|
第7話 破顔で快走 ~苺~
二十五万……ワンルーム……ボーナス二ヶ月分……二十五万……ワンルーム……ボーナス二ヶ月分……
呪文のように繰り返し唱えていた苺は、背中に衝撃のようなものを感じて、ふと立ち止まった。
「ちょっと‼ あんたどうしたのよ?」
母の暴力的ともいえる大声に、苺はびびった。
「な、なに? ど、どうしたの?」
母が、怪訝そうな顔を向けてくる。
ありょっ? 苺、いったい、いつの間に家に戻ってきたんだ?
「どうしたのはこっちのセリフよ。さっきから呼んでんのに、ぼけっとして、この子はぁ」
「あ。ごめん。頭の中いっぱいでぇ~」
そう口にした苺は、にへらっと笑った。
「な、なによ、気味の悪い子ねぇ」
「引っ越すの」
嬉しさのあまり、思わず口にしてしまう。
「引っ越すって、誰が?」
「わ、た、し」
リズムをつけて言う。
「はぁ?」
怪訝そうな母の顔は、非常に面白かった。
「あはははは」
「なにを笑ってんのよ」
「だって、お母さんの顔、面白……いてっ!」
ぺしっと頭を叩かれ、苺はほっぺたを膨らませた。
「あほらし」
母はそう言うと、苺に構わず、背を向けて歩いて行ってしまう。
「お、お母さんってばぁ」
引っ越しするって言ったのに、なんで話を聞かずに行っちゃうのだ?
苺は自分の部屋に向かおうとして、眉を寄せた。
そうだったよ。苺、いったいいつの間に家に戻ったんだ?
思い出そうとしてみるが、まったく記憶がない。
大型スーパーの宝飾店で、わけのわかんないうちに面接して、準社員として雇ってもらえることになって……
給料が二十五万円で、ボーナス二か月分で、ワンルームにタダで住めて……
苺は唇を突き出した。
な、なんか、現実味が急激に薄まってゆくぞ。大型スーパー……苺、行ったよね?
苺は腕を組んで首を捻った。
なんか、めちゃくちゃおいしすぎる話だよね? ありえなくないか?
けど、自転車漕いで、大型スーパーに行ったのは、夢じゃないよね?
苺は眉を寄せ、玄関に行き、サンダルをつっかけると、そのまま外に出た。
ありょっ? 苺の愛車は? バイト代で買ったピンクの……
庭のどこにも、苺の愛車はなかった。
な、ない! なんで? あれっ? そういえば……苺、ここまで歩いて帰ってきたような気がする。
う、うそーっ、愛車置き去り? もちろん、大型スーパーだよねぇ?
どっと疲れを感じて、苺はその場にしゃがみこんだ。
宝飾店での、突然の面接……ありゃ、夢か? 幻なのか?
そ、そうだ。苺、あんたあの店長さんから、名刺をもらったじゃないか。
苺は慌ててスカートのポケットを探ってみたが、何も入っていない。
お、おかしいな。どこにやっちゃったんだろう? バッグの中かな?
バッグを開けて探したが、それらしきものはない。くちゃくちゃの紙屑が転がっているのを見て、苺は眉を寄せた。
なんだ、この紙屑?
「いちごう。お前、何してんだ?」
紙屑を取り出そうとしていた苺は、突然声をかけられ、ハッとして顔を上げた。
兄夫婦が、じっと苺を見つめている。
買い物から帰ってきたところらしく、健太は両手にレジ袋をぶら下げていた。
真美さんは、バッグだけだ。
兄貴は、妻に対してはやさしいよね……妹は子分扱いだけど……
別にいいけどさ……
「買い物、行ってきたの?」
そう問いかけながら、バッグを閉じる。
「ええ。今日はおいしそうな鱈があったから、野菜あんかけにでもしようかって言ったら、健太さんが食べたいって」
「へーっ、美味しそうだね」
「真美は、なにを作らせてもうまい」
「もう、健太さんったらぁ。苺さん、ピーマンともやし好きだものね。いっぱい入れてあげるわね」
「うん。真美さんやっさしいー、だーい好き!」
真美に飛びつこうとした苺は、ぐいっと兄に襟首を掴まれた。
「う、ぐ、ぐ、ぐるじぃ」
「妊婦さんの真美に、飛びつくんじゃない」
叱られて、むっとする。
あーっ、この憎たらしい兄に、宝飾店の準社員になったのだぞと言ってやりたい。
給料が二十五万で、ボーナスが二ヶ月分で、ワンルームにただで住めるんだぞと自慢したい。
けど……それが現実なのか、いまや定かではない。
言いたくても言えやしない。
「健太さんってば、大丈夫よ」
