振り絞れたら、買ってくるとしよう。
それよりも、今日はバレンタインデーのチョコだ。
どこのお店に買いに行こうか?
あの子たちが話していたショッピングモールに、ちょっと行ってみたくもあるけど……
彼女たちと鉢合わせしたら、いたたまれないし……会社のひとと会う可能性の低いお店がいい。
洗濯物を干し終えた祥子は、出かける支度をし、アパートを後にした。
最寄りの駅まで早足で歩いていた祥子は、引っ越しのトラックとすれ違った。
もしかすると、近くに出来たマンションに向かっているのかもしれない。
建築中にかけられていた入居者募集の垂れ幕も目立っていたし、郵便ポストにもチラシが入れられていた。
とても素敵なマンションだが、祥子の稼ぎで住めるような家賃ではない。
ああいうところは、新婚さんとか、子どものいる家族とかが住むところだろう。
祥子は、建物の向こうに見える、十階建てのマンションを見上げた。
しばらくの間羨望の目を向けてから、再び駅へと歩き出した。
チョコが陳列された特設コーナーを前に、祥子はしばしそのまま立ち竦んだ。
バレンタインデーなど気にしたことがなかったから、この季節に、こんな風にチョコが売られていたとは、知らなかった。
子ども向けみたいなものから、高級感のある大人用のチョコまで、多種多様だ。
考えてみれば、昨年のバレンタインデーに、亮介が受け取っていたチョコも、色々な形状をしていた。
亮介はチョコだけしか受け取らなかったが、ここにあるチョコには、ハンカチやお酒などがセットになっているものもある。
こういうのが、本命チョコなんだろうか? そのほかは義理チョコ?
亮介にチョコを差し出したら、きっと他の子と同様に、「義理だね?」と聞かれるのだろう。
その場面を想像してしまい、祥子はくすっと笑った。
「まあ」
小さな呟きが聞こえ、顔を上げる。目の前に、三十代くらいの女性がいた。
祥子と目が合った途端、その女性は慌てたように視線を逸らす。
祥子は思わず目を瞑った。
たぶん、このひとは祥子の笑った顔を見たのだ。
嫌な思いをさせてしまったことに、気まずさと申し訳なさを感じながら、祥子はそそくさとその場から離れた。
滝野たちに渡すチョコはすぐに決まったが、亮介へのチョコがなかなか決められない。
亮介に、滝野たちと同じものは渡したくない。
だが、中身が違うことが丸わかりでは駄目だ。
外観はまったく同じに見えるものを選びたい。
眉を寄せ、真剣な顔でチョコを探していた祥子の目に、媚薬という強烈にインパクトのある文字が飛び込んできた。
ハート形のカードに手書きの文字で、『恋の媚薬。一粒食べれば、彼はあなたの虜だよん』と書いてある。
恋の媚薬?
祥子の手は、本人の知らぬ間に伸びていき、そのチョコを掴んでいた。
高級感溢れるラッピング。義理チョコではありえない値段。
このチョコを食べたら、石見主任はわたしの虜?
現実になるはずないけど……けど……
こ、これにしようかしら……
どうせ渡すなら……
両手でぐっと掴んだまま、腕に提げた売り場専用のカゴに目を落とし、滝野たちに渡すチョコを見つめる。
石見主任のをこれにするのなら、滝野さんたちのは、これじゃ駄目だ。主任にあげるものと同じに見えるのを選ばないと……
祥子は、滝野たちのチョコを亮介のチョコとまったく同じ箱の形のものに替え、包装紙とリボンを買い込んだ。
すでに綺麗にラッピングされているものを取り替えるのはもったいないが、同じものと思ってもらうためには、どうしても包み直さなければならない。
ほんとに、このチョコが媚薬ならいいのに……
『僕の目は……もう君しか映さない。祥子、愛しているよ』
頭の中で、亮介が囁く。
祥子は我を忘れて、相好を崩したまま、次の目的地である男性用下着売り場を目指した。
目的の場所が見えるところまでやってきたものの、祥子はそこで足が踏み出せなくなった。
ぐっと一歩踏み出そうとするが、身体が進むのを拒む。売り場に誰もいなければなんとかなりそうな気がしたが、残念ながら客の姿がちらほら見えた。
だんだん買おうという気持ちが萎えてきた。
もうしばらく、あの使い古したトランクスを使い続ければいいし、電話で母に頼めば買っておいてくれるだろう。
干しておけと、彼女に命じているのは母なのだし。
月に一度は実家に帰っているし、そのときにもらってくればいい。
自分の考えに納得し、その場を立ち去ろうとした祥子だったが、ふと見ると、いつの間にか売り場にはひとっこひとりいなくなっていた。
レジのところには店員がいるが、何やらしゃがみ込んでごそごそやっている。
なんとなく、祥子のために神様が人払いしてくれたように感じた。
このままこの場を去るのは、悪い気がする。
祥子は思い切って、男性用下着売り場に駆け込み、誰か来ないうちにと焦りながら売り場を物色した。
安いものからブランド物の高いものまで様々だ。
あんまり安いやつでは、すぐボロボロになりそうだし、一枚千円くらいのものの中から選ぶことにした。
目立つ色合いのものが、防犯には適しているだろうかと手に取ってみたものの、いつも同じ柄の下着がぶら下がっていては、防犯のために下げていると見破られてしまいそうだ。
無地のものにしようか?
