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「アレキサンドリアとおっしゃるものと思っていましたよ」
むっとした顔で店長さんが言う。
アレキサンドリア?
あ、ああ、思い出した。エレキじゃなくてアレキだったんだぁ〜。
「わかりましたよ店長さん、それ、アレキサンドルライトですね?」
晴れ晴れと口にしたのに、店長さんは無表情で苺をじっと見る。
な、なんだ?
「違いますよ」
「ち、違ったですか? 今度は合ってると思ったんですけど……」
「アレキサンドライトですよ」
ああ、そっか、そっか。
『ル』の一文字が余計だったんだ。
「ちょっと惜しかったですね」
苺は悔しさを込めて言った。すると店長さんは、苺をじーっと見つめてくる。
な、なんなのその目?
呆れたようでもあり、嘆かわしそうでもあり……
そんな目をされる理由が……と思っていたら、店長さんが「鈴木さん……」と呼びかけてきた。
「はい」
「五回、はっきりとした発音で繰り返しなさい!」
叱るように言われ、苺は思わず「ひっ」と胸の内で悲鳴を上げて背筋を伸ばした。
なんで怒ってるの?
あっ、もしや店長さん、自分の自信満々な予想が外れたから、苺に八つ当たり?
やれやれ、店長さん、案外子どもだねぇ。
しかし、怖い顔をしている店長さんにそんなことは言えない。
言いつけ通り、アレキサンドライトを、緊張の面持ちで五回繰り返す。
「記憶にしっかりと刻み込めましたか?」
嫌味交じりの問いに、「は、はい」と苺は優等生のような返事をした。
それがよかったのか、店長さんの顔から少し険しさが取れる。
ほっ。機嫌が戻ったようだよ。
「まあ、正解率八十ほどでしたね。間違えたものは、十二月にも間違えていたものばかりですよ。そこを押さえて繰り返し学習するようになさい」
「はい」
「では……次は接客の練習に入りましょうか」
せ、接客!
き、きたっ! ついにきちまった!
苺の超苦手とする、店長さん直伝の『いらっしゃいませ』だ。
店長さん、やっぱり、大学レベルのいらっしゃいませを望むのかな?
下っ端店員に、あれは高度すぎるっての。
こ、困った。困ったよ。
「まずはお辞儀から」
およっ、お辞儀か……
ちょっとほっとする。
「やってご覧なさい」
「は、はいっ」
緊張のあまりぎこちない動作で立ち上がった苺は、自分をじーっと見つめてくる店長さんに、ちらりと視線を向けた。
「鈴木さん」
「な、なんですか?」
「そんな視線をお客様に向けてはいけませんね」
お小言を食らい、つい反抗の目を向けてしまう。
「い、苺はこれからのつもりだったですよ。いまの視線は店長さんに向けたものであって、お客様のつもりじゃ……」
店長さんは右手の指先を顎に当て、椅子の背に寄りかかって「ほお」と言う。
いたたまれない視線を食らい、苺はもじもじした。
「な、なかったというか……」
と目を泳がせつつ続けながら、後悔する。
身の程を弁えず、口答えなんかするんじゃなかったよ。
「ごめんなさい」
小さくなって謝る。
「……では、始めて」
「は、はい」
苺は息を吐き出し、店長さんを見つめて、まず最高の笑みを浮かべようと頑張った。
礼儀正しくありつつも、親しげで温かで……
その言葉に忠実に従った結果の笑みを顔に張りつけてから、苺は程よいと思える角度まで頭を下げた。
顔を上げてみると、店長さんはずいぶんと気難しい顔をしている。
だ、駄目だったのか?
「自然に……と意識して、もう一度」
自然に?
言葉に従い、自然にを意識しつつ、苺はまたお辞儀した。
「鈴木さん……私相手に、どうしてそう緊張するんです?」
「そ、そう言われても……」
苺としては、相手が店長さんだから、なおのこと緊張しちゃうんだけど……
だって、店長さん、すっごい評価が厳しいし……
苺だって、ダメダシはあんまり食らいたくないわけで……おのずと神経が尖るっていうか……
「言いたいことがあれば、言ってご覧なさい」
高飛車じゃなく、ソフトな響きの店長さんの言葉に、苺の緊張が少し溶ける。
「苺……うまくできないなって思うから……駄目って言われるの、やっぱり嫌だし……」
「鈴木さん、うまくないから練習しているのではありませんか?」
店長さんの言葉に、苺は目を見開いた。
「文句のつけようがないほどのお辞儀が出来れば、練習など必要ないのですからね」
そ、そのとおりだよ。
ダメダシ食らいたくないとか思うのって、間違ってた。
「苺……間違ってました」
しょんぼりと肩を落とし、苺は反省して言った。
「自分の部屋に戻って、鏡を見ながら……そうですね、三十回ほど時間をかけて練習してきなさい」
「わかりました……」
部屋に戻ろうとしたら、「鈴木さん」と呼び止められた。
「はい」
「お辞儀は、頭を下げる作業ではありません。なんのためにお辞儀をするのか、忘れてはいけませんよ」
なんのためにお辞儀をするのか?
