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37 上り損に笑い (爽
気になる。
気にしても意味はないと分かっていても……気になる。
気になってならない。
目の前のアジサイの花に目の焦点を合わせながらも、先ほどの水木との電話で苺が口にした言葉が、爽は気になってならなかった。
一昨年の夏、みんなで一緒に海に行った?
写真をいっぱい撮ったとも、彼女は口にした。
夏の海というのであれば、もちろん苺は水着姿……か。
一緒に行ったみんなというのが誰なのか?
オレロンという名が頭に蘇る。
昨年の暮れ、苺に電話を掛けて来た男……あの時はしっかりと、自分の存在を相手にアピールしてやったのだが……
「爽、そのアジサイがお気に召したですか? その子も素敵ですよね」
顔のすぐ近くから、苺が明るく声を掛けてきて、爽は彼女の方に首を回した。
至近距離で目が合う。
すると、苺がきゅっと眉を寄せた。
「なんで、そんな顔してるですか?」
苺は窺うように聞いてくる。
彼女がそう聞いてくるのも、自分の態度を顧みれば当たり前のことなのだが、少し焦る気持ちが湧いた。
「そんな顔とは、どんな顔です?」
表情を何気ないものに変えながら言葉にしたが、どうにもぶっきら棒な口調になってしまい、爽は自分に呆れた。
まったく、私らしくない。たかがこんなことに、こうも動揺してしまうとは……
「爽、さっきから、なんか変ですよ」
「どう変だというんです?」
今度は心して、なんでもなさげに口にした。が、苺は爽の顔を窺うように覗き込んでくる。
彼女と視線を合わせていられず、爽は目を逸らした。
「なんか……楽しくないみたい」
苺の瞳に哀しそうな色が浮かぶ。
「……」
胸がツクンとした。
そして、いまの自分が滑稽に思えてきた。
自分と出会う前の苺……夏の海に泳ぎにも行くだろうし、水着を着ることだってあっただろう。
なのに、そういう事実があったことを耳にすると、どうしようもないことなのに心がもやもやする。
まったく馬鹿者だな……
爽は小さく息を吐き、ついで苦笑し、苺と目を合わせた。
苺は爽の変化を戸惑い顔で見ている。
「先ほどの電話でのお話の……海には、どなたと行ったのですか?」
そんな問いが向けられるとは思っていなかったようで、苺はさらに戸惑いの色を深め、それから首を傾げたが……
「みんなとですよ。ああ、みんなってのは専門学校の生徒全員です。夏のイベントでサマーキャンプってのがあって、行ったんですよ」
サマーキャンプ?
専門学校のイベントだったとわかり、もやもやがいくぶん薄れる。
オレロンなる男もたぶん一緒だったのだろうが、そこは目を瞑るとしよう。
「その時の写真、帰ったら見せてくださいますか?」
見たい気持ちと見たくない気持ちのはざまで心を揺らしながら、そう口をついて出る。
「もちろんいいですよ」
そう答えた苺の表情が、なぜかくるくると変化した。
楽しいものから苦いものになり、何を思い出したのか、最後にくっくっと笑う。
「どうしました?」
「いっぺんに色々と思い出しちゃったですよ」
「色々とは、何があったんですか?」
「うーん……それは家に帰って一緒に写真を見ながら話しますよ。いまは、このアジサイを楽しまないですか?」
苺は両腕を広げ、周りのアジサイを見回しながら提案してくる。
確かに苺の言う通りか……
苺の表情の変化に伴う思い出は、かなり気になるところなのだが、今日はアジサイを楽しもうとやって来たのだからな。
「そうですね」
そう答えつつ、爽は改めてアジサイに視線を当てた。
ここアジサイ園は、花の種類が豊富で、こんなアジサイもあるのかと見惚れることしばしばだった。
そういえば、この先に甘味処があるのだったな。
苺からこのアジサイ園に行こうと誘いを受けて、あらかじめホームページで確認してきている。
苺の気に入りそうなスイーツの画像が掲載されていた。
苺は前に家族で来たそうだが、その時に甘味処にも入ったのだろうか?
