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「幻の笑み」
「ふんふんふん、ふふん、ふん〜」
仕事が終わり、鼻歌を歌いながら宝物を磨いていた都美子は、耳元に生温かな風を感じてぎょっとし、「ひっ」と叫んだ。
な、なんなんだっ?
さっと振り返ると、十センチの至近距離に、上司の顔があった。
十センチ隔てたところにある上司の目と、己の目がバッチリ合い、都美子は再びぎょっとして「ぎゃあ」と叫んで身を引く。たが、驚き過ぎた反動で、大事な宝がするりと手から抜けて飛んだ。
「いっやーーっ」
飛びゆく宝に向けて手を伸ばした都美子だが、彼女のお宝は、素早いフットワークで身体を回転させた上司、柿沼の手が受け止めた。
盛大に安堵したが、急激にむかっ腹が立った。
「なんなんですかあ、もおっ! やめてくださいよこういうことっ!」
「えーっ。文句言われるなんておかしくないか? こうして受け止めてあげたってのに。じゃなきゃ、今頃粉々だぞ、君のお宝」
柿沼は、都美子のお宝を指先でひょいひょい揺らしながら、不服そうに文句を言う。
馬鹿じゃないのかと思う。
いまのは、自分で突き飛ばした相手を、転ぶ直前に助けたようなもの。
感謝を向けられる行為なんぞじゃない。罵倒こそふさわしい。
「主任がわたしを驚かしたから、そいつが飛んでったんですよ。悪いのは主任じゃないですか」
「そんなことより、お前にひとつ大事な話がある」
「そんなことより、それ返してくださいよ」
柿沼の手から宝物を取り戻した都美子は、専用の布で丁寧にひと拭きした。
クリスタルの女神様だ。
この女神様は都美子の幸運のお守りなわけで、毎日一緒に通勤し、働く彼女を見守り元気づけ癒してくれている。
ピカピカに磨き終えた女神様を専用ポーチの中にしまいこんで顔を上げると、彼女のやっていることを眺めていたらしい柿沼と目が合った。
「よし、それじゃ話を進めよう」
「進める必要ないですしぃ」
「そう目くじら立てて返事するのってどうなんだ。会話が楽しくないぞ」
言い聞かせるように言われ、むっとする。
「楽しくなくて別に……」
「お前の憧れの先輩と上司様のことなのになぁ」
その言葉に、都美子は思わず食いついた。
「えっ。おふたりが、どうかしたんですか?」
「ふふん。やはり食いつくか?」
したり顔で言われ、顔がひきつる。
食いつきたくはないが……ことが都美子の憧れる本川先輩と石見主任のことならば……強烈に関心があるわけで……
「それで、話って?」
「うむうむ。我らふたりは、長い間あのふたりの進展を見守ってきた」
見守ってねぇ。その発言には激しく反論したい。
見守るというより、柿沼主任は石見主任に対して、悪戯にちょっかいをかけていただけの気がする。
「そして、このたび、俺はバレンタインデー大作戦を実行することにした」
「はあ? 大作戦って、どんなですか?」
関心なく……でも一応聞く。
「それについては、これから考える」
都美子は眉を寄せ柿沼を睨んだ。
なんじゃと?
「これから考えるんですか、その大作戦の内容?」
「ああ。実行することを、たったいま決めたんでな。内容についてはこれからだ。園島、楽しみだろ?」
楽しみって……何をやるやら決まってないのに……何を楽しみにしろって?
あほらしい……
「おい。どこに行く?」
荷物を持ち、立ち上がってドアに向かう都美子に、柿沼が声をかけてくる。
「もちろん帰るんですよ」
「話はまだ終わってないぞ」
こっちはもう聞きたくないと態度で示してるんだ。
胸の内で答え、足早に更衣室に向かう。
柿沼が追ってきているようだったが、ひたすら無視だ。
すると、前方から悪意のこもった声が聞こえてきた。
な、なんだ?
「うん? あの声……極悪トリオのようだな。誰か餌食になったか」
確かに柿沼の言うとおり、そのようだった。
助けてやりたいが……極悪先輩トリオは、滅茶苦茶怖いのだ。
目つきも怖いが、あの毒を含んだ言葉がもうなんとも……先輩たちに目を付けられたくはないけど、絡まれているひとはなんとか助けてやりたい。
そろそろと足を踏み出し、物陰から顔だけ出して、声のするほうを窺う。
「ああっ!」
都美子は、目を見張った。
なんと、絡まれているのは、都美子の憧れである本川先輩。
「ありゃ……本川君じゃないか」
「た、大変……」
女神様の一大事!
