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31 ひとまず棚上げ
オフィスのあるエレベーターに乗り込み、苺は上部に表記してあるナンバーを見上げた。
上昇の体感とともに、右へと点灯が移動していく。
今日は普通に出社。どこにも出かけない。このオフィスに来て、なんと初めてのことだ。
この三週間、ずーっと日本国内のあちこちに出向いては、新しいお店で扱う商品を探して回っていた。
遠方に出かけてばかりの毎日は、ちょっと大変ではあったけど新鮮で、とっても楽しかった。
最上階に辿り着いた。
エレベーターを降りた苺は、社長室というプレートのかかったド
アを開け、ぴょんとオフィス内に飛び込んだ。
「一番乗りぃ!」
両手を振り上げ元気よく叫んで顔を上げたら、目の前に藍原さんがいた。
なんだ、苺たち一番乗りじゃなかったのかぁ。
「爽様、鈴木さん、おはようございます」
お侍のように凛々しい挨拶をいただく。すると爽は、「おはよう」と貴族様のように品よく応じた。
「お、おはようございます」
爽に続いて挨拶を返したら、なぜか藍原さんは苺の顔をじっと見つめてきた。
何を考えているのかまったく分からない目で、その視線は妙に痛く感じた。
な、なんなの?
苺、藍原さんに威嚇されてるのか?
「朝からお元気ですね」
藍原から淡々と言われ、受け答えに戸惑う。
「あ……ありがとうご……」
思わずお礼を言い掛けて、苺は言葉を止めた。
ここはお礼を言うところなのか? 褒められてる気がまったくしないのに?
助けが欲しくてチラリと爽を見たら、彼はすっと藍原に近づき、彼の耳元に何か囁いた。
爽は少し険しい表情をしていて、文句でも言ったかのようだ。
すると藍原がこちらを見た。
苺は思わず両腕を構えて防御の態勢を取ったが、藍原は何も言わず、爽に向けて軽く頭を下げると自分の机に歩み寄って行った。
「爽……」と呼び掛けて、そうじゃなかったと思い直す。ここは職場だ。
この職場では、藤原社長と呼ぶことになったんだよね。
「あの、藤原……しゃっちょう……しゃ、社長」
普通に呼べず、苺は顔をしかめた。
すると、「もう一度」と爽が言う。
「藤原、社長」
呼びかけているというより、言葉を口にしているだけという感じになってしまう。
「なかなか難しいです」
店長さんと呼ぶ方がよかったなぁ。
「言い続けていれば、おのずと慣れますよ」
そう言ってきたのは、すでに席に着き、パソコンのキーを叩いている藍原だった。
まあ、そうかもね。なんて思っていると、給湯室のドアが静かに開いた。
トレーを抱えた岡島さんが現われる。
「あれっ、なんだ、岡島さんも、もう来てたんですね」
「はい。爽様、鈴木さん、おはようございます」
丁寧に言い、岡島さんは湯気の立つ湯呑をそれぞれに手渡してくれる。
緑茶だ。いい香り。
「試飲してください。こちらがこのお茶の生産者のデータになります」
そう説明しながら、藍原が紙を手渡してきた。A4の用紙には、文字に図にグラフなどが並んでいる。
爽はまずお茶の香りを嗅ぎ、それからゆっくりと口に含んだ。
「うん、うまい」
そう言葉を発して、爽はデータを確認しはじめる。
婚約者のスマートな行動に見惚れていた苺は、ハッとして我に返り、爽の真似をした。
うーん、いい香りだぁ。
口に含むと、緑茶の香りとともに好ましい味わいが口中に広がる。
「美味しいです」
苺は思わず叫んでいた。
きっとこのお茶も、新しいお店に並ぶんだろう。
お茶を美味しくいただきながら、苺はオフィスの中を改めて見回した。
それにしても、凄いことになってるよね。
新しい店で扱う商品で、いまやこのオフィス内は溢れ返っている。
けど、不思議なことに、まったくごたごたしてなくて、とても綺麗に整頓されていた。
これだけ物が多いと、普通なかなか片付かないものなのにさ……
藍原さんの手にかかると、魔法みたいに整ってしまうようだ。
みんなして日本のあちこちに出掛け、集めて来たもろもろの商品。
こんな仕事はもちろん初めてなんだけど、やりがいとともに面白さを感じてる。
まあ、楽々と商談がまとまることばかりじゃなくて、色々とあったけどね。
それにしても、色んな経営者がいたなぁ。
自分の創る商品に自信や愛情を持っているひともいれば、利益のことしか考えてない人もいた。
苺が以前アルバイトをしていた会社の社長みたいなタイプの人もいて……そういう人は、残念ながらいい社長とは言えなかった。
胸がちょっとシクシクしてきて、苺はちょっと頬を膨らませた。
松見さんたち、どうしてるのかな?
思い出してしまうと、知らずため息が零れてしまう。
「鈴木さん」
爽から呼び掛けられ、ため息をついたばかりだった苺は慌てて顔を上げた。
「は、はい」
返事をしたら、机の上になにやらどさどさと物が置かれる。
なんだこれ?
