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3 申し分のない朝 (爽
「今朝は三才児だな」
ぐっすり寝入っている恋人を見つめ、爽はひとりごちた。
苺ときたら、毎朝、寝ている様子が違うのだから、面白いったらない。
今朝は、大の字になり、右足だけを大きく開き、膝のところで九十度に曲げている。そして両手はバンザイ状態だ。
寝ていたら顔に何か当たって爽は目覚めたのだが、この苺を見て、それは彼女の腕だったとわかった。
時刻は七時、今日は土曜日で、いつもだったら仕事なのだが、爽の屋敷で婚約パーティーを開くことになっているのだ。
藍原と岡島にも参加してもらうことにした。
宝飾店のほうは四人とも休みということになるので、四月から常勤となるスタッフに任せることになっている。
宝飾店から手を引くのは、これまでよりも心が残る。あの宝飾店のおかげで苺と出会えたのだからな。
爽は苺の寝顔を見つめた。
彼女も宝飾店を去ることを寂しがっている。けれど、新しい職場も楽しみにしてくれているようだ。
私が新しい職場について詳しい説明をしないものだから、不服なのだろうが……
色々と教えてしまうと、苺はかえって落ち着かなくなるに違いない。そして、あれこれと、どうでもいいような質問を繰り返しそうだ。
婚約パーティーは十一時からの予定だが、十時には鈴木家の皆を連れて行くと吉田に伝えてある。
鈴木家には、九時半には迎えに行かなければならないな。
そしてその前に、苺をエステに連れていき、ピカピカに磨いてもらい着飾らせる必要がある。そちらは一時間ほどかかるだろうから、エステには八時に到着しなければ。
となると、もう起こさなければいけないか。
さて、今日はどうやって起こそうか?
昨日は、寝ている苺を抱え上げて、ベッドから降ろしてそのまま歩かせたのだが……
苺は徐々に目覚め、洗面所に着いた頃にはすっかり目を覚まし、文句ひとつ言言わずに普通に顔を洗った。
あれは拍子抜けだった。
爽の予想では、『何するんですかぁ?』とか、ぶつぶつ文句言うと思ったのに、すんなりいき過ぎて、ちっとも面白くなかった。
まあ、意表をつかれたわけで、あれはあれで面白かったと言えるのかもしれないな。
そうだ、今朝は濃厚なキスをして起こしてやろうか?
苺のことだから、びっくり仰天するに違いない。
にやっと笑い、さっそく実行しようと苺に迫った爽だが、苺の寝相を見て、気持ちが萎えた。
そうだった。今朝は三才児……
爽は手を振り上げ、苺のおでこをピタンと叩いた。
「うきゃっ」
突然の衝撃に驚いた苺は、変な叫びを上げてパチッと目を見開いた。
「おや、今朝は簡単に起きましたね」
「へっ?」
苺は戸惑い顔で爽を見てくる。
「どうしました?」
「い、いや、あの……なんかびっくりしちゃって」
「びっくり?」
「眠りこけてるところに、なんか食らったんですよ。それでびっくりして起きちゃったんです」
『なんか食らった』の言葉に、どうにも噴き出しそうになったが、ぐっと我慢する。
「そうですか?」
なんとか澄ましかえって相槌を打っておく。
「そうですかって……」
訝しそうな目をした苺は、じとっと爽を見つめてきた。
「なんです?」
「爽、なんかしたでしょう?」
「なんかとは?」
「だから、なんかしたんでしょう? それで苺は起きたんですよ」
「変な人ですね。されたことがわからないんですか?」
「わからないから聞いてるんですよ! って……やっぱりなんかしたんですね?」
ぷりぷりしながら苺は文句を言う。
爽はスルーすることにした。
「そんなことより、朝食を食べましょう。用意していますから、さっさと顔を洗っていらっしゃい」
そう言ってキッチンに向かおうとしたら、苺に手を掴まれた。
「ちょっと待ってくださいよ。まだ問題が片付いてませんよ」
「顔を洗いにいけばわかりますよ」
「うん? なんで顔を洗いに行ったらわかるんですか?」
「とにかく実行してみなさい」
笑いを堪えつつ、爽はキッチンに入り、紅茶を入れ始めた。苺は爽をじろじろ見ていたが、洗面所に駆けて行った。
一秒、二秒と時間を計っていると、五秒後に「ああーっ」と苺が叫んだ。
「ぷっ! くっくっく……」
あまりに愉快で大笑いしていると、苺がすっ飛んできた。
おでこを指さし、「爽、これはどういうことですか?」と怒鳴る。
苺のおでこはほんのり赤くなっている。
そんなに強く叩いたつもりはないのに、肌が白いせいで赤らんだのが目立つのだ。
「パチンと軽く叩いただけですよ」
「そうか。あの衝撃はこれだったのか」
どうやらようやく納得したようだ。
「そういうことです」
爽は冷蔵庫を開けて、朝食を取り出した。
爽が大平松にリクエストした、トマトスープを電子レンジで温めることにする。
「それなんですか?」
「トマトのスープですよ」
「へーっ、あったまりそうですね。あっ、苺このパン大好きですよ」
「たくさんありますから、いっぱい食べてください」
「はーい。それじゃ苺、急いで顔を洗ってくるです」
額を叩かれたことはもうどうでもよくなったのか、それとも頭から消えたのか、苺は洗面所に駆けて行った。
まったく単純だな。
くっくっと笑いながら、ポットにお湯を注ぐ。
紅茶を入れたポットにカバーをかけたところで、苺が戻ってきた。
「相変わらず早いですね。どうせまた適当に洗ったんでしょう?」
「そんなことないですよ。はい、はい、お小言はいいから、ご飯食べましょう。お腹空いちゃったですよ」
「紅茶を入れたばかりです、もう少し待たないと」
爽はふわりと苺を抱き締めた。
「うん、いい匂いがしますね。それに、しっとりと冷たいほっぺたが気持ちがいい」
苺のやわらかな頬に、爽は口づけた。
苺は顔を真っ赤にして、じっとしている。
目は泳ぎ回り、かなり狼狽中のようだ。
「そうそう、前に恋人ごっこをしたことがありましたね」
「あ、う、うん」
「あれはあれで楽しかったですね?」
「ま、まあ」
「けど、いまは本物の恋人同士。ですね?」
苺は返事をせずに、爽の目を覗き込んでくる。
「愛してしますよ」
そう口にして微笑んでしまう。
自分でも甘ったるい笑みだと思うが、自然とこうなってしまうのだから、どうしようもない。
苺は爽の腕の中でもぞもぞと動いていたが、反応に困ったようで、ジタバタし始めた。
「まったく、素直に恋人モードになりなさい」
「だ、だって……」
困ったようにブチブチ言う苺の唇に、爽はちゅっと音を立ててキスをした。
苺をびっくりさせた爽は、あっさり彼女を離した。そして紅茶のポットに向く。
「さあ、もう飲みごろですよ。朝食をいただきましょう」
ポットを持ち上げ、テーブルに運んで行ったら、背後で苺が「きーっ」と叫んだ。
まったく苺はいい反応をするな。
キスも最高の味わいだったし……
申し分のない朝に満足しつつ、爽は、むかっ腹立てて自分に飛びかかってきた苺を余裕で抱き止めたのだった。
つづく
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