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11 お別れの日(苺
お馴染みとなった部屋を見回し、苺は大きなため息をついた。
あーあ、こことも、ついに今日でおさらばかぁ……
心の中でボヤいたら、切なくなってひどく苦しい。
苺はまた、ひとつため息をついた。
馴染みのものとお別れするのって、やっぱり、すっごい、寂しいなぁ~。
そんな苺の脳裏に、中学校や高校の卒業式が蘇る。
あのときの気持ちと同じだな。
そこで勉強するのが当たり前だった教室、黒板、机に椅子……何を見ても切なくて、胸がすっごい苦しかったっけ。
……。
これも、言うなれば卒業みたいなもんかな?
けど、卒業式のときは、次のステップ、高校とか専門学校とか、自分を待っている場所があって、別れに切なさを感じる分だけ、胸を熱く膨らませてもいたんだよね。
けどさぁ、爽ってば、次の仕事先のこと、あんまり詳しくは教えてくれないんだもんなぁ。
……次のお店の構想を練るのには、ちゃんと参加させてもらったんだよね。
こういうのがいいとか、ああいうのがいいとか、藍原さんと岡島さんを交えた四人で、熱く意見を出し合って……
なのに、なんでか途中でそういう話し合い、まったくしなくなっちゃったんだよね。
爽が言うには、『新しい事業を興すときに、焦っては失敗を招きます。じっくりと段階を踏まねばならないときもあるのですよ』という、ことなのだそうだ。
もっともらしい言葉だけど、苺、いまいち納得できないんだよなぁ。
なんかさぁ、藍原さんが、なにやら動き回っているらしい。
物凄く多忙みたいで、ここのところ宝飾店にはあんまり顔を出さなくなっている。
最後なのになぁ。
藍原さん、今日も来ないつもりなのかな?
藍原さんは、次のお店のことで頭がいっぱいなのかもしれないな。
ちょっぴり、残念だ。
できれば、最後は四人揃って、この職場を後にしたいもんだよ。
切ない気分で思案に暮れていたら、ドアがノックされた。
し、しまった! これは、店長さんだ!
感傷にかられちゃって、まだ着替えてもいないよ。
「は、はいっ!」
「どうしたんです。遅いですよ」
「す、すみません。すぐに着替えるですよ」
そう叫んだら、数秒の沈黙の間があり、「早く着替えなさい」と意外にもやさしい言葉が返ってきた。
苺は感傷を一時放棄し、クローゼットを開けた。そして、この最近、ほぼ定番となっている紺のスーツを取り出して着替えた。
まったく時間的な余裕はないことはわかっているのだが、ちょいと鏡の前でポーズなんぞ取ってみる。
むふふっ。よしよし。
この紺色のスーツが、一番デキル女って感じに見えるんだよねぇ。
いい気になれたところで、急いでドアに突進し、部屋を出る。
「お待たせしましたぁ。って……あれっ?」
てっきりドアの外でイライラしながら待ってるんだと思ったのに、どこにも店長さんの姿がないぞ。
キョロキョロしつつスタッフルームのテーブルに歩み寄って行ったら、給湯室のドアが開いた。
「あっ、店長さん……えっ? お茶を入れてたんですか? でも、お茶してる場合じゃないですよ。もうお仕事しないと」
「店頭のほうは、彼らに全面的に任せます。もう私たちは、明日からここにはいないのですからね」
そんな寂しいことを、真正面から言わないでほしいよ。
唇を尖らせていたら、爽が歩み寄ってきて、唇をつつかれた。
「わわっ! やっ、やめてくださいよぉ」
「不服そうにしても、この店は、すでに我々の手から離れてしまったのですよ」
「苺だってわかってますよぉ。けど、そう考えるのは寂しいから、わざわざ口に出して言ってほしくないっていうか……」
「明日からのことを考えてはどうです。そしてこの宝飾店での最後の一日を、充分味わうほうがいいのでは?」
「味わえないですよ。だって、店頭には出ないんでしょう?」
「出ては行けないとは言っていませんよ。もちろん出て構いません」
「えっ、そうなんですか?」
それじゃ早速、と向かおうとしたら、首根っこを掴まれた。一瞬足が浮き、首が締まる。
「ぐへっ!」
苺は首を押さえ、爽に振り返って睨みつけた。
「何するんですか! 首が締まって苦しかったじゃないですか」
「慌てて行こうとするからですよ。お茶を用意したというのに……。鈴木さん、ここでゆっくりお茶ができるのも、今日まで。しかも、この私の淹れたお茶を仕事場で飲める機会など、そうそうありませんよ」
言われてみれば、そうかもしれない。
店長さん自らお茶を淹れてくれるというのは、この最近ではあまりなかった。
まあ、ワンルームではしょっちゅういただいてるけどね。