極悪トリオに囲まれた本川先輩は、毒を浴びて俯いていらっしゃる。
「な、なんてこと。た、助けに行かなきゃ。いますぐっ!」
そう思うものの、相手が相手だけに、ビビリが先に立つ。
「そうだ。園島、お前しかいない。さあ行って来い!」
ビシッと音がする様な勢いで指を差しながら、柿沼ときたら都美子に命じる。
「行きたいのは山々ですけど……主任こそ、本川先輩を救ってきてくださいよ」
「ここは俺じゃ駄目だ。園島、お前でなきゃいかん」
なんでだ? と思うものの、都美子は自分を奮い立たせた。
毒吐き極悪トリオから、本川先輩を早いところ救い出してあげなきゃならぬ。
ビビリが湧いて、こ、恐いけど……
「よ、よしっ」
叫んで踏み出す足が、ビビリのせいで小刻みに震える。
都美子の宝であるクリスタルの女神様に雰囲気が激似の本川先輩。
柿沼によると、誰よりもガラスのハートの持ち主だという。
畏れ多い雰囲気を発しておられて、なかなか声をかけることも叶わぬおひと。
さらに、同じ職場にいらっしゃる素敵な上司、石見主任。
上司と部下の関係であるふたりは、神々しいばかりにお似合いなふたりなのだ。
石見主任は、微笑みの貴公子と呼ばれ、本川先輩は……
「なーにがクールビューティ本川よ。笑わせるわ」
本川先輩ときたら、なんて言葉で絡まれて……おいたわしや。
「男には人気あるもんねぇ。この無表情がたまんないんだってさ」
さらなる毒が本川先輩に浴びせられる。
「男をはべらせて女王様気分か。さぞかし気持ちがいいんでしょうねぇ」
い、いかん。極悪トリオの猛毒で、このままじゃ、女神のお心が……粉々に……
都美子はつま先と拳に、ぐっと力を入れた。
恐れてる場合じゃない。
「い、行かなきゃ」
「よし、いいか、園島。『もおっ、先輩、こんなところにいたんですかぁ。待ってたんですよぉ。早く来てくれないと困りますぅ』とか言いながら、腕を掴んで俺らの職場まで引っ張って来い。トリオと会話はするな」
都美子は早口に指示してきた柿沼に頷き、バンと床を蹴るようにして、物陰から飛び出し、先輩たちのほうへ駆け出した。
「本川先輩っ! こんなところにいらっしゃったんですかっ!」
辺りに響く大声で叫びながら本川先輩に駆け寄り、都美子はそのほっそりとした手首を掴んだ。
きゃーっ、本川先輩を掴んじゃったぁ。と内心、黄色い悲鳴を上げつつ、本川先輩をぐっと引っ張る。
「早く来てくれないと困りますよぉ。さあ、こっち、こっち」
極悪トリオとは一切目を合わせず、都美子は驚いていらっしゃる本川先輩を連れて職場まで一気に駆け戻った。
「おーっし、園島、よくやった」
本川先輩救出作戦を無事遂行し、職場へと凱旋した都美子を、先に職場に戻っていた柿沼は、大手を広げて讃えてくれた。
こんにゃろうに讃えられてもなと思うものの、かなりいい気分だった。
「あ、あの……柿沼主任、何か御用でしょうか?」
静かな口調で、本川先輩は、柿沼に問う。
都美子は柿沼と一緒にずっこけた。
やはり、女神様ってのは、一般庶民とは一味違うようだ。
それでも本川先輩を救い出せた達成感から、満ち足りた気分だ。
「君がこわーい先輩に捕まって、のっぴきならない窮地に陥っていたようだったから、助けを差し向けたんだが」
本川先輩は、柿沼の説明に、驚いた様子で「えっ?」と叫ぶ。
驚き混じりの感謝がダイレクトに伝わってきて、都美子の嬉しさが膨らむ。
「もおっ、勇気ふりしぼりましたよ。あの先輩たち、怖すぎなんですもん。まだ足が震えてます。柿沼主任から、行ってこいって命じられて、生きた心地がしませんでした」
「よく言う。俺が言う前から、助けたがってたじゃないか?」
「そ、それは……だって、見てられませんよ」
「正義感バリバリだもんな、園島」
「みんな一緒ですよ」
「そうかぁ? そうは思えないけどな」
「あ、あの……気を使っていただきまして、ありがとうございます」
丁寧に頭を下げられ、都美子はぽわんとして本川先輩に見惚れた。
美しい。やはり美し過ぎる。
「本川先輩、やっかまれてるんですよ。あの素敵すぎる石見主任の側にいられるから」
「素敵すぎ……か?」
柿沼の小ばかにしたような言葉を耳にし、都美子はじろりと睨みつけた。
「いま、鼻で笑いましたね?」
「そこで睨むな」
「別に睨んでなんか……」
ちょっと恥ずかしくなった。
いま憧れの本川先輩の前だというのに……
「それで? 本川君、そろそろ部署異動する気になってないか?」
都美子はそんな馬鹿馬鹿しい問いを向ける柿沼に呆れ返った。
「なるわけないですよ。あんな素敵な上司の下で働けてるのに、柿沼主任みたいな、部下をこき使うひとのいる職場になんて……」
柿沼は遠慮なしにひとをこき使う。仕事の割り振りが絶妙で、こちらは知らぬ間に限界寸前まで働かされるのだ。
「こいつ、言ったな」
「真実ですからね。いくらでも言いますよっ」
都美子は、憧れの先輩の前だということも忘れ、ついいつものようにムキになり、柿沼に掴みかかった。
「こんにゃろ、生意気だぞ、小まめ娘」
「へへーんだ。でくの坊」
けなし合っていると、「くっ」と小さな笑い声が聞こえた。
柿沼が本川先輩を振り返るのと競うように、都美子もマッハで振り返った。
おおっ!!
激しく心臓が高鳴った。
滅多な事では微笑まない女神本川の幻の笑みはすぐに消えてしまったが……
いま、確かに見た!
「見たか?」
いくぶん興奮を滲ませ、柿沼が小声で問いかけてきた。
「み、見ました……」
上司の両腕をガッシリ掴んだまま返事をしつつ、都美子は頷いたのだった。
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