その12 願い
「ああーんもう、いいわよ。お手上げぇぇ。これは数学とはもはや言わないわよぉ。怪文書、怪文書。それに数字がチクチク脳みそに突き刺さっていたいーー」
シャーペンを放り出した真帆が、発作を起こしたようにはあはあと喘ぎながら後ろに倒れこんだ。
芹菜はその様子を冷ややかに見据えた。
「私の頭はこんな難解な問題解けるようには出来てないんだって」
真帆が根を上げたのは、この1時間の間で3回目だ。
「真帆さんは、勉強するのを嫌がってるだけでしょう」
「そう、嫌いなのよ。大っ嫌い。もう止めよう。非合理的よ。あんたはちゃんと自分で勉強してるんだし、私がする必要はないと…」
真帆が、芹菜の悲愴な表情に恐れおののいた。
この表情、本人は分かっていないが、恐ろしく恐いのだ。
「大丈夫だって。ふたつとも赤点だったけど、ほんの1点か2点のことだったのよ。追試は絶対大丈夫よ」
ふたつとは、物理と数学のことだ。
真帆はほかの教科は文句ないし、こと英語に至っては、芹菜がかえって困るくらいの出来なのだ。
「芹ちゃん、あなたねぇ、人生って勉強だけじゃないのよ。言っちゃなんだけど、言いたいことがあるのはこっちの方よ。ちゃんと短大まで卒業したってのに、いまさら何の因果で、脳が拒否反応起こしてショートしかねない、わけのわかんない問題解かなきゃならない身に…。入れ替わった人間があんたじゃなかったら、私もこんな苦労背負わずにすんだのに…」
鼻に皺を寄せ、ぶつぶつ文句をたれる。
「そうですね。くたびれた中年のオジサンだったら、さぞかし楽しい毎日を送れてるでしょうから…」
「あんた最近、超根性悪いわよ」
「誰かさんのボディに悪影響を受けてるんだわ。恐ろしいこと。さてと、休憩しましょうか?」
真帆はきーっと奇声を発し、ばたんと後ろにひっくり返ると、けらけら笑い出した。
退院してから1ケ月ちょっとになる。
退院当時は、箸を取り落としたり躓きそうになったりしたけれど、ひと月経った今はそんなこともない。
もうこれ以上通院の必要もないと、先週お墨付きを貰った。
真帆は一週間に一度、土日のどちらか渡瀬家にやって来る。
家までの距離がかなりあるので、そんなに頻繁には来れないのだ。
芹菜は、真帆の贅を尽くした広い部屋にも慣れてきた。
こんなところで生まれ育った真帆にすれば、芹菜の狭い部屋はさぞ窮屈なことだろう。
「パパ、ゴルフなの珍しいわね」
そう、真帆が来る予定の日にいないのは本当に珍しい。
健吾は、無条件に芹菜の姿をした真帆を気に入っている。
親子というのは、心と心で深くつながっているものなのかも知れない。
一方、芹菜の方は、まだ両親にも真奈香にも逢っていなかった。
娘がお世話になっているお嬢さんに、一度逢って礼が言いたいと言ってくれていたが、芹菜はどうしてもためらってしまう。
逢いたい気持ちは言葉に出来ないほどだけど、それは他人としてではないのだ。
それならば、逢わない方が良かった。
こういうところ、真帆と芹菜の違いが顕著に現れる。
真帆だって、他人として両親に接するのは平気なわけではないと思う。
けれど、いまの真帆は、そのつながりに満足しているようだ。
強いなと思う。
こと恋愛に関しては、すこぶる臆病だが…
芹菜はふふと笑った。
「何笑ってんのよ」
そう咎めるように言うと、真帆はスプーンの上にのせたレモンを紅茶に浸し、それをぱくっと口に入れ、酸っぱそうに顔をしかめた。
チーズケーキを頬張っていた芹菜までつられて、口をすぼめてしまった。
「どうしても断れない誘いなんだそうです」
でも、今日は珍しく母親の由紀子が家にいる。
