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35話 仰天キス
まるで魔法のようだな。
目の前で動く苺の十本の指は、魔法で操られているかのようなのだ。
人の指というのは、そんな風に動かせるものなのか?
その疑問を心に抱いた爽は、テーブルの上にある折り紙に手を伸ばしていた。
苺と同じ色の青い折り紙を一枚取ると、苺を真似て折ってみる。
すでに苺はいくつものアジサイの花を折り上げている。ずっと見ていたので、手順は頭にあった。
だが……
おかしい。こんなはずではないのだが……
爽は、なんとか折り上げたアジサイを見つめ、眉をひそめた。
同じように折ったはずなのに、自分のものは明らかに見劣りしている。
苺よりも時間をかけて丁寧に折ったのにだ。
「爽ってば、びっくりですよ」
アジサイ作りを続けていた苺が急に話しかけてきて、爽は苺に向いた。
びっくり?
「折り方を教えたわけじゃないのに、折れちゃってるぅ」
苺は爽の作り上げたアジサイを目を丸くして見つめている。
「貴女が繰り返し折るところを見ていましたからね」
「うーん、爽って、やっぱり凄いです。それにすっごい上手に折れてますよ」
苺は心の底から褒めているようだ。だが、実際には出来上がりの差は歴然。
褒められるようなものではないので、いささかイラっときた。
「褒められても嬉しくありませんね」
正直に言ったら、苺は戸惑った顔をする。
「なんでですか?」
「明らかに貴女の方がうまい」
そう言った途端、真理の寝顔を見ていたはずの健太が声を上げて笑い出した。
「健太さん」
「いや、こいつがうまいのは当たり前だし、こいつよりうまく折りたければ、もっと経験を積まないと無理でしょう」
そうなのかもしれないが……
「貴女はそんなに、アジサイを折る経験を積んだのですか?」
「去年の今頃、仕事でさんざん折り続けたから」
「そうそう、お前、毎晩内職みたいに家で折ってたよな」
「家で? まさか、仕事を持ち帰って折っていたんじゃありませんね?」
そう尋ねたところで、爽は去年の年末のことを思い出した。
苺は、福袋用のラッピングを家に持ち帰ってやってくれた。
仕事を家でやらせてしまうことに、申し訳なく思いながらも、やってもらうことになった。
もちろん、その分の報酬は支払わせてもらったのだが……
「持ち帰ってやらないと、どうしても納品日に間に合わせられなかったんですよ。間に合わないと、次の仕事貰えなくなっちゃうんで……」
そんなもの、バイトである苺には関係ないことだ。
「時間外の報酬は、きちんと払っていただいたのでしょうね?」
眉を寄せて苺に聞いたら、笑い交じりにぷっと噴く。
「そんなものくれませんよぉ」
くれない?
仕事が貰えなくて困るのは経営者だ。
正当な賃金を払わないのであれば、間に合わずに仕事が貰えなくなったとしても仕方がない。
だが、苺はそんな風には考えていないようだ。それが、無性にむかむかする。
「無報酬だなんて、おかしいじゃありませんか?」
納得できず思わず食って掛かるように言ったら、健太に背中をとんとんとなだめるように叩かれた。
振り返ると、彼は苦笑している。
「まあまあ。世の中そんなもんですよ」
そんなもので片付けるのか? 爽には納得できない。
「正当な額を請求すべきですよ。いまからでも」
苺の元職場は、現在新しい社長が経営を引き継ぎ、倒産すんでだった会社は立て直されている。
しかも、バックにいるオーナーは要だ。要に請求してやるとしようか。
「そんなのいまさらですよ。別にいいですよ」
爽の本気を見てとったようで、苺は焦った様子で両手を振る。
「よくありませんよ。まったく、できるものなら、前社長に直接支払い請求をしてやりたいものだが……」
すでに会社を退いてしまったのでは、訴訟を起こしても無理だろう。
要が手を出す前に、訴訟を起こすべきだったな。前社長を懲らしめてやれもしない。
「爽、本気で言ってませんよね?」
苺は顔を歪め、爽の顔を下から覗き込むようにして聞いてくる。
「本気に決まっていますよ」
「お前ら面白いな」