グレーとか、黒とか、茶色とか……
祥子は目についた黒のトランクスを手に取った。
こういうの、石見主任には、穿いててほしいかも……
実際、亮介がどんな下着を穿いているかなんて知るわけがないし、この先、知ることもないが……
石見主任が派手な下着を穿いてたりしたら、ちょっと嫌かも……
先ほど手にした派手な柄のトランクスに視線を向ける。
それを穿いている亮介が頭に浮かび、祥子の口角がゆっくりと上がっていった。
案外いいかも。可愛いかも。
そのとき、ポンッと後ろから肩を叩かれ、祥子は「きゃっ」と悲鳴を上げて跳び上がった。
慌てて後ろを振り返り、仰天する。
「か、柿沼主任」
どうしてこんなところに、このひとが?
「どうして、こんなところに、このひとが? と、思ったでしょ」
思ったことをそのまま言い当てられ、ドギマギする。
いましがたの、乙女にあるまじき想像の余韻が残っているせいで、すさまじく気まずい。
「ところで〜、それ、誰に買うの?」
その言葉に、自分が手にしているものに視線を当てた祥子は、動揺のあまりそれを放り投げた。
「おおっと」
柿沼は素早く手を出し、祥子が放り投げたトランクスを受け止めた。
「商品を投げちゃ駄目だな」
「す、すみません」
たしなめられ、祥子は慌てて頭を下げた。
「で? これは誰の?」
改めて聞かれたが、柿沼に遭遇したショックでいまだ動揺が消えず、口を開けない。
「君のお父さん? 兄ってことはないよな」
左肘に手を添え、左手のひとさし指で顎を軽く叩きながら独り言のように言っていた柿沼の顔が、祥子に向いた。
「もしかしてぇ……」
にやつきながら、意味ありげな声を出す。
祥子は、柿沼が何を言い出すつもりかと、息を詰めて待った。
「彼氏に……とか?」
「ち、違います」
「ほおっ、となると、つまり君は男物の下着が好きなわけか? コレクションしてるのか? まさか、自分で穿いてるのか?」
勝手なことをほざく柿沼の視線が、祥子の身体の微妙な位置に向けられる。
「……もしや、いまも?」
祥子は反射的に柿沼から飛びのいた。
「ち、違います。ちゃんと女性ものの下着を……」
自分が何を口にしているのか気づき、祥子は顔を強張らせると、頬を真っ赤に染めた。
「いい反応だなぁ。いやさあ、君をこの店の外で見かけて、似てるよなぁと思ったんだ。けど、今日の君、いつもと見た目が違いすぎてさ。本人なのかすぐには判断がつけられなくて、ずっと追跡してたんだ」
柿沼ときたら、ルンルンってな感じで身体を動かしながら楽しげに言う。
あなたは女子高生かっ、と思わず突っ込みたくなる。
しかし……み、店の外から?
