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「す、すみません!」
店長さんがスタッフルームに入った途端、謝罪の声が響き渡った。
叫んだのは、店長さんを尋ねて来たお客さんだ。
怖れのこもったその声は激しく震えていて、苺はびっくらこいた。
「十分……遅れましたね」
ひどくゆっくりと、店長さんはその言葉を口にした。
もちろん、お客さんに向けられたもので、お客さんは、苺にもはっきりとわかるほど震え上がった。
店長さんは、そんなお客さんを、無表情で見つめている。
「す、すみません!」
泣き出しそうな声だった。いや、すでに泣いているのかもしれない。
いったい、このお客さんと店長さんの間に、何があったというのだろう?
店長さんはテーブルに歩み寄り、スーツの胸ポケットからペンを取ると、それでテーブルを叩き、コンコンと軽い音を立てた。
その音は、お客さんに、さらなる恐怖を与えたようだった。
震え上がっちゃってるよ。
すっごい、気の毒なんだけど……
店長さんの背後に立っている苺ですら、いまの店長さんは怖かった。
いま、その背に触れたら、バシッと電波みたいなのにあたって、心臓が止まるかもしんない。
「過ぎてしまった時間は巻き戻りませんよ。それとも巻き戻す方法をご存知なのですか?」
ひっ、ひょえーーーーっ!
店長さん、強力あてこすりパンチかましたよ。
あてこすりパンチを真正面から食らったお客さんは、顔を引きつらせて固まった。
店長さんの声ってば、とことん丁寧なのに、強烈な皮肉が混じっていて、言われたわけじゃない苺ですら、おしっこちびりそうだ。
「すみません、すみません…」
鬼どころではない、閻魔大王のような瘴気を噴き出しているごとき店長さんのせいで、ついに女のひとは泣き出してしまった。
「報告を聞きましょう、どうぞ」
店長さんは、相手が泣き出したことになど構わず、椅子に座ると、手を動かして催促した。
「は、はい……うっ……うっ……」
「早くしていただけませんか?」
感情が高ぶり、とても言葉など言えないでいるとわかっていながら、店長さんは容赦ない。
ふたりのやりとりによれば、つまりこのひとは、店長さんとの約束の時間に遅れてしまったんだろう。
「鈴木さん」
どうしたものかと女のひとを見つめていたら、店長さんに呼びかけられた。
「は、はい」
店長さんの声はソフトだったが、思わずぎょっとして返事をしてしまう。
「貴女は、仕事を続けてください」
そ、そうなんだよね。
こんなところでこんなことをしている場合じゃない。
いまの苺は、山のように仕事を抱えている。
店長さんの言葉に従おうとした苺だったが……そうできそうにない。
このまま指示に従って仕事に戻れば、店長さんの閻魔な怒りに触れずにすんで、いいんだけど……いいんだけど……
「さ、三時なんですよ」
苺のその返事は予想外だったらしく、店長さんは怪訝そうな顔になった。
「ち、ちょうど三時なんです。休憩時間です。苺はこれから休憩するですよ」
店長さんは、苺の言葉を吟味するように聞いていたが、それで? というような目を向けてきた。
苺はなんとか言葉を押し出す。
「このひとが遅刻した十分間分、店長さんはお茶しながら報告ってやつを聞けばいいですよ。そしたら、遅刻分はチャラってことで、いいじゃないですか」
眉をきゅっとしかめた店長さんは、鋭い目で苺を見つめてきた。
苺は自分の中で怯えているビビリ虫を、必死になだめた。
「だ、だって……誰だって遅刻することはありますよ。そんな閻魔様みたいな顔してたら、恐くて頭の中真っ白になっちゃって、まともな報告なんかできやしませんよ」
なんの報告か、知らないけどさ……
「……閻魔?」
店長さんが不機嫌そうに呟き、苺は顔を歪めた。
あっ、し、しまった!
閻魔は余計だったか。でも、もう口にしてしまったものは、どうしようもない。
というわけで、
苺は女のひとに駆け寄った。
「飲み物、何がいいですか?」
目を赤くしている女のひとに、せっつくように尋ねる。
だが、返事はない。
この流れでは、当然か……
自分はどうしたらいいのかわからない様子だ。
けど、お茶の準備をするのに、このひとを置いてっちゃ、事態は悪くなる気がする。
引き離すのが一番だと思うんだよね。
そう決めた苺は、女のひとの手を掴み、強引に引っ張って給湯室に向かう。
驚いている女の人を給湯室に押し込み、苺とちらりと店長さんに目を向けた。
うぎゃっ!