苺と本気で言い合っていたら、健太はそう言ってさらに笑い出した。
その笑い声のせいでか、真理が目を覚ました。「あー、あー」と可愛らしい声が居間に響く。
その途端、健太と苺は真理に夢中になった。
夕食を終えて片付けを終えた苺は、アジサイの仕上げに取り掛かった。
バラバラだった花をひとまとめにしていくと、アジサイが出来上がる。
緑色の葉っぱも折り上げられて、花に添えられた。
立体的で、素晴らしく見栄えがいい。
感心して眺めていたら、「いいじゃないの。季節にぴったりね」と節子が感想を口にした。
「本当ですね。苺さんはほんと器用ですよね」
真理を抱いた真美も、感心したように口にする。
鈴木家の面々はテレビを観ながら雑談していて、苺の折り紙にはまるで興味を持っていない様子だったのだが……
「額縁に入れて飾る?」
苺はなぜか、にやにやしながら母に尋ねる。その発言に爽は少し焦った。
これは自分の部屋に飾らせてもらうつもりでいたのだが……
「額縁ぃ? そんな御大層なものぉ?」
節子は小馬鹿にしたように言う。
額縁に入れて飾るつもりでいた爽は、眉を寄せた。
「素晴らしい作品だと思いますが」
思わず口を挟んだら、節子は「作品?」と戸惑い顔になる。
「良かったな苺」
そう言ったのは、苺の父の宏だった。
「ただの折り紙をそんなにも好評価してくれるとは、藤原君なればこそだぞ」
宏の声にはからかいが含まれていた。
苺は、照れ臭さを誤魔化すように目を見開いて、家族のひとりひとりに目をやっていたが、最後に爽に向き、嬉しそうに微笑んだ。頬を桃色に染めている。
だが爽は、もやもやした気持ちに囚われた。
私は苺の作品を正当に評価しただけなのに……
そこで急に苺が立ち上がった。
見上げると、「ちょっと用意してくるです」と急いで部屋を出て行く。
「苺?」
呼びかけたが、彼女は既にいない。
「あいつ、照れたな」
くすくす笑いながら宏が言うと、「照れたわね」と節子が笑いながら同意する。
健太も真美も笑っている。ほのぼのとした空気だ。
あの、私は……と、自分も思いを伝えようとして、爽は気を変えた。
ここで、自分の考えを口にするのは余計なことだな。
苺はすぐに戻ってきた。
手に持っていたのは小さなガラスの器と筆のようだ。器には透明の液体が入っている。
コトンと音を立てて器がテーブルに置かれ、「これは?」と聞いてみた。
「お水ですよ」
そう答えた苺は、筆を水につけると、完成したアジサイに筆を撫でつけた。
当然、水で濡れた部分の色が滲んでしまう。
「何をやっているんです?」
驚いた爽は、苺の手首を掴んで止めた。
だが、すでに水で濡れた部分の色が滲んでしまっている。
顔をしかめてしまったら、「もおっ、これでいいんですってば」と苺は叱るように言う。
「どうしてです? 色が滲んでしまいましたよ」
「ですから、これでいいんですって」
苺は言い募り、さらに筆を動かす。
納得できぬまま苺の暴挙を見ていた爽は、鈴木家の家族の視線を感じて視線を巡らせた。みんな、愉快そうに爽のことを見ている。
それぞれと目が合い、ちょっと気まずくなる。
どうやら、らしくなく熱くなりすぎたようだ。
この雰囲気を払拭するために、何か言いたかったが、言葉が見つからない。
「はい、できましたよ。どうですか、爽?」
肩をちょいちょいっと突かれ、爽は苺に振り返った。
苺は手にしたアジサイを爽に向けている。
「あ」
驚きの言葉を発して、時間を止めてしまう。
折り紙のアジサイだったものが……
「苺、あんたはほんと器用だわねぇ。デザイン科なんてところに通っただけあるわ」
節子が感心したように言うが、爽も同じ意見だ。
水に濡れて色の滲んだアジサイは、クオリティーの高い芸術作品へと変貌を遂げていた。
「貴女は素晴らしいな」
爽は思ったまま口にし、笑った勢いで苺の唇にキスをした。
家族の前でキスをもらったことに仰天した苺は、「うわーーーっ!」と淑女らしからぬ叫びを上げ、爽から飛びのいたのだった。
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