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その22 不可解な現象
「ふうーっ」
退屈を体内から追い出そうと、大きく息を吐いた苺は、目を瞑った。
そして、頭の中でコチコチコチと秒針を進める。
よし、六十回。
コチコチを数えて目を開け、車内の時計で時刻を確認する。
へっ? お、おかしい……時の進みが……
一分たったはずなのに、まだ三十五秒しか過ぎていない。
やはりこれは、心が退屈に蝕まれ始めているということか?
「あーあ、ここに漫画でもあればなぁ」
漫画を読んでいれば時間を忘れる。
ハッと気づけば一時間近く、あっという間にすぎ去るのに……
こんなことなら、前々から欲しかった携帯ゲーム機でも買っとけばよかったよ。
いまのわたしは、それくらいの余裕があるんだし……
どの機種がいいかなぁ?
さすがにあれもこれもは買えないし……
色は何色がいいだろう。
ピンク? 水色なんてのも可愛いかもぉ。
携帯ゲーム機本体もだけど、ゲームソフトも買わなきゃ。
うーんと。
欲しいゲームソフトの候補をあげようとしてみたが、この最近、そういう情報に関心を払っていなかったため、何も思い浮かばない。
これは……まずは、どんなゲームが出てるかを知らなきゃ、お話しになんないな。
そう考えながら、無意識に時計に視線を向け、時刻を確認。
「えっ?」
さ、さんざん携帯ゲーム機について考えたというのに、まだ五分も経ってないってどういうこと?
「あー、ちょっとイライラしてきた」
苺は眉間をぐっと寄せ、車の周囲を見回した。
ひとっこひとりいない。
それにしても、伊藤のおじさんも、店長さんと一緒に苺が来ていることはわかってるはずなんだし、ひとり置いてけぼりは可哀想と思って、迎えにきてくれればいいのにさ……
残念なことに、苺を可愛がってくれてるおばさんは、今日もお出かけしてるようだ。おばちゃんの愛車は、いつものところにない。
まあ、おばちゃんがいたら、お昼ご飯を作るだろうから、伊藤のおじさんとラーメン屋で会うこともなかったわけだけど。
それにしても、置いてかれてから、すでに一時間は経った気分だよ。
時計はなぜか、まだ十五分しか経ってないって主張してるけどさ……
…………。
ちょっと、外に出るくらいいいんじゃないか?
心の甘い囁きに、苺は「だ、駄目駄目!」と叫び、首を左右に大きく振る。
「店長さんから、絶対下りるなって命令されたんだもん。絶対に……出ちゃ……あれっ? 絶対とまでは言われなかったかなぁ?」
店長さんの言葉を思い出してみるが、『絶対』とまでは、言われてない気がしてきた。
ちょ、ちょこっと外に出るくらいは、いいんじゃないかな。
だいたいさぁ、車から降りるなと命令するなんて、店長さん身勝手すぎだよ。
苺は店長さんの命令を聞きなゃならない立場じゃ……まあ、仕事では上司と部下だけど……
でも、今日は休み。ふたりは平等だ。
それでも、命令に背いたりしたら……
店長さんの怒りの表情がポンと浮かび、苺はビビった。
やっぱり、怖い!
仕方がない。……退屈と同化しとくかぁ。
諦めた苺は、窓から外を眺めた。
「うん?」
視界に動くものを見つけた苺は、窓にくっつきそうなほど顔を近づけた。
な、なんだろ?
田んぼの中を、右から左に疾走していった黒やら茶色やらの三つの塊……
イヌ? ネコ? かなり小さかった。
黒い塊は見えないところに行ってしまったが、すぐに舞い戻ってきた。
興奮した苺は、「なんだ、なんだ?」と叫びながら、助手席のドアを開けて外に飛び出た。
かなり遠いが、ようやくネコだとわかった。
「ちっこーい」
子ネコだ。三匹もいる。
三匹は、飛んだり跳ねたりしながら田んぼの中を駆けずりまわっている。
「おいで、おいで~っ」
苺は無我夢中で呼びかけた。
だが、走り回ることに夢中な子猫たちの耳には届かぬようで、まったく手応えなしだ。
「ほらあ~、こっちだってばぁ。おいでよーっ。クロ、タマ、ミケー」
名前など知らないのだが、ここは雰囲気で呼んでみる。
苺の頑張りが功を奏したのか、子猫たちが動きを止めた。
苺のことに気づいたようで、こちらを見ている。
「クロ、タマ、ミケー。おいでぇ」
嬉しくなった苺は、呼びかけながら、田んぼのあぜ道に一歩踏み出そうとした。その瞬間、ぐっと、喉が絞まる。
「ううっ!」
苺は踏み出した足を宙に浮かせて固まった。
なっ、なんと! 襟首を、店長さんに掴まれている。
えーっ! いったいいつの間に戻ってきたの?