撮影があったそうだが、少し風邪気味だから休ませてもらったらしい。
今朝、いそいそと起き出して、このチーズケーキを焼いてくれたところをみると、たぶん、ずる休みだ。
「お母様、いま居間で雑誌を読んでらっしゃったわ。勉強はこのくらいにして…」
最後まで言わないうちに「行く行く」と叫び、真帆は立ち上がった。
「喜ばれるわ。娘が…変わっちゃったから…」
芹菜はそう言って苦笑した。
ふたりが入れ替わってしまった理由など誰にも、どんなに優れた学者でも、解明することなどできないだろう。
はっきりしていることは、ふたりがぶつかったということだけなのだ。
どうにかして元に戻れないだろうかと、芹菜はいろいろ考えては実行しようと提案するのだが、真帆はあまり乗り気になってくれない。
「私達、ふたりして階段から落ちたら、元に戻れるんじゃないかしら」
そう提案したときには、真帆がぎょっとして、激しく首を振り猛反対した。
「頭をぶつけ合ったら元に戻れるんじゃないかってあんたが言い出して、さんざんこぶ作ったっていうのに。階段から落ちて、今度こそ打ち所が悪くて死んじゃったら、あんたどうすんのよ」
確かに、それは一理あった。
死ぬよりは、このままの方が良さそうだ。
そうしぶしぶ納得して、階段から落ちるという方法は、いまだ実行していなかった。
「お邪魔していいかしら。お嬢さんたち」
「ママ!」
突然の母親の登場に、大喜びで叫んだ真帆。
部屋の空気が張りつめ、ビーーンと振動した。
「…さん。真帆さんの」
真帆はぎこちなく続け、それがかえって事態を悪化させた気がした。
由紀子は聞かなかったことにしたのか、何も言わずにふたりの間に座り込むと、おしゃべりを始めた。
ふたりを交互に見つめる由紀子の目が、なんらかの思いを含んだように光っていると思えたのは、芹菜の思い過ごしだろうか。
「ママ、もしかして気づいたかな。どう思う?」
真帆を見送りに表に出たところで、真帆が小声で言った。
「もしかすると、ふたりが入れ替わっているんじゃないかって、よぎったりしたかもだけど…。こんなこと、まともな人間なら信じるわけないと思うし。ただ…」
「なによ。もったいぶらないで早く言いなさいよ」
芹菜は門に寄り掛かって周囲を見まわし、さらに声をひそめた。
「親って、本人より子供のことを知っていると思うの。細かい癖だとか言動、表情なんかを…」
娘と同じ性質や癖を持つ芹菜を間近にしていれば、なにかを感じないではいられない筈だし、実際、何かを感じているようだ。
もちろんはっきり口にしたわけではないし、仄めかしさえしないけれど、芹菜や真帆へ向けるまなざしの中に、何かがかいま見えることがある。
「私達ふたりと一緒に過ごしてれば、もっと顕著にそういうこと感じると思うの。もしかしてって、思いは絶対によぎってると…。ただ…」
「また、ただなの、今度は何よ」
「そう噛みつかないで。それに声が大きいわ。真帆さんはすぐ感情的になるんだもの」
「宮島と同じこと言わないでよ」
真帆が歯をむき出して怒鳴った。
「だから声が大きいって。落ち着いて真帆さん」
鼻で荒い息をしている真帆を、腫れ物に触るようになだめる。
少し理性を取り戻したのか、真帆が話の先を促した。
「私達が入れ替わった事実を話したとしても、信じてはもらえないのが現実じゃないかなと思うの。それでも、私としては、お母様に話してしまいたいわ。知ってくれている人が他にもいてくれたら、ずいぶん気持ちが楽になるだろうから。信じてもらえるかは…疑問だけど」
自分が本当の娘であることを母親に知ってもらえたらと考えて、真帆はにんまり笑った。
いろんな意味で好都合だ。
小遣いも、芹菜を仲介にして貰う必要がなくなる。
