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第2話 待ちびと来たる ~爽~
今日の客の入りも、まずまずだな。
店のレジに立った爽は、店内を満足しつつ眺めた。そして、手元にある分厚いファイルを捲る。
このファイルには、彼が手がけている様々な事業の最新の報告書がまとめられている。
この報告書を作成しているのは、彼の片腕である藍原要だ。
信頼に足る部下で、ミスをしたことなど、かつて一度もない。
もうひとりの腹心の部下である岡島怜と共に、常に爽につき従っている。
ふたりとも有能で性格がいい。性格がいいといっても、やさしいとか、思いやりがあるということではない。
気まぐれな爽の行動に造作なく対応できるほど、柔軟性があり機転が利くということだ。
「爽様」
要から呼びかけられ、爽はファイルから目を離さずに「なんだ?」と答えた。
「そろそろ休憩になさいませんか? すでに三時を十分ほど過ぎておりますが」
控えめに促され、思わず顔をしかめてしまう。
実は三時ちょうどにも、同じことを言われていたのだ。
だがそのときも爽は、スタッフルームに下がらなかった。
「今日は……喉も渇いていないし……休憩の必要はない」
さも報告書の確認に集中しているかのように答えたものの、要にはなにもかも見透かされているようで気まずい。
「そうですか。わかりました。それでは、怜を先に休憩させましょう」
「ああ、そうしてくれ」
半分上の空といった感じを装って、爽は返事をした。
要はその場を離れ、店頭に立っている怜に近寄る。
怜がスタッフルームに下がり、要が店内をゆっくりと回っているのを確認してから、爽は店の前の通路に視線を向けた。
来ないな……
昨日も来なかったようだから、今日は来るかと思ったのに……やはり来ないのだろうか?
もしや、二度とやってこなかったりするのでは?
そう考えた途端、少々胸が疼いてしまった爽は、自分にむかついた。
別にどうだっていい。ただの客なのだからな……
でも、ずっと観察してきたから……やはり来ないと、どうにも気になってしまうのだ。
もうどのくらいになるだろう。半年……というところだろうか?
いつからこの店に来るようになったのかは把握していないが、爽が存在を知ったときから、彼女はほぼ毎週やってきている。
必ず土日のどちらかだ。
仕種やら行動が、妙に面白いのだ。
爽はいつの間にか彼女の来店を心待ちにするようになっていた。
彼女が必ず眺めるのは、要のアイディアで設置した、三千円均一の品を陳列しているショーケース。
三千円均一だけでなく、一万円均一と五千円均一のショーケースも並んでいるのだが、彼女が見るのは三千円均一のそれだけだ。
実は、要がこの提案をしてきたとき、さすがに三千円均一というのは低価格過ぎて、『ジュエリーFujiwara』にはふさわしくないと爽は反対した。
だが要は、三千円均一をなくしては狙いが外れてしまうと説得してきたのだ。
五千円では少々高くて若い購買層は手を伸ばしにくいけれど、三千円ならば、気軽に購入できるのでは、と。
それならばまずは三ヶ月限定で試して、状況をみて判断しようということにした。
結果は悪くなかった。確実にお客が増え、売り上げも増した。
そして彼女がやってくるようになったのだ。
三千円均一のケースにしか興味を示さない彼女が。
彼女は週に一度土日のどちらかに来店するのだが、店に入ってくるまでの動作がまずおかしい。
店に近寄ると、いささか挙動不審に辺りを窺い、それからそろりそろりとにじり寄ってくる。
そして三千円均一のケースに張りつくと、楽しげに中を覗き込む。
自分が他の客の邪魔になっていないか、店員が近づいてこないか、時々周囲を見渡しながら、なにやらケースに向かってブツブツ言っているようだった。
彼女がなにを言っているのか気になってならなかった爽は、そっと後ろに回って耳をすませた。
そうしたら、ジュエリーのひとつひとつに小声で話しかけていたのだ。
そう、こんな風に……
『おーおー、新顔。小粒な桃色ちゃん、かっわいいよ。うんうんよく来たねえ。いい場所に飾ってもらえてよかったねぇ。あっ、グリーンのこの子がはしっこにいっちゃったかあ。で、でも大丈夫だよ。はしっこってのは案外目立つんだからね、落ち込む必要なんぞないよ』
もう噴き出さないようにするのに必死だった。
だが、ケースの中の商品すべてを記憶してくれていることは驚きだった。
ひとつひとつに声をかけて称賛したり励ましたり……
その割には、一度も購入してくれたことのないお客様ではあったが、ケースの中の商品たちにいい影響を与えてくれているような気がした。
そしてそれを証明するかのように、三千円均一の商品たちは驚くほどよく売れていった。
彼女は我知らず、スタッフ以上の働きをしてくれていたといえる。
そんな彼女に興味を抱いた爽は、色々と試してみた。
一列置きに新しい品に入れ替えてみたり、ひとつだけ残してあとは全部新しいものにしてみたりして、彼女の反応を楽しんだ。
正直、もう眺めているだけでは物足りなくなってきている。
少し前のことになるが、近づいていったら慌てて逃げ去ってしまったため、それ以降、声をかけることは断念した。
もちろん要と怜にも、決して声をかけないよう申し渡した。
忙しいときに応援に呼ぶスタッフたちには、要経由で命じた。
せっかくのお楽しみを、みすみす失いたくないからな。
まあ、あれだ……
私にとって、あれは動物園のパンダ的存在だな。
いつもすっぴんだし、見た目は冴えないが……
この店のジュエリーを眺めに来るくらいなのだから、おしゃれに興味がないわけではないだろう……
あーっ、思う存分、弄りたい。弄り倒したい。
だが、なんの接点もないのに、いくらそんな衝動に駆られても無駄なこと。
来店したところで声をかけたりしたら、飛んで逃げてしまい、二度と来なくなるに違いない。
考えれば考えるほど、自分の思うようにならないことに苛立ってならない。
あまり気は進まないが、部下に身元を調べさせるか?
せめて名前が知りたい。
頭の中で思いつく名前を、冴えない彼女に当てはめては、これは違うなと首を横に振る。
そんな意味もない作業に夢中になっていた爽は、要が歩み寄ってきたのに気づき、顔を向けた。
「爽様。大奥様より、またお電話がございました」
その報告に、眉を上げて「それで?」と聞き返す。
「はい。爽様の指示通り、お答えしておきました」
その返事を聞いた爽は、祖母の羽歌乃を思い浮かべてくすりと笑った。
昼食会という名の見合いに、いつものように爽を巻き込もうとしていた祖母だったが、彼にドタキャンされ、今頃、火を噴いて怒り狂っているだろう。
この店に怒鳴り込んできたりしないように、手は打っておいた。
祖母は、彼がここにいるとは思っていない。吉田に足取りがつかめなくなったと伝えろと言っておいたのだ。
そして要と怜にも、祖母から連絡があったら、ここにはいないと伝えるよう、命じておいた。
罪の意識を感じる必要もないだろう。
悪いのは、勝手な計画を立てて彼を巻き込もうとした祖母なのだから。
「爽様」
声を潜めて再び呼びかけられる。
「なにかあったのか?」
同じように声を潜めて問いかけると、要がさっと顔を向ける。
要の視線の先を辿った爽は、ハッと目を見開いた。
――冴えない彼女だっ!
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