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湯船に首まで浸かり、即興曲をハミングしつつ、苺はお湯のぬくぬくを味わった。
ホテルや店長さんのお屋敷のジャグジー風呂は最高だったけど、慣れ親しんだ鈴木家のお風呂はやっぱり特別な心地良さだ。
ワクワクはしないけど、落ち着いて浸かってるからか、じーんとしたしあわせを感じる。
しっかし、母には参ったよ。
北の国に、内緒で行ったつもりなんか全然なかったのにさ。
なんであんなに怒られなきゃならなかったんだ?
ゴリゴリされすぎて、いまだに頭の横っちょがジンジンするよ。
あのあと、店長さんから貰った写真も披露した。
けど、鈴木家全員、披露した写真を手にして、『わあ、これいいわね』『よく撮れてるじゃないか』な〜んて苺の期待する言葉など一言もなく、口数少なく写真を眺めてばっかでさ……
つまらなくなって、苺はお風呂に入ることにしたのだ。
けど、写真はどれもとってもよく撮れていた。
店長さんは超かっこよく写ってたし……勇太君も最高に可愛くて……
クマだるまの写真は、めちゃ愉快だった。
北の国……本当に楽しかったなぁ♪
数日前のことだというのに、懐かしくて涙が滲みそうだよ。
ぐすっ……
そのとき突然、浴室のガラス戸をドンドンと叩かれた。
な、なんだ?
「苺、いつまで入ってんの!」
怒鳴りつけてきたのは母だ。
なんだよもおっ!
お風呂でリラックスしつつ、懐かしい思い出に浸っていたのに……
「お風呂くらいゆっくり入らせてよぉ」
「山ほど仕事があるくせに。そんなことしていられる身分?」
痛いところを突かれ、顔をしかめる。
「わかってるよぉ」
「まったく、この子はっ! この忙しい年末に、北の国なんてのこのこ出掛けてって……」
ブツブツ言いながら去って行った母の言葉は、途中から聞こえなくなった。
母はまだ根に持っているらしい。
いったいいつまで北の国を引きずるつもりなのだ?
唇を突き出した苺は、仕方なく風呂から上がることにした。
これ以上、母大名のご機嫌を損ねないほうがよろしかろう。
なにせ明日はお正月。
お節を食べさせてやらないなんて言われちゃかなわない。
お雑煮もあるしなぁ〜。
じゅるっ……と、唇を拭う真似をする。
あー、楽しみぃ♪
まあ、苺はお仕事だからさ、お正月気分も、これまでみたいには満喫出来ないけどねぇ〜。
したり顔でにひにひ笑いながら、急いで服を着る。
浴室は寒くて、さっさと服を着ないと湯冷めしてしまうのだ。
パジャマとカーデガンを着込んだ苺は、洗面台の鏡に映る自分を見ながら、大きく胸を張った。
苺も一人前になったもんだ!
「お風呂あがったよぉ」
元気良く声をかけながら、苺は居間に入って行った。
「おおっ、いいね、いいね」
父と兄の健太はビールを手にしているし、テーブルにはおツマミが並べてある。
まさに大晦日っぽくって、ウキウキしてしまう。
テレビでは恒例の年末番組が映し出されていて、賑やかな曲を耳にして心が躍る。
これこそ大晦日! って感じだ♪
「いちごう、さっさと仕事しろよ」
健太が小言のように言った。
眉間にしわを寄せて小言を口にしつつビールを飲むなんて、実にもったいないと思うのだが…
「わかってるよ」
苺は素直にテーブルの前に座り、テレビ画面をちろっと見てから、仕事を始めた。
「なんか、お前、可哀想だなぁ」
二十分ほど集中して福袋を作っていた苺に、突然父はそんなことを言ってきた。
健太はお風呂に入りに行っていて、父はひとりでツマミを食べつつビールを飲んでいる。
真美さんは、テレビと苺のラッピング作業を交互に見ている。
いつもだったら、すでに自分達の部屋に引き上げてしまっている時間だが、大晦日だから一緒に年を越してから寝ようという心づもりのようだ。
「別に、か……」
「なーにが、可哀想よ。散々遊んできたんじゃないのよ」
不機嫌そうに、母が割り込んできた。
苺はむっとして母を見る。
『別に、苺は可哀想じゃないよ』と言おうとしたのに……
「お母さん、もうすぐ年明けだよ。そんなプンスカしつつ年を越したら…」
「あんたねぇ。ひとをびっくりさせといてっ!」
「そんなこと言われてもさ。だって、苺のほうこそ、店長さんにびっくりさせられてばっかなんだよ」
「はあ? 藤原さんに、どんなことで驚かされたっていうのよ?」
「もう色々だよ。いっぱいありすぎて語れないくらいだよ」
ここぞとばかりに力説しておく。
「その色々っての聞いてんじゃないの」
「それはさ。……うーん」
苺は、唇に人差し指をあて、びっくり話を頭の中で思い出そうとする。
「ほら、手が止まってるわよ!」
ぱちっと手を叩かれた。痛くはなかったが、苺はむっとした。
質問してきたのはお母さんなのに……
考えながらでも、手を動かせってのか?
