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12 気持ちの整理(爽
この店も、今日までか……
心の中で呟き、爽はコーヒーを味わった。
ふむ。コクがあり、やさしい苦みだ。疲れを癒してくれるな。
満足を感じつつ、爽は、彼の目の端でおかしな顔芸をしている、彼の愛する恋人に、視線は向けずに意識だけ向けた。
……。
ブッ! と勢いよく噴き出しそうになり、爽は必死に堪えた。
苺はほっぺたを膨らませたり、爽を睨んだり、凄みのある表情を作ってみたりしている。
これは、爽に話しかけてほしいという意思表示なのだが……やりすぎな行為のせいで、素直に相手になりたくなくなる。
まったく、なんとか必死に知らぬふりを通そうと頑張っているのに、笑いそうになるじゃないか。
苺に対して立腹し、爽は顔を苺に向けて、彼女をまっすぐに見つめた。
すると苺は、爽が自分に向いたことにびっくり顔をしてから、嬉しげに笑う。
私が、わざと無視をしていたことくらい、わかっているはずだが……
『なんですか?』と問いかけてもよかったが、意地悪をしたくなり、無言で苺を見つめ返す。
じーっと見つめられ、苺はもじもじし始めた。
百面相を繰り返していたことが、今更恥ずかしくなったのかもしれない。
「え、えっとぉ……」
「鈴木さん、貴女の言いたいことはわかっていますよ」
「へっ! わかるですか? それじゃ、何を言いたいと思っているのか、当ててみてくださいよ」
苺は、むっとしつつ挑戦的に言葉を放つ。
「仕事が今日で最後なのが寂しいという話でしょう?」
「……当たってるようで当たってませんよ」
「うん? それはどういうことです?」
「寂しいのは本当だけど、苺が言いたかったことは、それとは違うってことですよ」
「では、何が言いたかったのか、言ってみなさい」
違うと否定されたことに少々イラッとしたものだから、思わず居丈高に言葉を吐いてしまう。
「店長さんは、このお店との別れが寂しくないんですか?」
苺は拗ねた表情でそんな問いをくれる。
もちろん、寂しくないわけがない。
「寂しいですよ。ですが、次の仕事に取りかかるには、ここを去るしかありませんからね」
「それじゃ、去らなきゃいいだけのことじゃないですかぁ」
苺の拗ねようは、さらに濃くなる。
苺は、いまもなお、ここに残りたい気持ちが強いのだろうが……
「ねぇ、鈴木さん」
「はい?」
「前の職場を去るときも、いまと同じような気持ちだったのですか?」
「えっ?」
爽の質問に面食らったようで、苺は眉をひそめて考え込んだ。
「前のとこはアルバイトだったから、正社員で雇ってくれるところをずっと探してたんですよ。だから……今みたいには……けど、辞めることに決まってから、慌てたっていうか……ひどく寂しくなっちゃったけど……」
「その寂しさも乗り越えたのですから……今回も同じですよ」
「そうなんだろうけど……ここにお勤めしてほんの四か月くらだけど……色々いっぱい楽しかったから……その分余計に寂しいんですよぉ」
爽は、口元に笑みを刻んだ。
まったく、嬉しいことを言ってくれる。
「それに、トリオのおばちゃんたちとか、ネックレスのお客様とか……もう会えないかもしれないじゃないですか」
「それについては、イベントなどの応援にくれば、会えるかもしれないと言ったでしょう?」
「ダメですよ」
「ダメ? ダメとはどういうことです?」
「ここはもう、店長さんやわたしのお店じゃないです。今日一日で、そうなんだってはっきりと感じさせられちゃったのに……イベントのときにお手伝い出来ても……、そこにおばちゃんたちやネックレスのお客様が来てくれても……もう、違うんですよ。これまでみたいな接客はもうできないんだって……身に染みてわかったんです」
言い終えた苺は、肩を落としてしょぼくれている。
そんな苺を見て、爽は胸が締め付けられた。
確かに、店の実権はすでに次のスタッフに全面的に移行している。
爽や苺は、すでに邪魔な存在と言ってもいい。
これまでならば、さっさと店を引き継ぎ、新しい事業についているだろう。だが、今回は苺の気持ちが整理できるようにと、三月いっぱいまで残る形にしたのだ。
この店に、もう自分の居場所はないのだと、苺に自覚してもらいたかったのだが……
その効果はあったようだが、こんな風に辛い思いをさせたいわけではなかったのにな。
どう言葉をかけようかと思い悩んでいたら、苺が顔を上げてきた。そして表情を改めて、爽を見つめてくる。
「ごめんです」
謝られて、戸惑う。
「鈴木さん?」
「あれこれ愚痴っちゃって……。けど、話を聞いてくれてありがとうです。ちょっと気持ちがすっきりしたですよ」
「そうですか」
こくりと頷く苺を見て、胸がきゅんとしてしまう。
仕事場だというのに、無性に抱き締めたくなってしまうじゃないか。
いっそ行動に起こしてやろうかと考えたところで、更衣室のほうからゴトゴトといくぶん大きな物音がした。
「大きな音でしたけど、岡島さん大丈夫ですかね?」
苺が、更衣室のほうを気にして言う。
午後から、怜は更衣室の荷物を片付け始めている。
気になるので、爽は立ち上がり、怜の様子を確認に行った。
「怜、大きな音がしたが、大丈夫か?」
「あっ、爽様すみません。重ねていた段ボールが転がり落ちてしまって」
「怪我はしていないのか?」
「はい。ご心配をかけて申し訳ありません」
爽の後ろから顔を覗き込ませている苺も、その返事にほっとしたようだ。
「うわーっ、この部屋、凄いですね」
更衣室の中を見て、苺は驚いた声を上げた。
確かにずいぶんと物が散乱している。部屋が狭いものだから、片付けに難儀してるのだろう。
「お手伝いしましょうか?」
苺が申し出る。
「いえ、大丈夫です。夕方には手伝いのスタッフがやってきますし、それから本格的にやりますので」
「でも……」
苺は納得できないような声を出す。
「苺、ここは私が手伝いますよ。貴女は自分の荷物をまとめなさい」
「……わかったです」
爽は床にあった空の段ボールと紙袋を苺に手渡した。
「ついに来ちゃったか」
段ボールと紙袋を受け取り、苺は渋い顔でそんなことをブツブツ言う。
それでもくるりと背を向け、更衣室から出て行った。
「鈴木さん、ずいぶん寂しそうですね」
苺を見送り、怜が言う。
「そうだな。だが次の仕事に入れば、寂しがってもいられなくなる。ほら、手伝おう。何をすればいいか指示してくれ」
「い、いえ、爽様に手伝っていただくなんて……」
「いいから、指示しろ。ここで遠慮は必要ない」
「……わかりました。それでは……」
そんな風に初めはぎこちなく指示を出していた怜だが、次第に遠慮がなくなってきた。
爽はいい汗を掻くほどには、きっちりと働かされることになったのだった。
宝飾店での仕事は、こんな風にして終わりを迎えた。
店を去るとき、苺は泣きそうだったが、涙を零すことはしなかった。
必死に涙を堪える彼女を見て、爽の愛は深まるばかりだった。
つづく
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