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その2 急にイキイキ
「藤原、待てっ!」
溝尾さんの叫びに、店長さんの動きが不自然に止まった。そのせいで、抱えられている苺の身体も大きく揺さぶられる。
振り落とされそうで、苺は焦って店長さんにしがみついた。
落とされずにすんでほっとし、後ろを見たら……どうやら溝尾さん、部屋から飛び出そうとする店長さんを、がっちりと押さえ込んだらしい。
「なぜ止める?」
腹立たしげに店長さんが叫ぶ。
おかげで店長さんに抱きかかえられている苺の身体も、左右に大きく揺さぶられる。
わわわ!
「慌てるな。ばあさんに入院のことを知られたくないと言ったのは、藤原、お前たぞ」
「事と次第によるだろ!」
溝尾さんに向けて店長さんが怒鳴る。
うんうん、苺も同感だ。
同感なんだけど……
そろそろ下ろしてもらえないもんだろうか?
店長さんは、羽歌乃さんのところに飛んでいく気満々だし、溝尾さんは必死に止めようとしてて、苺の身体は右に左に揺さぶられっぱなしだ。
激しく口論しているふたりに、どうにも口を挟めそうにない。
「落ち着け、ばあさんじゃない」
店長さんがピタリと動きを止めた。
「違うのか?」
およっ、違うの?
「はい? 溝尾先生、入院されたというのは、羽歌乃様ではなかったのですか?
善ちゃんも、驚いて溝尾さんに問いただす。
「俺は一言もばあさんだとは言ってない。三人して勝手に先走って、早とちりしやがって」
溝尾さんは文句たらたらで言い、最後にチッと舌打ちした。
ずいぶんと苦々しげな舌打ちだ。
「なんで俺が必死にならなきゃならん? 汗掻いちまったじゃないか。イチゴっぺ、お前のせいだぞ」
ビシッと指をさされ、苺は困惑した。
「い、苺のせい?」
思わず、抗議するように言ってしまったけど……
考えてみれば、溝尾さんの言う通りかも。
溝尾さんは、店長さんや善ちゃんの知り合いが隣の病室に入院したと言っただけで、羽歌乃おばあちゃんだなんて言っていない。
苺が勝手にそう思い込んで、おばあちゃんが大変だと口にしてしまったんだった。
「苺でした。ご、ごめんなさい」
店長さんにお姫様だっこをされたまま、苺は小さくなって謝った。
「苺、貴女が謝ることはありませんよ。どうせ溝尾が、わざとそう思わせるような言い方をしたのでしょうから」
「はあっ? お、俺はなぁ、そんなえげつないことはしないぞ!」
「しない?」
冷たい声とともに、店長さんは鋭い目を溝尾さんに向けた。
溝尾さんは、激しく怯む。
「まあ、か、過去には、何かしらあったかもしれないが……今回に限っては、俺はえげつない言動などしていない。閻魔様の前でだって、大きな態度で宣言できるぞ」
店長さんの腕が緩み、苺はすとんと床に足をつけた。
下ろしてもらえたことに安堵し、後ろに振り返って見ると、溝尾さんは仁王立ちになって腕を組み、善ちゃんは気まずそうに畏まっている。
「爽様、申し訳ありません」
頭を下げる善ちゃんに、店長さんは「まあいい」と口にして手を振る。
「では、溝尾、話を聞こう」
厳めしい顔で、店長さんは溝尾さんを促す。
すると、何がどうしたというのか、突然溝尾さんは腰を折って笑い出した。
「溝尾、何を笑っている? まさか、全部でまかせだったのか? 私たちを驚かせて……」
「ち、違う……違うって……」
溝尾さんは必死に否定しながらも、ひーひー笑い続ける。
「さ、さっきのお前さぁ、子ザルを抱きかかえた母ザルみたいだったじゃないか」
「母ザル…?」
眉を寄せていた店長さんの顔は、次第ににがーい顔へと変化する。
苺が、子ザルを抱きかかえた母ザルを頭に浮かべたそのとき、苺の後ろで善ちゃんがぷっと軽く噴いた。
「も、申し訳ございません」
善ちゃんは、噴き出してしまったことを慌てて謝る。
しかし、小ザルを抱えた母ザルが店長さんなら、子ザルは苺か?
いまさらだが、苺はむーっとして溝尾さんを睨みつけた。
溝尾さんってば、失礼極まりないよっ!
