|
第3話 変更になった予定
「行ってくる」
靴を履き終えた透也は、家の奥に向かって声を掛け、鞄を手にして外に出た。
自転車へと歩き寄りながら、透也は腹に力を込め、空を見上げてふーっと息を吐き出した。
雲をぷかぷかと浮かべた空の青は、ずいぶんと爽やかな印象だ。
よしっ!
心の中で自分に喝を入れ、自転車に跨った透也は、口元を引き締めてペダルを力一杯踏みこんだ。
今日は三月十三日。ホワイトデーの前日だ。
バレンタインデーの日、文香に告白すると彼は決めたものの、あれからひと月経つが、その決心はまだ実行されていない。
だが、今日、彼はそれを実行するつもりでいる。
実のところ、一ヶ月前、彼はホワイトデーに告白しようと決めて、時を過ごしてきた。
バレンタインデーが女性から男性へ愛を告げる日であるならば、ホワイトデーはその逆だろうと考えたからだ。
けれど昨日あたりから、ホワイトデーに合わせて女性に告白するというのは、おかしいと思えてきて…
優柔不断な自分にむかつくが…
だからこそ、また今度などと逃げず、前日の今日、告白することにしたのだ。
やってやる。絶対に。
「お、おーい、透也!」
眉をしかめて前だけを見つめ疾走していた透也は、大声で呼ばれてブレーキを掛けた。
「なんだよ。俺のこと無視して行くことないだろうがあ」
数メートル後ろに自転車に跨った肇がいて、唇を尖らせて叫んできた。
「すまん。考え事してた」
「なんだよぉ。この最近ボケっとしすぎだぞ、透也」
透也は肇に対して肩を竦めたが、正直、ボケっとしてるなどと、恋ボケしてるような状態の、こいつに言われたくはない。
「ほんじゃ、行くべぇ」
自転車をスタートさせながら肇は言い、透也を追い越して前に出た。
透也は肇の後に続いた。
「なあ、今日の放課後、付き合ってくれねぇ?」
少し顔を後ろに向け気味にしつつ、肇が言ってきた。
「今日は駄目だ」
「なんだよ。何の予定があるんだよ?」
「別になんだっていいだろ。お前、彼女がいるんだ。彼女に付き合ってもらえよ」
肇の自転車の速度が少し落ち、自然とふたりの自転車が並んだ。
車の姿があれば、並列で走るのは危ないが、前にも後ろにもいまのところ車はない。
「明日の買い物なんだ」
「はあ?」
眉を寄せて答えている最中に、透也は、ああそうかと気づいた。
ホワイトデーの返しを買いに行くのに付き合えということか…
馬鹿らしい…
こちらは好きな彼女からチョコを貰えず、ホワイトデーなんてウキウキしてられる身分じゃないってのに…
そんなものに付き合ってられるかってんだ。
それにこっちには、もっともっと重要な用事があるのだ。
「なあ、付き合ってくれよ。昨日ちょっと売場に見にいったんだけどさ、ひとりじゃ、迷いすぎて決めらんないんだよ」
一生、迷ってろ!と、心の中で友を罵っている自分を、透也は宥めた。
「用事があるって言ってるだろ。無理」
「ちぇっ。いいじゃんかぁ」
「良くないんだよ」
「彼女に告白する手伝いしてやっからさぁ」
告白の言葉に一瞬どきりとした。
「そんなもの…必要ない」
「ちぇっ」
肇は諦めたのか、仕方無さそうに舌打ちをし、また速度を上げた。
「なあ透也」
自転車置き場から昇降口に向かいながら、肇が話しかけてきた。
「なんだ?」
「マリっぺって、この最近、おかしかね?」
「どういう風に?」
「なんかさ。こう、秘密のにおいがするんだよ」
「秘密の匂いって、どんな匂いだ?」
透也は小さく笑いながら聞き返した。
「お前なぁ、そういうことじゃねぇってわかってて聞くなよ」
「マリ子もいろいろあるんだろ」
透也の適当そうな言葉に、肇は鼻の頭に皺を寄せた。
「またそれ発言かよ」
「なあ肇、あいつのことを気にするより、お前は彼女のこと気にしろよ。他の女のことなんか気にしてたら、振られるぞ」
「えっ?そ、そういうもんか?でも、マリっぺは…」
「従妹で幼馴染。でも、そんなの彼女にとっちゃ、関係ないんじゃないか?」
「そ、そうかな。…なら、学校で話しかけるのとか、止めといたほうがいいのかな?」
「マリ子が従妹だってこと、達川に話したのか?」
「い、いや…そんな話をする流れとかなかったから…まだ何も」
そう言えば、肇はマリ子からチョコをもらったのだろうか?
「なあ、肇」
「うん?」
「お前、マリ子から義理チョコもらったのか?」
「まっさかぁ、あいつが俺にくれるわけねぇって」
なんだ貰っていないのか?
そうだ。考えてみたら、彼もホワイトデーの返しをひとつだけは買わなければならないのだった。
返さなければ、マリ子に何を言われるやら…
駿からも、ちゃんとお返ししろと言われてしまっている。
だけど、それこそ、どんなものを買えばいいのだろう?
そうだ!
いいことを思いついた。
文香を誘ってみよう。
それでホワイトデーの売場に連れて行って、なんの説明もせずに、どんなのが欲しいかと聞くのだ。
彼女は戸惑いながらも、自分の好みのものを選ぶだろう。
それで、それを手渡して…流れで告白するってのはどうだ?
彼女も、ホワイトデーの売場につれて行かれた時点で、彼のしようとしていることを、なんとなく感じるだろうし…
もし、受け取りたくないなら、雰囲気が伝わってくるに違いない。そしたら…
そしたら…?