そのことを聞いてみようとしたら、苺が甘味処のある方向を指でさした。
「こっちの上り坂の向こう、小道が続いてるけど木が生い茂ってて……たぶんなんにもないよねって、前に来たとき行かなかったんですけど」
そうか、彼女は甘味処があることすら知らないのだな……
「もしかすると、アジサイがいっぱい咲いてたりするんですかね?」
爽に質問しているのではなく、苺は知らないもの同士で相談するという感覚で口にしたようだ。
甘味処がありますよと伝えようとして、爽は思いとどまった。
それでは興をそいでしまう。そして、この時になって後悔を感じた。ここは私も知らずにいた方がよかったな……と。
何かあるかもしれませんね。行ってみましょうという流れで、苺と甘味処を見つけられた方が、ずっと楽しかっただろう。
とはいえ、事前情報を得ておかなかったばかりに、楽しいものを見逃すことだってあるわけで……悩ましいな……
そんなことをあれこれ考えつつ、爽は苺に笑顔を向けた。
「何があるか、確認してきましょう」
そう口にすると、苺は求める言葉が返ってきたという晴れやかな表情になり、大きく頷く。
「ですよね。行くっきゃないですよ!」
高らかに宣言した途端、苺は爽の手をぎゅっと掴み走り出した。
「苺、そう走らなくても」
笑って声を掛けたら、苺は走り続けながら首を回し、「走りたい気分なんですぅ」と上機嫌で返してくる。
楽しい気分がさらに膨らみ、ならばと爽は、今度は自分が苺の手を引っ張り、さらに速度を上げて走り出した。
すぐに苺が根を上げる。
「はあ、はあ、はあ。もおっ、爽ってば……はあ、はあっ……は、速すぎですよぉ。坂道なんだから、くっ、苦し~ぃ」
息を切らせた苺は、必死の体で文句を言ってくる。それがますます爽の楽しい気分を盛り上げる。
「ちょ、ちょっとお~。ほ、ほら、ここら辺り、アジサイあんまりないですよ。だから……はあ、はあ……そ、爽、このまま坂を上がっても、はあはあ、な、なんにもないみたいだしぃ、もう走るのやめないですかぁ?」
すでに懇願する口調だ。だが、もう甘味処は視界に入りつつある。
しかし苺は、坂も上りきる直前だというのに踏ん張るようにして足を止めてしまった。
「苺?」
「だからぁ、もうタンマですよぉ」
強引にストップをかけ、もう走らないぞとばかりに両足を広げて踏ん張っている。
そのポーズが滑稽で、笑いをそそられる。
「もう走りませんから、とにかくこの坂を上り切りましょう」
「いやいや、だからもういいですって」
きっぱりと宣言し、苺はくるりと身体の向きを変えた。そして、「さあ、とっとと引き返すですよ」と言い足を踏み出そうとする。
そうはさせまいと、爽は彼女の腕を掴んで止めた。
「坂の上で、何か素敵なものが見つかるかもしれませんよ」
そう言ってみるが、苺は首と腕を否定的に大きく振る。
「なんにもありゃしませんて。周りは高い木ばっかりで、見晴らしも悪そうだし、上り損ですよ。上り損」
やれやれ、すでに坂を上りきる気持ちはゼロのようだ。
それにしても、上り損とは……笑ってしまう。
くっくっと声に出して笑ったら、苺も同様に声を上げて笑い、『それじゃいいですね』と言わんばかりに坂を下ろうとする。
もちろんそのまま行かせるわけにはいかない。爽は先ほどと同じように引き止めた。
「もおっ」
ぷくっと両頬を膨らませる苺を楽しく見つつ、さて、どうするかな? と考える。
ここにきて、甘味処がありますよと言うのも……
悩んでいたら、苺が「おおっ!」と豪快に声を張り上げた。彼女の視線は坂の上に向けられている。
「爽、な、なんかあるですよっ。ほ、ほら建物がっっ!」
どうやら見つけたらしい。
「なんでしょうね。行ってみますか?」
知っていることなどおくびにも出さず、澄まして口にする。
「もちろんですよ。こんな坂の上に何があるのか、見ないじゃいられませんよ」
苺は爽の手を引き、元気よく坂を上り始める。
「わあっ♪ 見て爽、なんと甘いもの屋さんがあるですよぉ」
大興奮ではしゃぎ、甘味処に駆け寄って行く苺を微笑ましく見つめ、爽は幸せな気持ちを満喫したのだった。
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