店長さんは、ぬくもりのない目で、苺を見つめている。
震え上がった苺は、自分も給湯室に飛び込み、きっちりとドアを閉めた。
ひひゃーっ、恐かったぁ〜!
息を吐き出しながら、苺はバクバクしている胸を押さえる。
反論しちゃったことに、後悔が湧いた。
閻魔店長さん、めちゃ恐かったな。
だが、もうやっちまったものは、仕方がない。
いまの自分の現状を、苺は自分に受け入れさせ、女のひとに目を向けた。
女のひとは真っ青になっている。
「だ、大丈夫ですよ」
苺は焦って宥めた。
「いえ、もう駄目ですっ!」
女のひとは悲鳴のように叫ぶ。
「まあ、いまは確かに閻魔様になってたですけど……お茶を飲めば、店長さんも落ち着きますって」
「いえ、駄目です……もう駄目です」
どうやら、このひと、悲観虫に心が占拠されてるようだ。
けど、十分遅刻したくらいで、そんなに怯えなくてもいいと思うんだよね。
店長さんも厳し過ぎるよ。
「店長さん、とことん仕事に厳しいひとだから、いまのはまあ仕方ないですよ。けど、やさしいところもあるんですよ」
苺はお茶の支度に取りかかりながら、店長さんを取り成した。
女のひとは、諦めきった暗い顔をして黙っていたが、「あの……?」と声をかけてきた。
苺は振り返り、「はい? なんですか?」と努めて明るく返事をした。
「貴女は……藤原家に仕えていらっしゃる方なのですか?」
苺の服装にちらりと視線を向けて尋ねてきた。
いまの苺、メイド服だから、店長さんのお屋敷で働くメイドなのかと思ったようだ。
「ここの店員ですよ」
苺の返事を聞いた女性は、なぜか目を丸くする。
「店員? ほ、本当に?」
たぶん、この格好のせいで信じられないのだろう。
「まあ、まだ見習いですけどね。紅茶にしますけど、いいですか?」
苺はそう尋ねつつ、冷蔵庫を開けて中を物色した。
おおっ♪
店長さんが言っていたとおりだ。
冷蔵庫の中には、お土産らしい箱がいくつもある。
さらに、棚のほうにも、手土産だとわかる包みが置いてある。
好きなのを持って帰っていいって言ってくれたし、どれでも出しちゃっていいんだろうな。
どれにしよう? これとか、いいかな?
苺は箱を一つ取り出し、ウキウキしつつ開封する。
店長さんも甘くて美味し物を食べれば、苛立ちも静まるだろうし、このひとも、落ち着くだろう。
「お茶飲みながら報告ってのして、さっさと帰っちゃえばいいですよ」
苺は紅茶を淹れながら、相変わらず悲愴な顔の女のひとに言った。
「そんな簡単なことではないんです。……わたしはもう終わりです」
終わり?
ま、まさか、約束の時間に十分遅刻したくらいで、終わりなんて…
けど、店長さんは確かに仕事に厳しい。
あ、ありえるのかな…
「い、苺も一緒に、謝ってあげますから」
「そんなことくらいでは……」
申し訳なさそうに言われ、がっくりする。
確かに、苺じゃ、そう力にはならない。
励ますつもりが、まったく励ませられないとは、残念だ。
「でも、少し落ち着けました。……あの、ありがとう」
少し笑みを浮かべてお礼を言ってもらえて、苺は胸がジーンとした。
少しは役に立てたと思っていいのかな?
苺と話しているうちに、少しは気持ちが落ち着いてきたようだ。
よかった。店長さんと引き離したのは、正解だったみたいだ。
そう思った時、閻魔店長さんの顔が浮かび、ひくっと頬がつる。
店長さん、少しは怒りが収まってくれてるといいんだけど……
「苺、役立たずでごめんなさい」
「いえ、そんなことはありません。……とても助かりました」
「そ、そうですか?」
「はい。あなたがいなかったら、もっと悲惨なことになっていたと思います。それに、もう諦めもつきましたし……」
「で、でも、苺もいっぱい失敗してるけど、店長さんは辞めさせたりしませんよ」
女のひとは、まじまじと苺のことを見つめてきた。
あまりに見つめられて、居心地が悪い。
「紅茶、そろそろいいんで。それじゃ、行きますけど……いいですか?」
閻魔店長の元に戻る了解を取ると、女のひとは、先ほどまでとは別人なくらいすっきりした顔で頷いてくれた。
苺はほっとしてトレーを持ち上げた。
苺の両手が塞がってるのを見て、女のひとが気をきかせてドアを開けてくれる。
なんだか、苺より、このひとのほうが、覚悟を決められたようだ。
「ありがとうです」
正直、苺のほうが二の足を踏みたい心境だ。
閻魔店長、怖いよぉ。
あー、機嫌が直っていますように!
