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エピローグ その2 問いはうやむや
髪の毛を乾かしてもらっていたら、苺は爽にひとつ質問してみたくなった。
「ねぇ、爽」
「なんですか?」
「爽は、ひらがなとか、幼稚園の頃にはさらさら書けてたですよね」
ひらがなどころか、この爽なら、カタカナも完璧にマスターしていて、さらに簡単な漢字だって書けてたかもしれないな。
「いいえ」
「へっ?」
思いがけず否定の返事をもらい、苺は目をぱちくりさせた。
「ほんとに?」
「ええ。その頃はドイツ語でしたからね」
「は?」
「話しましたよね。私はドイツで生まれてドイツで暮らしていたんですよ」
「そっ、そうでした」
聞いてた聞いてた。
「それじゃ、爽は幼稚園の頃に、ドイツ語でサンタさんにお手紙書いてたってことですか? すっごいですね」
ドイツ語ですらすらとサンタさんにお手紙を書く幼稚園児を思い浮かべ、強烈に畏敬の念を抱いてしまう。
「別に凄くはないでしょう」
「何言ってんですか、すっごいですよ。苺はいまだって、ドイツ語は論外、英語の手紙も書けやしませんよ」
「その代わり、日本語は書けなかったんですよ」
「そうかもしれないけど……それじゃ、ひらがなを覚えたのはいつなんですか?」
「小学校の低学年ですね。羽歌乃さんがくれる手紙は日本語だったし、私からも日本語での返事を望まれたので、自然と覚えたんですよ」
そうかぁ。
小さい爽はドイツにいて、羽歌乃おばあちゃんは日本で、ふたりはずっと離れ離れだったんだなぁ。ちょくちょく会いに行ったり来たりはしてたようだけど、それでもおばあちゃんは寂しかったんじゃないかなぁ?
まあ、それはいまはおいといてと。
「それで、爽はどんなものをサンタさんにお願いしたんですか?」
「幼稚園の頃ですか?」
「そうそう」
苺が『そう』を繰り返し、ふたりはいつものお決まりのように見つめ合ってくすっと笑ってしまう。
そして爽は、しばし考え込んだ。
「何を頼んだかな? ……ああ」
どうやら思い出したようだ。
何かなぁ? 男の子だと、ブロックのおもちゃとか望遠鏡、あと野球のグローブとか、かっこいいスニーカーとか自転車とか……お兄ちゃんと剛は、そんなものもらってたけど……爽もそういうものもらってたのかな?
そして爽の口からでたものは……
「バイオリンと書いたと思います」
「バ、バイオリン?」
驚いたな! そんなもの想像もしなかったよ。
「ええ。その頃の知り合いにバイオリンを弾いている子がいて、自分も弾いてみたくなったんですよ」
「それで、バイオリンをもらえたんですか?」
「もらいましたよ」
爽はこともなげに言う。
けどさ、バイオリンって高いんじゃないの⁉
もちろん幼稚園の子に買い与えるバイオリンなんだから、さすがに値の張る代物じゃなかっただろうけど……それでも五万円は下らなそうだよ。
幼稚園の子どもに、五万円……うん、あり得ないな。
苺がサンタさんにバイオリンをお願いして、届いたしても、せいぜいおもちゃのバイオリンだろう。
「ですが、厚紙で作ったバイオリンでしたけどね」
「は、はい? 本物じゃなかったんですか?」
「私の父がどんな人物が、苺、貴女はご存じでしょう?」
まあ、それは知ってるけどさ……
確かに、そういうことをしでかしそうなお方ではあるな。
「それで、爽はどうしたんですか?」
文句を言わないはずないと思うけど。
「当然、これでは弾けないと言いましたよ」
「それで? お父さんの返事は?」
つい、ワクワクして聞いてしまう。
「本物をもらえれば弾けるのか? と問われましたね。……あの頃は、私も幼かったな」
爽は話の合間に何を思い出したのか、しみじみと呟く。
しかし、それはそうだろう。幼稚園児なんだから……って、そっちに突っこんでる場合じゃない。それより話の続きだよ。
「それでどうなったんですか?」
せっつくようにして聞いたら、爽は肩を竦める。
その様がまたかっこよくて、欲望に抗えず苺は爽をぎゅっと抱き締めてしまった。
突然抱き着かれた爽は、嬉しそうに微笑み、「苺?」と呼びかけてきた。
「ああ、ごめんなさい。話の腰を折っちゃって……」
苺は謝り、爽から身を離すと、もう一度「それでどうなったんですか?」と繰り返した。
「バイオリンをもらい、レッスンに行く羽目になりました。見よう見真似で弾けるとレッスンに行くのを拒んだんですが……本物を買い与えた以上、それなりの成果を期待されてしまって。まあ、いまにして思えば、それも当然だと思いますが、幼かったのでそこまで考えが至れませんでした」
幼稚園児が見よう見真似でバイオリンをねぇ……けど、爽ならやれちゃいそうだよ。
「つまり、爽はバイオリンを弾けるんですね?」
意外な事実に驚きつつ、苺は確認を取る。
「それなりに弾けますよ」
ひ、弾けるんだ!
バイオリンなどという高尚そうな楽器を弾ける知り合いなどひとりもいない。
なのに、こんな身近に、そんな崇高なことのできる者がいようとは……びっくり仰天だ!
まったく、爽は侮れないよ。
このおひと、他にも苺の思ってもいない才能を隠し持っているんじゃないのか?
「それで、貴女は?」
「はい?」
「幼稚園の頃の貴女は、サンタさんに何をお願いしたんですか?」
「年長さんの時のは覚えてないんですけど、年中さんのときはバッグをお願いしたんですよ。ピンクでりぼんのついたやつのつもりだったんだけど、実際にもらったのは赤いバッグで。苺、ひらがながまともに書けなくて、ただバッグって書いちゃったから」
「イチゴのバッグじゃなかったんですか?」
そう聞かれて、顔をしかめてしまう。
「当たりです。イチゴの赤いバッグだったですよ」
そう白状したら、爽は愉快そうに笑う。
だが、どうしたのか、すぐに笑みを消し、苺をじーっと見つめてきた。
「どうしたんですか?」
「いえ……とても聞きたいけれど、聞きたくない問いがありまして」
うん? 聞きたいけど、聞きたくない問い?
「いったいなんですか?」
「まだ髪が湿っていますね。乾かさないと」
爽は話をはぐらかし、またドライヤーを手に取った。
「言ってくれないと気になるですよ」
「そうですか?」
爽はさらに話をはぐらかし、顔をさっと近づけてきた。
驚く間もなく、唇が重なる。
甘くて濃厚なキスをもらい、唇が離れた時には、苺の顔は真っ赤に熟れてしまっていた。
爽は満足そうな笑みを浮かべ、苺の真っ赤な頬を指先で撫でた。
そして、気になる問いの方はうやむやのまま、ふたりの夜は甘く更けたのでした。
End
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