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「鈴木さん」
呼びかけとともに、少し荒っぽく身体が揺すられ、苺は瞼を開けた。
目の前に店長さんの顔があった。
「ようやく起きましたか……」
「はふい」
苺はあくびと一緒に答え、目を擦った。
「時間ですよ。ほら、さっさと起きて……」
苺の背中に手を当てた店長さんは、命じるように言いながら、ぐいっと彼女の上半身を起こす。
「もう……そんな時間ですか?」
まだ半分閉じている瞼を、なんとかこじ開け、苺は首を回して窓の方を見た。だが、カーテンがきっちりと閉まっているので、外の光はあまり入ってこない。
「今日は一時間早く行きたいんですよ。店までは、少々時間がかかりますし……朝食を食べたら、すぐに出ますよ」
店長さんは口にしつつベッドから離れて行き、さっとカーテンを開いた。
光が差し込んできて、一瞬にして朝がきた感じだ。
「ゆっくり朝食を食べたいのでしたら、早くしないと……デザートのイチゴヨーグルトも、なしということに……」
一瞬にして残っていた眠気は吹っ飛んだ。
焦りながらベッドから転がり降りた苺だったが、二歩足を進めたところで、ぎょっとして足を止めた。
ぎゃほん!
バスローブが、用を足していないほどはだけている。
な、なんてこった!
男物の下着が丸見えじゃないか!
驚きに固まっていた苺は、ハッとして店長さんに振り向き、バッチリ目を合わせた。
「あわわわわ」
慌てふためいた叫びをあげた苺は、バスロープの前を必死になって掻き合わせた。
「み、見た? み、み、見た?」
「見ていませんよ」
「裸だったわけではないのですから、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ」
やたらそっけなく店長さんは答える。
そんなもの、見たいものかと言わんばかりだ。
「では、私はシャワーを浴びてきますので、貴女も顔を洗ってさっさと着替えるように」
命じるように言った店長さんは、さっさと寝室から出て行った。
店長さんの態度には、なんか割り切れないものを感じるが、見たかもしれない人物がさっさといなくなってしまったのに、ひとり騒いでも虚しい。
店長さんはなーんとも思わなかったみたいだしぃ。
それにしたって、あの態度と言動……
むーーーーっ!
苺はほっぺたを最大まで膨らませた。
苺は、可憐な乙女だってのに……なにも好き好んで、こんな黒パンツなんぞ履きはしないんだ。
ぷりぷりしつつも、苺は急いで服を着替えた。
下着を穿き替えるつもりだったが、やはり迷う。
黒パンツ……いま脱いだら、もう二度と穿かないよね。
やっぱり、それって、もったいないよね。新品だったのに……
かといって、店長さんに返せるはずもない。
となれば、今日一日穿いておくとするか。
そう決めて、バスローブを脱ぎ、洋服だけ着替える。
それにしても、ボスシェフさんの朝食、楽しみだなぁ。
あっ、そういえば、おにぎり……
おにぎりは、店長さんの好物だ。
朝食に作ってあげたら、すっごい喜ぶんじゃないかなぁ?
脳裏に、店長さんの喜ぶ顔が浮かび、苺はそわそわしてきた。
よしっ、作っといてあげよう。
そうと決まれば、早くしないと……
苺はドアに駆け寄り、開けて外を覗いた。
およっ。
なんと、いいタイミングで善ちゃんが歩いてくる。
「あっ、善ちゃんだぁ」
苺は部屋から出て、善ちゃんに駆け寄った。
「善ちゃん、おはよう」
「はい。鈴木様、おはようございます」
おにぎりを作らせてもらいたいけど……そんなことはさせてもらえないかもしれない。
「ねぇ、善ちゃん、お願いがあるんだけど」
おずおずと切り出す。
「お願いでございますか? この善一に」
畏まって驚く善ちゃんに、笑みを浮かべ、苺は頷いた。
「この善一に、なんなりとお申しつけくださいませ。それで鈴木様、お願いとは……」
「爽に、おにぎりを作りたいんだけど……」
「は? おにぎり……でございますか? 爽様に?」
善ちゃんは、ものすごーく面食らったらしい。
やっぱりか。店長さん、お屋敷では食べさせてもらえてないんだ。
それで、珍しがって、苺のおにぎりを食べたがるのだろう。
「爽は、すっごくおにぎりが好きなんで、こっそり作って喜ばせたいんです」
「あの、爽様は、まだ寝ていらっしゃるのでしょうか?」
「いま、シャワー浴びてるんですよ。いまのうちに作って、ジャーンって出して、ビックリ喜ぶ顔が見たいんです。だから、善ちゃん、お願いします」
両手を合わせ、拝まんばかりにお願いしたら、善ちゃんは「それでしたら」と頷いてくれた。
苺は大喜びで、善ちゃんの腕を引っ張るようにして、厨房に向かった。
