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その1 お隣さんに動揺
「うっ、こ、こほん」
店長さんが、喉を詰まらせたかのような咳をし、店長さんの手をほっぺたにくっつけていた苺は、驚いて顔を上げた。
店長さんは顔を逸らしているが、その頬は少し赤味を帯びていて、苺はどきりとした。
て、店長さん、咳き込んだりして……もしや、熱があるんじゃ?
「吉田、着替えを出してくれ。シャワーを浴びてくる」
体調が悪くなったのではと、苺はひどく心配しているというのに、店長さんはベッドから下りようとする。
苺は慌てて店長さんを止めた。
「店長さん、シャワーなんか浴びないほうがいいですよ」
「どうしてです?」
店長さんは、訝しそうに聞き返す。
「だって、熱があるみたいですよ。ほら、ほっぺがちょっと赤いです。それに咳もしてたし……」
「これは……なんでもありませんよ!」
なぜか噛みつくつように言われてしまい、苺はびっくりした。
心配しただけなのに、なんで噛みつかれたんだ?
「鈴木様」
善ちゃんが横合いから取り成すように話しかけてきた。
ちょっと理不尽気分で顔をしかめていた苺は、善ちゃんに向いた。
「心配なさらなくても、爽様は大丈夫でございますよ」
「で、でも、熱があるなら……」
「熱など出ていませんよ。この部屋が少し暑いんですよ。ベッドに入っていたから……」
もごもごと口にしていた店長さんは、急にムッとした顔になり、苛立ったようにベッドを降りる。
「そんなことはどうでもいい! 吉田」
捨て鉢に言った店長さんは、善ちゃんに呼びかける。すると善ちゃんは、すべて悟っているかのような表情で、畏まって頷いた。
「はい、ただいま」
善ちゃんは、病室に設置してある棚のドアを、ためらいなく開ける。
見ると、棚には店長さんの着替えらしいパジャマが、綺麗に畳んでしまわれていた。
検査に出掛けるまでは、そんなものはなかったから、善ちゃんが持ってきてくれたんだろう。
そして店長さんと苺が検査から戻ってくるまでに、荷物を綺麗に整理したらしい。
さ、さすがだ。
きっちりと棚に収まっているものを目にして、苺はひとしきり感心してしまった。
店長さんは、スタスタと浴室に向かう。
そのあとに、着替えを手にした善ちゃんも続く。
甲斐甲斐しいねぇ。
そう思った苺は、口をへの字に曲げた。
いやいや、感心してちゃいけないんじゃないか?
だって、苺は店長さんの付き添いを引き受けて、ここにいるのに……
でも……どうしたって善ちゃんには敵わないか?
だいたい店長さんのお世話は、善ちゃんのお仕事なんだもん。
ちょっぴり気を落としているところに、善ちゃんが戻ってきた。
人のいい笑みを向けられ、苺は心の中で白旗を上げた。
善ちゃんに、勝負を挑む気にはならないねぇ。
「鈴木様?」
善ちゃんは、自分の顔を見て笑みを浮かべた苺に、問うように呼びかけてきた。
「なんでもないです」
苺は首を横に振った。
「それより、善ちゃん。店長さんがシャワーから戻るまで、こっちに座ってお話でもしてましょうよ」
苺は先にソファに座って、善ちゃんを手招く。
すると善ちゃんは、嬉しそうに苺の向かい側に座った。
善ちゃんと楽しくおしゃべりをしていたら、病室のドアがノックされた。
善ちゃんは即座に反応し、「はい」と答えながらキビキビとした動きでドアに歩み寄って行く。
苺は、そんな善ちゃんの姿を感心して見つめた。
場所が大きなお屋敷ではなく、病室であっても、善ちゃんは執事そのものだ。
「入るぞ」
野太い声が聞えた。
あっ、この声って、この病院のお医者様、髭面の溝尾さんだ。
苺のことを、馬鹿だとかアホだとか言ったひとだけど、悪い人じゃなかった。
まあ、初めはよくわかんなくて、苦手だなって思っちゃったけどね。
善ちゃんがドアを開けると、「おや、吉田さん」と溝尾さんが言う。
「溝尾先生」
善ちゃんは、溝尾さんに向けて丁寧に頭を下げた。
そうか、善ちゃんも、溝尾さんとは顔見知りなんだな。
「吉田さん、元気そうですね」
「はい。私はこの通り、ピンピンしておりますよ」
「うーむ。吉田さん、健康診断の結果がよいからといって、無理をしてはダメですよ」
おや?
