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第1話 失意のバレンタインデー
「透也ぁ〜」
階下から彼を呼ぶ母の声が聞こえ、制服のブレザーに袖を通していた透也は、片袖を残したまま通学鞄を掴み、部屋の外に出た。
「何?」
階段へと向かいながら、透也は大声で答えた。
「肇君よ」
母はそれだけしか言わなかった。
小田肇は透也の幼馴染であり親しい友人だ。
「母さん、肇がどうしたって?」
「門の前に来てるわよ」
は?
肇の家は歩いて五分も掛からない距離にあるが、ふたりが通う高校に近いのは肇の家の方だ。
ふたりは自転車で通学していて、いつも透也が肇の家を通るときに、肇が待っていれば一緒に行く。
つまり、何かなければ、わざわざ肇が透也の家に来るはずが無い。
いったいなんだろうか?
玄関で靴を履いていると、二階の方でドアが開く音が聞こえ、ドタドタと階段を駆け下りてくる騒々しい足音が聞こえた。
透也の兄の駿だ。
「兄貴、おはよう」
「お、おお」
透也に向けてそれだけ言い、駿は洗面所へと駆け込んで行った。
いつも寝起きは、冬眠から目覚めた熊のごとき兄なのに…
顔を洗っているらしく、バシャバシャと派手に水音が聞こえる。
いったい何を慌てているのだ?
透也は首を捻り、玄関から外に出た。
「透也!」
呼びかけられて一瞬面くらい、透也は肇のことを思い出した。
そうだった。こいつが来てたんだった。
「おはよう。どうかしたのか?」
「いんや、なんか気が落ち着かなくてさ」
「なんで?」
「だってさ、今日はあれだぞ、あれ」
透也は肇の口にしているあれが何か、すぐに気づいた。
バレンタインデーだ。
この最近、肇はずっと浮かれていた。
思いを寄せている彼女から、チョコをもらえるとこいつは信じ込んでいるのだ。
そして、それは認めたくないが透也も同じだった。
透也の思いびとは、彼の隣の席の古瀬文香。
ストレートの長い髪をさらりと揺らし、首を傾げて微笑む彼女の顔が思い浮かび、透也は思わずにやけそうになって、顔をしかめた。
「達川さん、俺にチョコくれるよな?」
達川というのは、透也と同じクラスの女子で、文香の友人でもある。
そして、もう説明の必要もないが、肇が好きな相手。
達川響子は、かなりの美人だ。だが、性格はその容貌をいささか裏切っている。
透也は、肇の男子にしては可愛らしい顔を見つめて、笑いがこみ上げた。
たぶん、似合いのカップルとはゆかないだろう。
それでも達川は、肇が好きなのだろうと透也も思う。
「義理チョコくらいならもらえるんじゃないか?」
透也はわざと言った。
「義理ぃ? なんだよぉ〜 縁起でもないこと言うなよ」
「この場合、縁起でもないという言葉は相応しくないと思うぞ…」
「うっせぇ。行くぞ」
むっとした顔で言うと、肇は自転車にひょいと乗り、走り出した。
透也は笑いながら肇の後に続いた。
二月の半ば、風はないものの早朝の空気は頬に冷たい。
文香は彼にチョコをくれるだろうか?
その自分の問い掛けにたいして、透也は笑みを浮かべた。
きっともらえる。
ふたりは、はっきりと告白したうえで付き合ってはいないが、すでに付き合っていると言っていい間柄だ。
肇と響子というお邪魔虫が一緒ではあるものの、学校の帰りや休日も遊んでいるし…
だが、文香はおとなしい性格だし、本気の告白つきでチョコをくれることはありえないだろう。
彼女からチョコがもらえるのならば、透也は義理の言葉つきであろうが、なんでもいい。
「あれっ、マリっぺじゃねぇか?」
前を進む肇の大きな声に、透也は顔を上げて前を見た。
確かに、前方から自転車でやってくるのは肇の従妹でもあり、透也や肇の幼馴染でもあり、クラスメイトでもある吉岡マリ子だ。
「おい逆方向だぞ。 お前、なにやってんだ? 学校休むのかよ?」
「べーっだ!」
マリ子は、肇の横をすり抜けながら鼻の頭に皺を寄せて舌を出し、透也に向けて、ぺろっと舌を出して、後方へと通り抜けていった。
「なんだぁ?」
透也は遠ざかってゆく、マリ子の後ろ姿をちらりと見ただけで、そのまま自転車を漕いだ。
これでひとつ謎が解けた。
「なあ、マリっぺのやつ、いったいどうしたんだろうな?透也、どう思う?」
「事情があるんだろ。気にするほどのことじゃないさ」
「まあ…だな」
肇は納得行かないようだったが、口を閉じ、自転車のスピードを上げた。
「新垣君、…おはよう」
教室の自分の席に座って本に夢中になっていた透也は、そのおずおずとした小さな呼びかけに、さっと顔を上げた。
「古瀬、おはよう」
透也は本をパタンと閉じ、笑みを浮かべて彼女に挨拶を返した。
彼女が近くにくると、ふわんと甘いようないい香りがする。
そして、彼の好きな彼女のストレートの髪…
さらさらの彼女の髪は、手触りがとても良さそうだ。
彼女は恥ずかしげな表情で頷き、彼の隣の椅子に腰掛けた。
まだ達川は来ていないようだった。
そのおかげで、達川が来るまで、透也は文香と彼が読んでいた本の内容についておしゃべりをするという、楽しい時間が持てた。
マリ子の方は、遅刻することなく、始業ぎりぎりにやって来た。
彼女のことをさほど心配していたわけではないが、間に合ったことはほっとした。
「あ、あの、新垣先輩」
自転車置き場へ向かって、肩を落として歩いていた透也は、その呼び掛けに顔を向けた。
「なに?」
愛想の悪いほうではないのだが、いまはさすがに笑みを浮かべる気分じゃない。
「こ、これ、も、もらってください」
両手で目の前に差し出された包みは、チョコに違いなかった。
透也は眉をしかめた。
もちろん義理チョコなどではないようだ。
「ごめん。もらえない。俺、好きな子、いるから」
透也の言葉を聞き、相手は傷ついた表情をありありと浮かべ、顔を強張らせたまましばし時を止めていたが、泣きそうな顔をして走り去っていった。
気が悪くてならなかった。
彼が悪いわけではないのに、傷つけたことに罪悪感を感じなければならないなんて、割に合わない気がする。
真剣な目で、チョコを差し出してきたのは、彼女で三人目だった。
もちろん全員断った。そして、義理だと差し出されたチョコも全て断った。
彼が欲しいチョコは、ひとつだけだったのに…
透也は落ち込みのこもった息を吐いた。
いつも一緒に帰る肇は、今日は一緒に帰らないし…
なぜかというと、肇は達川響子から本命チョコを受け取ったからだ。
ふたりは今日から、一緒に帰ることにしたようだった。
どうにもたまらない…
文香と思いが通じ合っているというのは、彼の勝手な思い込みだったのか?
透也は胸に湧いた思いを即座に否定したが、まったく気は晴れなかった。
期待…してたんだよな。途方もなく…
透也は自分を笑い、空を見上げて、失意を捨てた。
すべてが終わったわけじゃない。
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