苺が善ちゃんに続いて厨房に入ると、厨房で朝食を用意している真っ最中だった、スタッフさんを驚かせてしまったようだった。
それでも、おにぎりを作りたいとお願いすると、それはもう大歓迎でおにぎりを作らせてもらえた。
ただ、残念なことに、ボスシェフさんは出かけていて留守だった。
材料はスタッフさんが用意してくれ、苺は握るだけでよかったので、あっという間にできあがる。
すると、スタッフさんたちが、それぞれ載せるお皿を差し出してくれる。
どれも甲乙つけがたい素敵なデザインで、苺は迷いつつも、一つを選んだ。
ただのおにぎりが、その皿に載せただけで、メチャクチャおいしそうに見える。
やっぱり、器ってのは大事だねぇ。
そんなことを思いながら、苺はおにぎりを載せた皿を手に、店長さんの部屋に駆け戻った。
善ちゃんの話だと、店長さんは部屋にいない苺を探したらしい。
黙っていなくなったことを、怒っているかもしれないが、このおにぎりを見せたら、絶対にご機嫌になるはず。
「鈴木様、そんなに急いでは、おにぎりが落ちてしまいますよ」
後ろから善ちゃんが声をかけてくる。
苺は、スピードを落とすことなく、「大丈夫ですぅ」と叫び返した。
店長さんの部屋に着くと、ドアの前に藍原さんがいた。
「朝から、かけっこですか? お元気ですね」
苦笑しつつ声をかけてくる。
藍原さんの視線は、苺の手にしているおにぎりに向けられた。その途端、藍原さんは楽しそうな顔になった。
「藍原さん、おはようございます」
「藍原君、爽様は?」
「私もいま来たところなのですよ。ノックをしようと思ったら、おふたりがいらしたので。……おや、おふたりだけではなかったようですね。朝食運搬隊を引き連れていたとは」
藍原さんの表現に、苺は声を上げて笑った。
藍原さんの言う通り、苺のバッグには、朝食を運ぶスタッフさんが着いてきていた。
「ところで鈴木さん、昨日まで、いったいどこに行って……」
藍原さんがそう口にしたところで、店長さんの部屋のドアが勢いよく開いた。
もちろん、開けたのは店長さんだ。
「騒がしいな」
皆に向けて文句を言った店長さんは、苺にムッとした顔を向けてきた。
「苺、いったい何をして……」
苺は、ここぞと手にした皿を見せた。
「爽、これ」
店長さんは一瞬面食らった顔になったが、おにぎりをじっと見つめる。
ふふっ。
驚いてる驚いてる。
「これは?」
「いま、作ってきたんです。まだ作りたてであったかいし、いつもよりぐんと美味しいと思うですよ」
苺は鼻高々で告げた。
店長さんは、一瞬黙り込んだが、すぐに我に返ったように瞬きした。
顔をしかめて全員を見回し、「コホン」と咳をする。
「朝食の準備をしてくれ」
その指示に、スタッフさんたちは先に部屋に入って行った。
「そのおにぎり、鈴木さんが作ったんですか?」
藍原さんに聞かれ、、苺は「はい」と答えた。
「とても美味しそうですね」
藍原さん、ちょっと羨ましそうだ。
「藍原さんも食べたいんですか?」
藍原さんに尋ねたら、店長さんに腕を取られた。
「藍原には、スタッフがいくらでも作ってくれますよ」
「ええ。これに手を出したら、狼に牙を剥かれそうだ」
「狼?」
なんで、急に狼?
「藍原君」
よくわからないでいたら、善ちゃんが叱るように藍原さんに声をかけた。
これって、苺、からかわれたのかな?
確かに、藍原さんは楽しそうに笑みを浮かべている。
「牙を剥いた狼なんか、どこにもいないから大丈夫ですよぉ」
苺は、からかいに対抗して言ってやった。
「いえ。いるかもしれませんよ、苺」
店長さんがそんなことを言い出し、苺は首を傾げた。
話の成り行きがよくわからない。
すると店長さんは、藍原さんに「なあ、要?」と鋭い眼差しを向けて同意を求めた。
な、なんだ?
藍原さんは、店長さんから身を守るようなふりをし、一歩後ろに下がる。
「これは……もう退散したほうがよさそうですね。では」
笑いを堪えながら頭を下げ、藍原さんは急ぎ足で去って行った。
「行っちゃった。……藍原さん、急にどうしたんでしょうね?」
すると、善ちゃんまで、すぐに戻ると言いながら、その場から消えた。
店長さんとふたりきりになり、苺は問いかけるように店長さんに視線を向けた。
「さあ、朝食をいただきましょう」
そう言いながら、店長さんは苺からおにぎりを取り上げる。
そうだった。おにぎり。
「あ、あの。店長さん、おにぎり……」
「ええ。とても嬉しかったですよ。苺、ありがとう」
満足すぎるお礼の言葉と、嬉しそうな爽の顔を見て、苺は喜びいっぱいに胸を膨らませたのだった。
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