その問いを心の中で繰り返し、苺はドキリとした。そして無性に恥ずかしくなった。
そうだよ。苺、一番大事なことを忘れちゃってた!
「わかりました!」
苺は店長さんに頭を下げ、更衣室にすっ飛んで戻った。
鏡の前でひたすら真面目にお辞儀の練習をする。
時間をかけてと言われたので、一回お辞儀するごとに、何が大事なのかを考えた。
なんか、苺色々と間違ってたな。
ダメ出しを食らいたくないとか、そんなことばっかり考えてて……なんのためにお辞儀をするのかってことが、完全に頭から抜けてたよ。
ダメ出しを食らいたくないなんて考えながらお辞儀しちゃって……店長さん、苺のこと、呆れちゃってたんだろうなぁ。
お辞儀に心を込めるという当たり前のことを、店長さんに言われてようやく思い出すなんて……ほんと、苺ってばダメダメだ。
反省し、お辞儀の練習と向き合う。
笑顔を浮かべ、心を込めてお辞儀する。
うん、これだよ、これっ!
よーし、もう大丈夫だ。
満足できた苺は、練習の成果を披露する気満々で店長さんのところに戻った。
だが、スタッフルームに店長さんの姿はなかった。
「あれっ、店頭に行ってるのかな?」
思わず呟いたら、給湯室のドアが開いた。目を向けたら、トレーを手に、店長さんが出てくる。
「お茶ですか? それなら苺が……」
「いいから、座りなさい。練習の成果を披露していただく前に、まずはお茶をいただきましょう」
店長さんときたら、苺のハードルを上げるような発言をする。
わざとハードルを上げようとしているのか、お茶でリラックスさせようとしているのか……
よ、読み取れない!
もしかすると、どっちもなのかも。
紅茶には、美味しそうなクッキーが添えられている。
「わあっ、美味しそうなクッキーですね。これって、ボスシェフさん作ですか?」
「ええ、そうでしょうね」
そのちょっと曖昧な答えに、聞き返すように視線を向けたら、店長さんが苦笑する。
「店長さん?」
「大平松は、私の口に入る可能性のあるものは、他の者に任せず自分で作っているようですからね」
「へーっ」
ボスシェフさんの愛だなぁ。
店長さん、すっごいボスシェフさんに愛されてるんだなぁ。
善ちゃんにも愛されてるし……
藍原さんや岡島さんにも……
店長さんには、人に愛される資質が備わってるってことなのかな?
苺も……?
「ほら、座りなさい。いただきましょう」
色々考えてしまっていた苺は、その言葉に頷いて椅子に腰かけた。
カップをありがたく手に取り、店長さんの淹れてくれた紅茶を味わう。
うーん、やっぱり店長さんの淹れた紅茶が一番美味しいなぁ。
満足の笑みを浮かべ、苺はさっそくクッキーを頬張った。
「うん、サクサクで、なのに味はまろやかで、凄く美味しいです。さすがボスシェフさんですね」
口の中でスーッと溶けていく感じで、もう口の中から消えちゃってるよ。
美味しさに感心していたら、嬉しそうに笑う声が聞こえ、苺は店長さんに目を向けた。
「店長さん? 何が可笑しいんですか?」
「さあ、なんでしょうね」
店長さんときたら、意味深な笑みを浮かべる。
「苺の食べ方が変だったとか?」
「そうではありませんよ。それより、ほら、ちょっと立って、練習の成果を見せてご覧なさい」
「い、いまですか?」
「ええ、いま」
強く催促されて立ち上がった苺は、店長さんと向き合う。
店長さんは、期待を込めた眼差しを向けてくる。
やれやれ、そんなに期待されたら、やりづらいんだけど……
でもまあ、いいか。
苺は、美味しい紅茶を淹れてくれた店長さんに、感謝の思いを込めた笑みを浮かべ、お辞儀した。
「うん。完璧ですね」
か、完璧?
そんな評価をもらえると思っていなかった苺は、驚いて店長さんを見る。
「そういうことですよ。忘れないように」
すべてを見透かしたような言葉を貰い、苺は目を瞬いたのだった。
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