「溝尾」
冷ややかな声が、溝尾さんに向けて飛んだ。
溝尾さんはびくりとし、ぎこちなく後ろに身を引く。
「まあまあ、ばあさんを心配しての失態だ。藤原、そう気にするな」
溝尾さんの失態という言葉に、店長さんのこめかみがピキンと音を立てた気がした。
不機嫌オーラがメラメラと燃え上がっているように見える。
ビビった苺は、思わず店長さんから一歩離れた。
が、それに気づいた店長さんから鋭い視線を浴びることとなった。
苺は思わず首と両手を同時に振った。
ほっとしたことに、店長さんの視線はすぐに溝尾さんに戻った。
あー、こ、怖かったよぉ。
「気になどしていない。それで? 羽歌乃さんでないなら、入院しているのは誰だというんだ?」
「真柴さんさ」
「真柴?」
「ま、真柴さんが……どうなされたのですか?」
ひどく驚いたらしい善ちゃんは、急くように聞く。
真柴さんというのは、羽歌乃さん家の執事さんだ。
真柴さんのことを思い出した途端、苺の頭の中には、河童姿の真柴さんがはっきりくっきり浮かび上がる。
「ぷぷっ!」
噴き出していい場面じゃなかったのに、堪える前に噴き出してしまっていた。
三人の目が自分に向けられ、苺はあまりの気まずさに顔を歪めた。
「ご、ごめんなさい……」
平謝りする。
真柴さんは入院しちゃってるというのに……笑っていいわけないよ。
「イチゴっぺ、お前、いまなんで噴いたんだ?」
「溝尾、そんな風に彼女を呼ぶな!」
「別にいいじゃねぇか。それよりなんで噴いた? イチゴっぺ、理由があんだろ?」
店長さんの睨みなど気にもかけず、溝尾さんは瞳を輝かせながら尋ねてくる。
真柴さんが河童のコスチュームを着たなんて、このひとは知らないに違いなく、断じて苺の口から言うわけにはゆかぬ。
「それは言えないです」
「なんで? お前、絶対何か面白いこと知ってんだろう? 隠すなよぉ」
す、鋭い!
そんな苺の反応も見逃さず、溝尾さんの瞳は輝きを増す。
「ほらな、真柴さんに関わることだろ。教えろよぉ」
溝尾さんってば、驚くほど洞察力があるんだなぁ。
苺のちょっとした表情の変化で、ここまで読み取れるとは……
侮りがたし、だよ。
わくわく顔をした溝尾さんは、左肘で苺をつつきながら催促してきたが、苺は店長さんに腕を掴まれて引き寄せられた。
「溝尾、真柴さんに何があったんだ? 早く話せ」
「なんだよぉ、邪魔すんなよ」
「溝尾」
突如、無表情になった店長さんが、ゆっくりと呼びかける。
尋常でないものを感じさせる表情と声で、それは不真面目な溝尾さんを一瞬にして改心させた。
「わ、わかった。ちゃんと答える」
溝尾さんは、出てもいない汗を拭う真似をし、ようやく話し始める。
「腰を痛めたようなんだ」
「腰を?」
「心配するな、たいしてひどくないんだ。ばあさんが心配してな、入院させるってきかなくて、まあ数日入院ってことになったのさ」
「そうなのか。だが、いったいなぜ腰を痛めたんだ?」
「玄関で転んだ……」
「転んだのか? あの真柴さんが?」
「最後まで聞け、転んだのはばあさんだ」
「ええっ、おばあちゃんが!」
驚いた苺は思わず声を上ずらせて叫んだ。
「いったいどういうことだ?」
「そうせっつくな。お前ら、最後まで黙って話を聞けよ」
たしなめられて、苺と店長さんは黙り込んだ。
ふたりが黙ったのを確認し、溝尾さんは再び話し出した。
「つまりだな、玄関でばあさんが転んだ。真柴さんはばあさんを助けようとしてばあさんの下敷きになり腰をしたたか打った。ばあさんは、左手首を捻っただけだ」
「羽歌乃さんも怪我を負ったのか? 吉田、聞いていたか?」
「いえ。私のほうに、知らせはきていません」
「羽歌乃おばあちゃん、大丈夫なんですか? いま家にいるですか?」
「もちろん、この隣にいるさ」
「と、隣にですか?」
「羽歌乃さんと真柴さんが隣の病室にいるわけか。なんてタイミングだ。それにしても、どうして私に知らせてこないのか、不思議だな」
「不思議? 店長さんと同じで、店長さんに心配かけたくないからじゃ……」
「いいえ。怪我が軽ければ軽いほど、大袈裟に騒ぎ立てて見舞いに来いとうるさく言ってくるのが、羽歌乃さんなのですよ」
遠慮がちだが、店長さんに同意するように善ちゃんも頷く。
確かに、これまでの羽歌乃おばあちゃんを考えると、店長さんの言う通りだなと苺も思う。
「店長さん、これからどうするですか? 真柴さんのお見舞いは?」
真柴さんのことはかなり気になるし、できればお見舞いに行って、ちょっとでも元気づけてあげたいけど……
店長さんが入院していることは、悟られないようにしなきゃならないんだろうし。
「それはこれから考えましょう」
店長さんは、なぜかにやついている。
「店長さん?」
何を考えてか、店長さんは急にイキイキしはじめたのだった。
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