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1 フキノトウ
「よし、オッケーだね」
綺麗になった床をじっくりと眺めた苺は、モップを片手に額の汗を拭く真似をする。
今日の仕事もこれで終わりだ。
けど……あんまり、頑張れた気がしないんだよね。
なんせ、お客様がほとんどおいでにならなかったのだ。
バレンタインデーが終わってからのこの一週間、ほんとお客様少ないんだよなぁ。
特に今日は、冷たい風が吹いていて寒かったからな。
知らぬ間にしかめっ面になりながら、苺は窓の外に目をやった。
中年くらいの男のひとが、コートの襟を立てて背を丸め、とても寒そうに歩いている。
そんな姿を見ていたら、自分まで身を震わせてしまいそうになる。
「ううっ、寒いっ!」
「寒い?」
背後から、オウム返しに言葉が返ってきて、苺は振り返った。
藍原と目が合う。
苺、自分ひとりだと思ってたのに、藍原さんってば、いつの間に店頭に出てきてたんだろう?
足音立てずに移動する特技をお持ちだからな。
そういうところ、お侍というより、忍者だ。
閉店時間になり、藍原と爽は、スタッフルームでなにやら小難しげな仕事の話をしていたのだが……
「鈴木さん、まさか風邪を引いたのですか?」
咎めるように言われ、苺は慌てて首を横に振った。
「風邪なんて引いてませんよ」
「この適度な温度に保たれた店内にいて、寒いと口にするとは……熱があるとしか思えませんが」
「ですから、熱なんてないですって。寒いって口にしちゃったのはですね、外を歩いてた男の人が、すっごく寒そうだったもんで、自分も寒い気がしちゃってですね。それで思わず口を滑らせたというか、つまりそういうことなんです」
「……」
説明したら、藍原は苺をじっと見つめたまま押し黙っている。
「あの、藍原さん?」
「いえ、風邪を引いていないのであれば……」
藍原はそう口にして肩を竦めると、苺に背を向けた。そして、そのまま棒立ちになっていらっしゃる。
「あの……藍原さん、どうしたんですか?」
苺に怒っているんだろうか?
寒いって口にしたくらいのことで、怒られるのは納得できないけど……
「苺のこと、怒ってるですか?」
恐る恐る声をかけたら、少しうつむきがちだった藍原は頭を上げ、それから苺に振り返ってきた。
「鈴木さん」
「は、はい?」
「この店内を意識したうえで、春と言ったら、何をイメージします?」
この店内を意識したうえで、春?
おかしな質問だと思ったが……
「春のイメージは、やっぱり桜ですよ」
「では、質問を初春に変更しましょう」
「しょしゅん?」
「初めての春。はつはる、と言い換えましょう」
「ああ、なんだ初春ね」
初春か……なら、桜じゃないね。
「梅、桃、菜の花、つくしにフキノトウ」
「フキノトウ……」
吟味するように口にした藍原の目に、キランと光がさした。
そんな藍原を、ついつい訝しく見てしまう。
やっぱり、おかしなひとだよなぁ、藍原さんってさ。
何を考えて、いまのやりとりなのか、さっぱりわからんちんだ。
そんな風に苺が考えているそばで、藍原は、「フキノトウ」と繰り返し呟いている。
「フキノトウの、何に引っ掛かってるですか?」
「どこに行けば手に入れられるだろうかと考えているのです」
苺は思わず笑った。
その笑いは、どうも藍原の気分を害したらしかった。
お侍のような眉が微妙に寄ったのを見て、苺は急いで笑みを引っ込め、慌てまくって口を開いた。
「フ、フキノトウなら、どこにでもあるですよぉ」
気分を害したかもしれない事実を払拭したくて明るく言ったが、藍原の目が鋭く感じられて、どうにももじもじしてしまう。
苺、失敗したかも!
なんか報復とかされそうだよぉ。
ビビっていたら、「そうですか」と藍原は言い、軽く笑みを浮かべた。
その笑みに、さらにビビらされる。
「それほど自信たっぷりにおっしゃるのであれば、明後日には持ってきていただけると思って、よろしいのでしょうか?」
「あ、明後日、フキノトウを持ってくるんですか?」
そんなもの、どうするつもりなんだろな?
「ええ。では、お願いしましたよ。あまり育っていない、蕾のものを十個ほど。言わずともおわかりでしょうが、つぶれたり痛んだりしないように、細心の注意をして持ってきてください」
命令口調でテキパキと口にした藍原は、見るからに清々しいお顔になり、店の裏口に消えたのであった。
「フキノトウを?」
爽の車に乗り込み、先ほどのフキノトウの話を彼にしたところだ。
「そうなんです。何に使うのか分かんないんですけど……明日、フキノトウを取って来ないとですよ」
ちょうど明日休みでよかった。それに、今日は鈴木家に泊まることになっているのだ。
畑の土手とか探せば、すぐに見つかるだろうと思えた。
「まだ出ていないのでは?」
「そんなことないですよ。この時期になると、お母さん、毎年フキノトウの天ぷらしてくれてるんで、ありますって」
そんな感じで、楽観視していた苺だったが……
夕食後、母と片付けをしながら、フキノトウについて尋ねたら、なんと今年はまだ出ていないというのだ。
「どうしよう、困った」
藍原さんに、絶対あるって断言しちゃったってのに……いまさら、なかったとは言い辛いよぉ。
窮地に陥った苺は、藍原の顔を思い浮かべ、おもいっきり顔をしかめた。
「二週間もすれば出てくると思うわよ」
自分の可愛い娘が窮地に陥っているとも知らず、母は呑気に口にする。
「それじゃ、遅いんだよ! 明後日、どうしても必要なの!」
しかも、十個もだ。
おまけに、あまり育ってない小さなやつって言われてるし……つぶれたり痛んだリしてないやつで……
あー、あんな軽はずみに請け負うんじゃなかったよぉ。
バカバカバカ……
自分をなじっていたら、「なら、あんた、明日おじいちゃんのところに行ってらっしゃいよ」と母は急にそんなことを言い出す。
一瞬眉を寄せた苺だったが、そこで母の言葉の意図に気づいた。
「そっか、だよね」
よかった。これできっと難を逃れられる。
喜び勇み、苺は父や兄と談笑している爽の元に飛んで行ったのだった。
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