待ちくたびれるほど、戻ってこなかったくせに、なんでこのタイミング?
「どこに行くつもりです? 苺」
最後の『苺』という不穏な響きの呼びかけに、ミニトマトほどに縮んだハートが、プチンとつぶれた気がした。
「い、いえ……苺は、ど、どこにも、行く気なんかないです」
「車から降りないようにと、言ったはずですが?」
「もちろん降りないつもりだったですよ。……けど、子ネコが走り回ってて……それ見たらつい」
「子ネコが走り回っていると、貴女も走り回らなければならなくなるんですか?」
そんなわけないし。
だいたい苺は、まだ走り回っちゃいませんでしたよ。見てただけで……
という反論が口から飛び出そうになったが、必死に堪える。
そんなことを口にしようものなら、怒りの炎に油を注いでしまう。
「そんなことはないですけど……」
苺はいまだ掴まれたままの襟首を気にしつつ、ゆっくりと回れ右して、車に向かおうとした。
ネコを発見して思わず飛び出たものだから、コートを着ていない。日差しはあるものの、冷たい風が吹いていて、かなり寒い。
車のエンジンをかけたままにしてくれていたから、中はとってもあったかかった。
苺を許す気持ちになってくれたのか、襟首はすぐに解放してもらえ、苺は大きく安堵して元通り車に乗り込んだ。
よかった。もっと、ねちねち叱られるかと思ったよ。
ほっと息を吐く。
「伊藤さんがイチゴをくださるそうですよ。車で待っているようにと言われました」
「えっ、ほんとですか? やったー!」
頭にポンと手が当てられぎょっとしたが、店長さんはくすくす笑い出す。
「まったく、貴女ときたら」
楽しそうに笑い続けながらも、店長さんはがっちりと掴んだ苺の頭を、力任せにぐりぐりする。
いたた!
「い、痛いです……痛いですよぉ」
控えめに抗議する。
「う、る、さ、い!」
頭をぐりぐりしながら、店長さんは力を込めて言う。
許されたと思ったが、どうやら許しきれてはいなかったらしい。
エステで綺麗にしてもらった苺の髪が、元の木阿弥以上に乱れきった時、小さな段ボールにいっぱいのイチゴを抱えた伊藤のおじさんがやってきた。
店長さんが操作してくれたらしく、助手席の窓がウィーンという音とともに開く。
「苺ちゃん、ほら……うん?」
イチゴを、苺に差し出そうとした伊藤のおじさんは、苺の頭に視線を当てて、面食らった顔をする。
「いったいどうしたんだ? 頭が爆発しとるぞ」
「ネコと暴れまわり過ぎたんでしょう」
店長さんときたら、爽やかに厭味を言う。
「ネコ?」
「あっ、おじさん。子ネコ見たよ、生まれたの?」
「ああ。生まれた生まれた。母ネコからやっと乳離れして、三匹で跳ねまわっとる」
「可愛かったよ。クロと、タマと、ミケ」
「おいおい苺ちゃん、名前までつけたのかい?」
「まあね。ほんとの名前は、なんていうの?」
「名前はつけてないさ。二匹のもらい先が決まってね。名前は飼い主がつけるだろうからな」
苺は息を止めて伊藤のおじさんを見つめた。
子ネコたち、ママネコとお別れ……
確かに、おじさんのところにはすでに三匹も猫がいるのだ。そんなに何匹も飼えないだろう。
「そうなんだ。もらってもらえるとこがあって、よかったね」
胸がズクズクしてきて、苺は自分の想いを誤魔化すように、明るく言った。
「伊藤さん、当然押しかけてすみませんでした。ありがとうございました」
「ああ。だけんど、いい……あ、ああっと……苺ちゃん、またな」
「うん、またねぇ」
伊藤のおじさんに苺が手を振ると、開いていた窓が閉じられた。
店長さんは、今度は運転席の窓を開ける。
「それでは、これで」
伊藤のおじさんに、にこやかに声をかけた店長さんは、窓を閉めて車を発進させた。
すぐに伊藤家が遠ざかる。
「苺」
「な、なんですか?」
「子ネコはしあわせになりますよ」
店長さんの言葉はあっさりしたものだった。けど、苺の胸を突いた。
じわんと滲んできそうになる涙を、苺は必死に引っ込めた。
こんなことくらいで泣くのはおかしい。
「苺は、別に、何も気にしてないですよ。子ネコたち、とってもかわいかったなぁ~って、思ってるだけで……」
どうしてか、さらにズクズクしてきた胸を押さえて、苺はなんでもない顔で答えた。
「そうでしたか」
「そうでしたよ」
苺は、顔をしかめた。
慰めてるって感じでもないのに、いたわるように慰められてる気がするのはなんでだ?
店長さんの声……なんでこんなに、心にぐいぐい入り込んでくるんだろ?
なんか……おかしいよ。
不可解な現象に、苺は唇を突き出した。
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