「か、柿沼主任」
「ふむ。やはり、責められる行動か……まあ、責められとくよ。ごめん」
ぺこりと頭を下げる。
やはりこのひとは、ほかのひととはちょっと違う。そう考えている間も、柿沼は祥子を見て、無邪気そうに笑っている。
「謝って、一件落着したところで……最初の質問だ。この男性物の下着は、誰かへのプレゼントかい? バレンタインデー用のチョコも、たんまり買い込んだようだし……」
「み、見たんですか?」
チョコを買い込んだところを見られたとわかり、祥子は焦って叫んだ。
「見たさぁ」
うろたえている祥子に、柿沼は「あったりまえだろぉ〜」と明るく付け加える。
「な、なんで見るんですか? 見ないでください」
「見たら犯罪ってもんでもないだろ。それに、追跡した事実は、すでに伝えて謝罪もしたろ」
そんなふうに無邪気に言わないでほしかった。
見られたくないところを見られ、知られたくないことを知られて、気まずくてならないのに。
「俺のもある?」
「えっ?」
「ええーっ。その反応、まさかないのか?」
咎めるように言った柿沼は、ぷりぷりしながら言葉を続ける。
「こう言っちゃなんだけど、俺は君の、ちょっとした恩人だとうぬぼれてたんだが……。他のどうでもいい奴等にあげるのに、この俺にはないってのは、ないんじゃないか、本川君?」
確かに、恩人といえることをしてもらったし、喫茶店でお茶もご馳走になった。
あれ以来、柿沼の部下の園島とは、顔を合わせるたびに、親しく挨拶をさせてもらえてる。柿沼にお礼の意味でチョコをあげるのは当然かもしれない。
柿沼主任にあげるのなら園島さんにもあげたいけど……
バレンタインのチョコを、同性にあげるというのは、常識的にありなのかしら?
「おいおい、本川君。俺の存在忘れてないかー?」
目の前で大きな手が振られ、祥子は意識を柿沼に戻した。
「ああ、はい。考え事をしていましたが、もちろん忘れてはおりません。柿沼主任」
ぷっと吹き出され、祥子は眉をひそめた。
「ごめんごめん。改まった口調で返されたから……ついね。で、逸れた話を元に戻してぇ……」
「柿沼主任にも、もちろんご用意させていただきます」
「へっ。おおっそうか。本川君、もちろん、本命チョコだろな?」
「違います」
祥子の即答に、柿沼は唇を尖らせ、ちっちっちっと舌を鳴らしながら顔の前で指を振る。
「本川君、ここはだね、真顔で切り返すところじゃないよ。野暮だろ」
厳めしい顔で諭すように言った柿沼は、急に表情を柔らげた。そして……
「いやーん、そんなわけないじゃないですかぁ……ってな感じて、可愛らしくぶりっこしつつ返してくれるところが見たいな。ほら、やってみて?」
柿沼ときたら、顔を輝かせながら、ほらほらと促してくる。
柿沼の見事な変化ぶりに尊敬の念が湧いたが、もちろん祥子には真似できない。
「申し訳ありませんが、柿沼主任、そのご要望には、お応えできかねます」
「あ……そ。ならいいや」
柿沼はしょんぼり肩を落として言ったが、すぐに立ち直り、顔を上げると、手にしているトランクスを祥子の前で振ってみせた。
「で、こいつ、買うの?」
「は、はい。あの、ご説明が遅れましたが、この下着は防犯用に購入するんです」
「は?」
柿沼のぽかんとした顔に、祥子は笑いを堪えた。
「防犯? ああ、そうか、納得」
「はい」
「うーん、君は会話のテンポが絶妙だな。実に面白い。やはり、俺の部署に引き抜きたい。園島に加えて、君がいてくれたら、俺は毎日を今以上に楽しめる」
「すみません」
「ちぇっ。断るテンポまで絶妙だよ」
そう言った柿沼は、くるりと背を向けてスタスタと歩き出した。
手にはトランクスを持ったままだ。
「これ、自分じゃ買いづらいだろ? 俺が買ってきてやるよ」
戸惑っていると、歩きながら柿沼が言った。
柿沼はレジでお金を払い、祥子のところに戻ってきた。
お金と引き換えにトランクスを受け取り、ふたりはその場で別れた。
柿沼と園島に渡すチョコを買うために特設コーナーに戻りながら、祥子は柿沼のおかしな発言の数々を思い返しては、吹き出していた。
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