「いや。お腹の子と君になにかあったらいけない。注意しすぎるくらいがちょうどいいんだ」
「もう、健太さん」
真美は夫の過保護っぷりをちょっぴり責めながらも、ふたりの周りには、桃色のハートがぷかぷかと飛び交っている。
甘々シーンが展開されてゆくのをぼけっといつまでも眺めていられるほど、苺は暇じゃないのだよ。
彼女はふたりの横をすり抜けて、玄関に向かった。
「おい、いちごう、お前こんな時間に出かけるのか?」
「自転車置いてきた」
苺は小さな声でぼしょぼしょ言った。
「は? なんだって?」
苺は振り向きざま、大声で「自転車置いてきた!」と八つ当たりのように叫んだ。
「どこに?」
「大型スーパー」
苺はまたぼしょぼしょ言った。
「なんだって?」
「大型スーパーだよ! 乗ってったの忘れて置いてきちゃったから、取りにゆくんだよ! 文句あっか? べーっだ」
苺はむかつきのおまけに、兄に舌を出し、報復を受ける前に、その場から逃げ出した。
「なんだぁ、いちごうの野郎」という健太の声が、背後で聞こえた。
自転車なら五分で着く大型スーパーだが、歩くと十五分ほどかかる。
黙々と歩きながら、どうにも情けなくなってきた。
苺、なにやってるんだろ? でも、あの面接……現実だと思うんだけどなぁ~。
結局、貰ったはずの名刺も消えちゃってるし……けど夢じゃないって、苺。ほら、自信持ちなよ。
自分を一生懸命元気づけたが、苺の中の苺は返事をしなかった。
大型スーパーにようやく辿り着いた苺は、宝飾店に向けて、トボトボと歩いて行った。
遠くから宝飾店を窺うと、店員さんらしきスーツ姿の男性が、お客さんの相手をしている。
あのひとが店長さんだったっけ?
苺は自分の記憶に尋ねた。
なんか違う気がする。……どうしよう?
さっき、面接してもらいました鈴木ですけど、わたし、採用してもらえましたよね? って、聞く?
ちょっと、馬鹿っぽくないかな?
そう問答しているうちに、苺は避けることができない現実にぶち当たった。
宝飾店の店員さんなんて、自分に務まるのか?
うわーっ! 苺、店員さんなんて、生まれてこの方、したことなかったよ。
そのこと、あの面接してくれた店長さんに、言うべきだったんじゃ?
け、けど、あの店長さん、苺の履歴書を見たんだもん。苺が接客未経験なのはわかっているはず。
不安に思わなくていいんだよね? 雇うって決めたのは、向こうだしさ……
なんでもいいから、もう一度やってきた、もっともらしい理由を考えるんだよ、苺!
あの店員さん、苺が来たのに気づいて、声かけてくれないかな。顔を見てくれさえしたら、きっと声をかけてくれる。
よ、よしっ。
決心し、ごくりと唾を呑み込む。
苺の顔を見て、なんの反応もなかったら、あれは夢だったってことだ。
ためらいながらも、宝飾店に近づく。
そうこうしているうちに、目指していた店員さんと目が合った。顔を確認した苺はうろたえた。
ち、違う。このひと、違う。さっき面接してくれた店長さんとは、ま、まるきり違うじゃないか。
凛々しい顔立ちの店員さんは、苺をじっと見て、さっと歩み寄ってきた。
カッカッカッと響く足音は、やけに迫力があって、苺は身を竦ませた。
「どうなさいました?」
真顔で聞かれ、苺は動転した。
「あ、あ、あのっ。さ、さっきまで、店長さんがいて……」
「店長は、ただいま外出しておりますが」
「そ、そうなんですか? 失礼しました」
苺はしどろもどろに言い、後ずさりながら店から出ようとした。
「鈴木さん」
名を呼ばれたことにびっくりして、苺は足を止めた。
な、なんで? なんでこのひと、苺の名前知ってんだ?
「鈴木さんですよね? 明日から勤めていただくことになった」
その言葉は、苺を一瞬にして天国へとワープさせた。
ほら、ほらっ、ほんとだった。ほんとだったんだよ、苺っ!
二十五万円のお給料も、ボーナス二ヶ月分も、ワンルームも夢じゃなかった!
「ありがとうございますっ!」
苺は勢いよく頭を下げ、凛々しい顔立ちをぽかんとさせている店員さんに背を向け、店の外までダッシュした。
すべて現実だよ。
夢なんかじゃないんだよ。
自信持っていいんだよ、苺。
苺は自転車置き場まで愛車を迎えにいき、身軽く飛び乗ると、破顔したまま家まで快走したのだった。
|
|