透也は自分の考えに顔をしかめた。
そしたら何だ?
そしたら、告白するのを止めるってのか?
「バカか」
「な、なんだよ。突然」
肇に向けた言葉ではなかったのに、肇は困惑して透也に言ってきた。
透也はしかめたままの顔を、肇に向けた。
「な、なんだよ。透也、お前、何を怒ってんだよ?」
「別に」
透也は足を速めて昇降口から校舎に入った。
「な、なんだよぉ〜」
不平を言いつつ、肇も後についてきた。
教室へと入る透也の視線は、一ヶ所に固定されていた。
もちろん、文香の姿があるのかどうかのチェック。
電車で通学している文香は、いつも決まった時間に登校している。
たまに彼の方が早い時もあるが、だいたいは文香の方が早く来ている。
文香の姿を目にして、透也はその場で足を止めて彼女を見つめた。
肇の彼女である達川と、なにやら話をしている。といっても、話しているのは達川ばかりで、彼女は相槌を打っているだけ…
ずいぶんと大雑把な相槌であるところからして、話に興味を持てないらしい。
達川の話は、たぶん彼氏である肇のことなのだろう。
もう満腹というような文香の横顔を見つめ、透也は笑みを浮かべて文香の方へと歩み寄っていった。
「おはよう」
彼の呼びかけに、文香がゆっくり振り向いてきた。
「おは…」
「おっはよぉん。新垣君!」
文香が言葉を言い掛けたところで、達川が元気良く挨拶してきた。
達川は、自分が文香の挨拶の邪魔をしたことになどまったく気づいていないようだ。
透也は苦笑しつつ、文香と目を見交わした。
文香と言葉の必要なく、意志を通い合わせた感覚を感じて、彼の胸が甘く膨らむ。
透也はしあわせを味わいながら、席に付いた。
「あ、あのさ、新垣君」
少し頬を染めて、達川が話しかけてきた。内容はだいたい予想がつく。
「なに?」
「えーっとさ、今日も一緒?」
「ああ、来てるよ」
「う、うん。今度さ、遊園地とか行かない?四人で」
「いいけど。古瀬さんも…」
顔を回して文香を見ると、何やら深刻な表情で視線を宙に向けている。
「古瀬、どうした?」
「え?」
彼に問い掛けられた文香は、びっくりしたように瞼を瞬き、「何?」と言った。
「いや、何か悩みでもあるのかなって思ってね。思いつめたような顔してたから」
「恋煩いじゃない」
「うん?」
透也は、一瞬どきりとした。
恋煩いだなんて…いったい誰に?
達川が笑い出し、透也は問いを込めて彼女を見つめた。
「響ちゃん。そんなんじゃないわ」
否定の言葉を口にした文香に、透也は急いで顔を向けてみた。
顔を染めている文香を見て達川は満足そうに「ふふん」と言い、意味ありげに彼を見つめてきた。
文香の恋わずらいの相手は、もちろんあんたよ。という、達川の声が聞こえるようだった。
だが、はっきりと言葉で聞いたわけではなく、ストレートには受け入れられない。
「何か悩みがあるんなら、僕でよければ相談に乗るよ」
透也は気まずそうに俯いている文香に、なにげなさそうに言った。
「新垣君。この場の冗談とかじゃなく、真面目に文香っちの相談に乗ってやってよ」
相談? いったいどんな相談なのだ?
「もう、響ちゃんやめてってば」
達川の袖を力一杯ひっぱりながら、文香が言った。
「いたた。もう、分かってるっちゃ」
達川は誤魔化すように言いながら、文香の手を自分の袖から外した。
ベルが鳴りだした。
ぺろりと舌を出しながら、達川は自分の机に走って行った。
達川の姿を追っていた透也は、文香に視線を向けたが、顔を赤くした彼女は彼の視線に気づかないかのように、視線を合わせてこなかった。
メモ帳から切り取った用紙を見つめ、透也はペンを走らせた。
紙のほぼ中央に、透也は 《付き合ってくれないかな》と書いた。
彼の気持ちとしては、これをこのまま彼女に手渡し、告白として答えをもらいたい。
だが、さすがにそれじゃ唐突か…?
彼女だって引くかもしれない。
やっぱ、不味いよな。手軽すぎる…
透也は、《付き合ってくれないかな》の文字の前に、後付と思われないよう、慎重に放課後と書いた。
そして言葉の最後に、彼の苗字を書き込むと、紙を小さく折りたたんだ。
躊躇いが徐々に膨らんでくるのを感じ、透也は迷いに掴まらないうちに、手にしている紙を文香の机の上に転がした。
もちろん、授業中に透也がこんなことをしたのは初めてのことだ。
驚いたに違いないが、紙をそっと摘んだ文香は、机の下に隠した。
紙を開いて目を落とした文香は、すぐにペンを手にしたが、なかなか書きはじめない。
透也は教壇に立つ教師が黒板に文字を書き込んでいるのを視野に入れつつ、文香の様子を見守った。
ふたりきりだってことに、躊躇いがあるんだろうか?
いつも四人だからこそ、彼女は遊びに行く事を承諾してくれてたのか?
じわじわと不安と緊張が押し寄せてくるのを、なすすべなく感じていた透也だったが、彼女はようやく文字を書き、彼の机の上に転がし返してきた。
透也は知らぬ間に息を止め、手にしたメモをゆっくりと開いた。
《今日は用事があるの、明日でもいい?》
明日…明日か?
予定は変更になったが、ともかく約束を取り付けられたことに大きな安堵を感じた。
文香の視線を感じた透也は、彼女に目を向けて小さく頷いた。
明日は…ホワイトデー。
透也は授業に意識を向け、日程が変更となった予定を、頭の中で書き換え始めた。
|
|