心の中で神様にお祈りしつつ、苺は給湯室から出た。
「お、おまたせしました」
苺はパソコンを操作している店長さんの様子を窺いつつ、テーブルに三人分のお茶の支度を整えていった。
「ふたりとも、座りなさい」
店長さんが命令する。
女のひとは緊張して椅子に座ったけど、凛としている。
苺はその様子を見て、ほっとした。
「では、お茶をいただきながら、報告をお聞きしましょう」
苺が座ると、店長さんが切り出した。
女のひとは、鞄から取り出した書類を一心に見つめながら、報告とやらを始めた。
店長さんは言葉通り、お茶をいただきながら報告を聞いている。
苺がクッキー三枚と、紅茶を飲み干したところで報告が終わった。
「以上です」
「わかりました。ご苦労様」
「はい。遅れまして、本当に申し訳ありませんでした。お時間をいただき、ありがとうございました」
女の人は立ち上がり、深々とお辞儀をした。
どうやらこのまま帰ってしまうらしい。
お茶など飲んでいく気分じゃないのだろうと、苺はあえて勧めることはしなかった。
「あの、ありがとうございました」
女のひとは、苺に向いて、お礼を言う。
微笑んでいるのを見て、苺は元気づけるように、大きく頷いた。
「頑張るですよ」
思わずそんな励ましが飛び出ていた。女のひとは笑みを零し、「はい」と返事をして帰って行った。
微妙な沈黙がスタッフルームを包んだ。
苺は視線を動かして、店長さんを窺う。
澄ました顔でお茶を飲んでおいでだ。
どうしようか迷ったが、思い切って胸にある言葉を口にする。
「あ、あのひとのこと、辞めさせたりなんかしませんよね?」
店長さんは居心地が悪くなるほど苺を見つめた後、何を考えてか、ふぅと息を吐いた。
「さあ、どうすべきでしょうね」
その言葉は、クビの可能性もあるとほのめかしているように聞こえてならない。
「苺もいっぱい失敗してますよ。けど、店長さんは……」
「いいですか鈴木さん。約束の時間に遅れたということだけではないのです」
「えっ?」
「彼女が遅れたのは、ここに来て報告をすることで、自分の立場が危うくなるということがわかっていて、怯えていたからなのですよ」
「そ、そうなんですか?」
「ええ。業績不振は致命的です。彼女は責任者としての器ではなかった。それに自分に甘い。なにより、潔さがなさすぎる」
なんだか、苺の知らないことがいっぱいあるらしい。
苺はしゅんとしてうなだれた。
一方的に店長さんを悪く思っていた自分が、気まずくてならない。
「あの……店長さんごめんなさい。苺、何も知らなかったのに……勝手なことをいっぱい言っちゃって……」
立場がない。
「事情を知らなかったからでしょう。それに、彼女は鈴木さんのおかげで救われた」
そうだといいんだけど……
「苺、もっともっと成長しなきゃ駄目ですね」
頭にそっと手を置かれ、苺は顔を上げた。
「貴女はそのままでいい。そのままの貴女が私は好きですよ」
ほ、ほんとに?
「けど、苺、駄目駄目店員ですよ?」
苺の返事に、店長さんは苦笑した。
苦笑だろうとなんだろうと、ようやく浮かんだ店長さんの笑みに、苺はほっとした。
「店員としては、たっぷりと成長が必要ですね。さあ、ここの片付けは私がしておきます。鈴木さんは……」
店長さんは、苺の部屋を指さす。
そうだったよ!
のんびりお茶してる場合じゃなかった。
なにがなんでも今日中に、全部のラッピングを終わらせなきゃならないのだ。
反省は、後回しだ。
勢いよく立ち上がった苺は、自分の部屋にすっとんでいったのだった。
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