「あの、これは?」
「鈴木さんにお願いしたい仕事ですよ」
苺の仕事?
色んな種類の紙に、ハサミや糊。そしてカラーペンなんかもある。これで何かを作るようだけど……
「何を作るんですか?」
「あなたには、店の模型の制作をやってほしいのですよ」
「模型を作るんですか?」
「ええ。店舗の内部をどんなインテリアにするか、これから話し合って決めていきますが、鈴木さんにはそれを模型で形にしてほしいのですよ。やりたくありませんか?」
苺は瞳を輝かせた。
「やりたいです。やらせてください」
ハサミと紙を使っての作業だなんて、以前の職場の仕事に類似してる。
もちろん、店舗の模型なんて初めてだけど……
苺はワクワクしながら、切れ味のよさそうなハサミを取り上げたのだった。
「ねぇ、苺。あんたたち、次はどこに行くのよ?」
流し台に母と並んで立ち、夕食後の片づけをしていると、母がこそこそという感じで問いかけてきた。
一週間に一度は、こうして爽とともに実家に夕食を食べに来ている。
まこちゃんこと、甥っ子の真理に会いたいってのが一番の理由だったりする。
もうどんどん大きくなってっちゃうんだもん。
成長ぶりに圧倒され、目を離していられない。
その可愛い甥っ子は、いま授乳中で別の部屋に移動してる。
早く戻ってこないかなぁ?
帰る前に、もう一度抱っこして、あの屈託のない笑顔が見たい。
「ちょっと苺、聞いてないの?」
節子に声を掛けらにれ、苺は母の問いを思い出す。
次はどこに行くのかって、聞かれたんだったな。
「まだ決まってないよ」
そう答え、ゆすぎ終えたお皿を母に手渡す。
「北陸あたりもいいんじゃないの。それか日本海……美味しい物がいっぱいありそうだわねぇ」
節子の声には、多大なる期待がこもっている。
そんな母に、苺は呆れつつも笑いが込み上げてきてしまう。
お母さんったら、完全に味をしめちゃってるな。
北陸あたりもいいんじゃないかなんて……出かけてるのは仕事だってのに。
だけど、この一カ月くらい、お土産のオンパレードだ。
爽と一緒に国内のあちこちに出向くたびに、爽はあれこれお土産を買い込み、苺の実家に届けてくれた。
ひっきりなしな状態だから、もういいですよって苺は止めるんだけど、苺の家族が喜ぶだろうからと、美味しそうなものを見つけるたびに爽は購入してしまう。
それにしても、色んなところを回ったことで、色んな意味で人生勉強したなぁ。
苺は自分の手にしている皿を見つめ、顔をしかめた。
松見たちの顔が、また頭に浮かんできてしまう。
色んな会社を訪問するたびに……以前の勤め先のことが思い出されて……
会社がいまどうなっているのかも、松見さんたちがどうしているのかも、気になって、気になって……
けどさ、こっちからは顔を出しづらいんだよね。松見さんたちも、お正月以降、お店に顔を出してくれなかったし。
苺は、またきっと来てくれると思っていたのだが、三人は来ないまま、苺は宝飾店から去ることになってしまったのだ。
こっちから会いに行かなきゃ、もう会えない。だから会いに行こうと思うんだけど……
情けないことに迷ってるばかりで行動に移せずにいた。
そして、苺自身は自覚できていなかったが、松見たちのことを思い出しては、知らずため息をついてしまっているのだった。
「苺、いつまでその皿を洗ってるつもりよ」
母が声を掛けてきて、苺は現実に立ち返った。
「あっ、ごめん。ちょっと考え事しちゃってて……」
そう言いつつ苺は慌てて皿をゆすぎ、節子に手渡した。
「なによ。何か悩みでもあんの?」
娘の様子が気にかかったようで、節子は気がかりそうな眼差しを向けてくる。
「ちょっと……ね」
「まあ、藤原さんと何かあったのね?」
ずっと抱えていた不安が的中したと言わんばかりに、節子は苺に迫ってきた。
爽がすぐそばの居間のソファに座っているので、彼に声が届かないように、ひどく声を抑えている。
「爽のことじゃないよ」
苺も爽の耳を気にして、小声で返す。
「あら、そうなの?」
節子は一瞬拍子抜けした顔をしたが、「何よ、心配させてぇ!」とさらに声を抑えて怒鳴りつけてきた。
しかし、これには苺もムッときた。
「なんで怒鳴るの?」
「あんたが、無闇に心配させるからに決まってんでしょ」
「お母さんが勝手に心配してるんじゃん」
苺は呆れて言い返しながら、洗い物の最後の一枚を母に手渡した。
節子はブツブツ言って皿を受け取る。
片付が終わり、エプロンで手を拭いて台所を出たら、授乳を終えたらしく真理を抱いた真美が戻ってきた。
こうしちゃいられない。
苺は悩みをひとまず棚上げし、喜々として甥っ子のもとに飛んで行ったのだった。
つづく
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