「わかってる!」
苺は反抗的に言葉を返し、ラッピングの終わった二つの箱を紙袋の中に収め、きっちりと封をして、最後に指輪のサイズのシールをペタンと貼った。
「ちょっと、苺」
「なあに?」
「そんなふうに、ひとつずつ完成させるより、全部ラッピングしてからその袋に入れたほうが早いんじゃないの? なんなら、袋に入れて封をするのくらい、私がやったげるわよ」
母のその申し出は嬉しかったが…
「ありがと。でも、ひとつずつ作りたいんだ。買ってくれたひとにいいことありますようにって、念じながら封してっから」
「苺……お前はちょっと抜けてるが、いい子だな」
褒めてんのかけなしてんのかわからない台詞を口にし、父は頷く。
どうやら酒に酔い、良い気分になっているようだ。
「はん!」
母は父に、そんな言葉で返す。
それでも苺は、母に褒められた気がして嬉しくなった。
言葉はあれなのに、母の気持ちはちゃんと伝わってくる。
こういうところ、親子だからなんだろうな。
「苺さん」
真美さんの遠慮がちな呼びかけに、顔を向けた。
「なあに、真美さん」
「さっきの話の続きですけど……藤原さんに驚かされたって?」
「ああ、そうだったわ。もお、気になって聞いたってのに、この子ってば。話を逸らされたわ」
いやいや、苺は話を逸らしちゃいませんって。
苺は胸の内で、母に抗議し、リボンを結びながら考え込んだ。
「驚いたのは……店長さんが」
「あんた、普段から藤原さんのこと店長さんって呼んでるわけ。名前で呼んであげたらどうよ」
また自分が話の腰を折ったということに、この我が道が本道の母は気づいちゃいないようだ。
「色々呼ぶよ。仕事中はもちろん店長さんだし、その時に応じて、爽って呼び捨てにするように命令してくるし…」
話の途中で父が喉にツマミを詰まらせたのか、「うっ」と苦しげに呻く。
「お父さん、大丈夫?」
そう声をかけてから、話を続ける。
「そういう時は、ちゃんと爽って呼んでるよ」
「まあ」
「まあ」
母と真美さんはふたりとも同じ言葉を口にしたが、まるきり表情が違った。
真美さんは頬を赤く染めているし、母は眉を寄せて呆れ顔。
「店長さんの方がマシだわね」
マシ? マシってなんだ?
「なんで?」
テーブルの上に包装紙を広げ、その上にネックレスの箱を置きながら、苺は尋ねた。
「決まってんじゃない。あんたが、爽がねぇ〜なんていちいち口にしたら、叩きたくなるわ」
叩く? なんでだ?
まったくこの母はわからない。
まあ、苺が店長さんのことを爽と呼び捨てにするのは、店長さんが望むときだけ。
「みんなの前では、店長さんが呼べって言わない限り呼ばないからさ」
「藤原さんが呼べって言ったら、あんた家族の前でもそう呼ぶわけ?」
苺はうーんと考え込んだ。
店長さんの命令は、いまの苺の中で絶対だ。
なにせ、上司様だもんね。
家具付ワンルームにただで住まわせてくれてるうえに、お給料は高額。
ボーナスまでもらえるのだ。
頑張ってれば、いずれ準社員から、社員にしてもらえるかもしんないのだ。
そう言えば今日は危ないところだった。
店長さんに逆らったために、もう少しでクビになるかもしれなかったのだ。
危機を思い出した苺は、心の中で額の汗を拭った。
鍵をかけたのは不味かったよね。さすがに…
クビになりかけたなんて、家族……特に健太には絶対知られたくない。
「苺?」
母の呼びかけに、考え込んでいた苺はパチクリしつつ、顔を上げた。
なんの話だったか?
そうだ。店長さんを爽と呼ぶのかって…
「そうだね。そう呼ぶ……」
『そう』を連発してしまった苺は、笑いが込み上げ、ぶはっと噴いた。
「店長さんの名前ってさ、素敵な名前だけど、『そうだね』とか、『そうです』とかさ、言っちゃう時あって、おかしいよね」
「はいはい。そんなことはどうでもいいから……あんたの言うびっくり話、まだ聞いちゃいないわよ」
苺のくすくす笑いを、けむたい煙を追い払うように手を振り、母は理不尽な催促をしてきた。
苺のこめかみは、ピキッと音を立てた。
さっきから、あんたが話の腰をぉぉぉぉ〜
「聞きたいです」
母に向かって吼えようとしていた苺は、真美さんに声をかけられ、気持ちをなだめられた。
「びっくりしたことはいっぱいあるんだけど……そうそう、店長さんって木に登るように見える?」
「木に登る?」
「うん。うまく登れないだろうって思ってたら、するするっと登っちゃってさ、苺負けて悔しくて」
「木登りしたんですか?」
「うん。それでね、店長さんの家には木登りに最適な木があってさ、いずれ機会があったら、苺、登ってみようと思ってるんだ」
「あの藤原さんが木に登ったってのは、確かに驚きかもしれないわ」
「でしょう。あとね……」
「苺、手」
話に熱が入ってきて、上半身を乗り出すようにして話をしようとした苺は、母の指摘に顔をしかめた。
だが、確かに、話をしていては、仕事を終わらせられない。
「あんたは、話に夢中になると、すぐ手が止まっちゃうから」
「誰だってそうだと思うけどね!」
腹に据えかねて怒鳴り、母を睨む。
苺は、立ち上がった。
「苺、自分の部屋に行くことにするよ」
「あら、そんなの寂しいじゃないの。せめて除夜の鐘の音を聞くまではここにいなさいよ」
文句を言う割には、寂しがるのだから、やってられない。
苺は思案の末、母の気持ちを酌むことにした。
それから、家族たちはテレビに興味を移し、苺抜きでおしゃべりに花を咲かせはじめた。
すでに腕の筋肉や肩が張って痛むし、背筋のあたりもひどく凝っている。
けど、店長さんに最後までやり遂げると約束したのだ。泣き言なんて言っていられない。
みんなの楽しげなおしゃべりをBGMにして、苺は福袋作りに精を出した。
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