溝尾さん、普通のお医者様のような対応もちゃんとできるようだと、つい笑ってしまう。
「はい。わかっておりますよ」
善ちゃんは笑いながら頷いたが、すぐに神妙な顔になる。
「溝尾先生、それで、爽様の容態のほうは?」
「それはまだ、検査結果が出てからのことだが……吉田さん、もう知っておいでですか?」
溝尾さんは、なにやら指をくいくいと右方向に動かしながら言う。
「あの、なんのことでございましょうか?」
溝尾さんが何を言いたいのかわからないようで、善ちゃんは戸惑い顔で問い返した。
「そうか、まだ知らないんだな。ところで、この病室の患者はどこに?」
空のベッドに視線を向けて、溝尾さんが質問してきた。
「ただいま、シャワーを浴びておいでですが」
「呑気な奴だな」
そう憎まれ口を言った溝尾さんは、なぜかにやにや笑う。
「あの溝尾先生、いったい何が?」
「いや、この隣の病室に、たったいま入院した患者がいましてね」
「いったい、どなたが?」
善ちゃんは、ひどく眉をひそめて聞く。
どうやら、隣の病室に入院してきたというひとは、店長さんや善ちゃんの知り合いってことらしい。
「藤原が驚くだろうひとですよ」
溝尾さん、楽しそうだな。
「爽様が? 溝尾先生、それはいったいどなたのことなのですか? 教えていただけませんか?」
店長さんが驚くひとか?
そう考えた瞬間、苺の頭に、あるひとの顔がぽんと浮かぶ。
ま、ま、まさかっ、羽歌乃おばあちゃんなんじゃ?
そう考えて動揺した苺は、慌てて立ち上がった。
「苺、確かめてくるです」
苺はドアに向かって突進した。
「お、おい、こら!」
その言葉と同時に、首が締まり、苺の足が半分泳ぐ。
「わわわっ!」
溝尾さんに首根っこを掴まれたのだ。
勢い、後ろに倒れそうになり、宙に浮いた両手をバタバタさせてしまう。
そんな苺を、溝尾さんはがっちり支えて助けてくれた。
「何事……」
店長さんの声が聞こえた。
どうやらシャワーを浴び終えたらしい。
「店長……」
「溝尾っ!」
店長さんに話しかけようとしたら、店長さんが憤怒の声で怒鳴った。
「ご、誤解だ!」
店長さんの叫びに叫び返した溝尾さんは、慌てふためきながら苺の身体をひょいっとすくい上げた。
うわわっ!
身体が宙に浮いて驚いている間に、溝尾さんは思い切り苺を店長さんに押し付けた。
うぎょっ!
「俺はだなぁ、お前がばあさんには知られないようにしてくれって言ってたからだな」
溝尾さんは、苺の背中に両手を当てて突っ張りながら、店長さんに早口で言う。
おかげで苺の顔は店長さんの胸元に押し付けられ、視界に入るのは店長さんの黒いパジャマだけだ。
溝尾さんが『ばあさん』と言っているのは、羽歌乃おばあちゃんのことなはず。
やっぱり、おばあちゃんの身に何か起こったということなんじゃ?
苺は両手を突っ張り、店長さんの胸から顔を上げた。
「羽歌乃おばあちゃん、どうしたんですか? 倒れちゃったんですか? 病気ですか?」
不安が膨らみ、矢継ぎ早に問いかける。
「羽歌乃さん?」
「み、溝尾先生、羽歌乃様がどうなされたと……」
怪訝そうな店長さんの声に、善ちゃんの動揺した声が被った。
「いったい、どういうことだ?」
「店長さん、羽歌乃おばあちゃんが大変なんですよ」
「爽様、羽歌乃様が隣の病室に……」
苺と善ちゃんが口々に言った次の瞬間、店長さんは苺をがっしりと抱きかかえ、くるんと方向転換した。
あまりに速い回転で、苺は両足がふわんと浮いた。
ダダダッという足音とともに、苺の身体はドアに向かって運ばれて行ったのだった。
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