苺は慌てるのをやめ、椅子に座った。
すると爽は、湯気の立つカップを目の前に置いてくれた。
「ありがとうです」
椅子に腰かけようとしている爽に、苺はぺこっと頭を下げてお礼を言い、さっそくカップを手に取った。
うーん、いい香りだよぉ。
苺は紅茶を堪能し、同じく紅茶を飲んですっかり和んでおられる店長さんを見つめた。
苺の視線に目ざとく気付き、爽は「なんです?」と聞いてくる。
「明日からのことですよ。もっと教えてくれてもいいと思うんですよね」
顔をしかめて文句を言ってみたが、爽は含み笑いをしているばかり。
「もおっ、どうして教えてくれないんですか?」
「楽しみが減るからですよ」
「どんな楽しみですか?」
「貴女が驚くさまを見るのが」
「はい?」
まったく、爽ってば、なんちゅう野郎だ。
仏頂面で爽を見ていたら、そんな苺を見て爽はくすくす笑い出す。
「悪趣味すぎるですよ」
「悪趣味? それは反論したいですね。貴女は驚きを楽しむじゃありませんか」
「うう……」
確かにそういうときもあるけどさ……
「けどですね。遊びならだけど、仕事なんですよ。自分の明日からの仕事の詳細を知らないなんて、変ですよ」
「別に変とは思いませんね」
うぬぬ。こいつはもおっ。
あー言えばこういう……まさに暖簾に腕押し状態だよ。
「店員なのは間違いないんですよね?」
確認を取るように尋ねてみたら……
「……ああ、そうですね」
うん? なんだ、いまの間は?
「ちょっと待ってください。店長さん、いま一瞬、答えを躊躇いましたよね? 明日からの苺の仕事、店員さんじゃないなんてことないですよね?」
「さあ、どうでしょうか?」
爽はにやにやして言う。そんな顔を見ては、不安になってくるというもの。
「店員じゃないなら、どんな仕事なんですか?」
「店員じゃないとは言っていませんが……。それよりほら、お茶を飲んだら店頭に出ますよ。接客をしたいのでしょう?」
むっとした顔をしつつも苺は立ち上がったが、ちょうどそこに岡島さんがやってきた。
「あっ、岡島さん」
「爽様、鈴木さん、おはようございます」
「おはようございます」
丁寧に挨拶され、苺も挨拶を返した。店長さんのほうは、岡島さんを見つめて無言で頷く。
こういう爽の仕草って、ぜんぜん特別でもなんでもないのに、妙にかっこよくてさ、どうにもドキドキさせられちゃうんだよね。
こんな超カッコイイ人が、こんな冴えない苺の彼氏さん……いや、婚約者なんだよねぇ。いまだに信じ難いよ。
好みが普通じゃない店長さんだから、苺が好みに嵌ったのかもしれないよね。
あっ、でも、それだと苺が普通じゃないってことになっちゃうのか?
「それでは、夕方五時くらいから、作業に入ります」
「ああ、頼む」
う、うん? 夕方五時から作業って何?
「あのっ、苺、ちょっといま、おふたりのやりとりを耳に入れ損ねちゃったんですけど、作業って何をするんですか?」
「更衣室の片付けですよ。我々の私物や荷物は、すべて運び出さないとなりませんからね」
あっ、それはそうだよね。
苺が使わせてもらっていた部屋の荷物も、全部持ち帰らなきゃならないんだ。
化粧品にスーツにワンピース……あのメイド服は、どうするんだろう?
そう考えていたら、自然と視線が爽に向く。
「なんです?」
「い、いえ……段ボールってあるですか?」
「作業は怜が指揮して、屋敷のスタッフたちにやってもらいますから、貴女は自分の私物だけ片付ければいいのですよ」
苺の私物って……その中に、メイド服は入るのかな?
まさか、新しいお店でもメイド服を着用させられちゃうんじゃないだろうねぇ。
「鈴木さん、なんです、その目は?」
「いえ……あの、このスーツとか、クローゼットの中のスーツとかは、どうしたら?」
「ああ、それもスタッフに頼みますよ」
「新しいお店でも、このスーツを着るんですよね?」
そう聞いたら、爽はまた答えに迷った様子を見せる。
「なんで、即答しないんですか?」
「揃いのユニフォームを作るかもしれません」
へえーっ。どんなユニフォームなんだろう?
「ユニフォーム作るんなら、どんなのにするのか決めるのに、苺もまぜてくださいよ」
「もちろん、そのつもりですよ」
爽はあっさり頷く。
なんだ、そっか。
いまはなぜか秘密にされてばっかりだけど、明日になりさえすれば、色々と教えてもらえるってことなんだな。
そうとわかったら、宝飾店最後の日を、味わっておくとしよう。
苺はひとり頷き、紅茶を飲み干して立ち上がったのだった。
つづく
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