うまくいけば、元の裕福な生活に近づける…と。
その真帆の思考経過は、彼女のありありとした表情から手に取るように芹菜にも伝わった。
楠木家で窮屈な生活を強いられ、精神的に成長したはずの真帆。
本来の自分がむくむくと頭をもたげてきたらしい。
「案外簡単に信じるかもよ」
期待に胸を躍らせた真帆は、したり顔で言った。
「それはどうかしら。疑いを持っているにしても、信じてもらえるとはとても…」
「すぐ話しに行こう。ママはきっと信じてくれるわ」
悲観的な芹菜に、真帆は楽観的な口調で言った。
「だけど、話したからってこの生活は変わらないのよ。真帆さんは高校生のままだし、私は来週からOL生活に入らなきゃならないんだもの。それより元に戻る方法を考える方が建設的だと…」
「芹ちゃん、あんた、ほんとに仕事に行くつもりなの? あそこには宮島がいるのよ」
芹菜は唇をきつく噛んだ。
そんなことわかっている。
彼と一日中顔をつき合わせる生活なんて、あまりに、途方もないことだということも…
「お医者様が、元の生活に戻るほうがいいっておっしゃるの。お父様も賛成していらっしゃるし、嫌だとは言えなくて…」
「大丈夫よ。ママが信じてくれたら何もかもうまくいくって」
真帆は芹菜を引きずるようにして、意気揚揚と家の中に戻った。
「なんですって」
眉をあげて、由紀子は聞き返した。愉快そうに笑っている。
思っていた母親の反応が得られず、真帆は落胆と同時に苛立ちが湧いたようだ。
「だからねっ、私が本当の真帆で、彼女は楠木芹菜なのよ」
由紀子は口を押さえて笑い出した。
芹菜は予想していたとおりの反応に諦めの表情を浮かべたが、自分の思うとおりに事が運ばないことに、いまにも癇癪を起こしそうな気配の真帆を見て、真帆に代わって話し始めた。
「お母様。なかなか信じてはもらえない話しだと、私も思います。だけど、本当なんです。お母様は私達が入れ替わったのではと、疑ってらしたんじゃなかったんですか?」
芹菜の顔を見つめていた由紀子は、しばらく押し黙り、おもむろにこう口にした。
「ふたりが入れ替わったと言われると、本当に真実のように聞こえるわ。いまの真帆は以前の真帆ではないし、芹ちゃんは以前の真帆に近い性格をしている。でもね、あなた達の冗談を間に受けるほど、私はおめでたくはないのよ。今度人を担ぐときは、もっとありえそうな嘘をつかなきゃね、ふたりとも」
ふたりは体よくあしらわれ、すごすごと居間を後にした。
玄関へ向かいながら真帆の様子を伺うと、怒りの表情はなく、どうも呆然としているようだ。
「元に戻れるように頑張りましょう。そうすれば…」
「慰めてくれなくてもけっこうよ。お忘れかも知れないけど、私はあんたより年上なんですからね。こんなことぐらいじゃ堪えやしないわ。ママがあんなにわからずやだったとは…」と息巻く。
どうやらいつもの真帆に戻ったようだ。
芹菜はほっとした。
真帆を見送って玄関に入ると、由紀子が立っていた。
「芹ちゃん、帰った?」
ずいぶんと寂しそうだ。
「お母様…」
「ずいぶんご機嫌を損ねてしまったけど、芹ちゃんまた来てくれるかしら、真帆?」
心配そうに訊く。
由紀子のその口調から、胸の内を察するのは困難だった。
「彼女はこの家が気に入っているから、必ず来週もやって来るわ」
「うん。そうよね、来週はアップルパイ焼いちゃおうかしら」
ほっとした顔で、そう意気込む由紀子に、芹菜は苦笑した。
来週も撮影をずる休みするつもりらしい。
「風邪の具合はどう、お母様?」
台所に向かっていた由紀子は、きょとんとした顔で振り返った。
「えっ、か、風邪。あ、ああ。もう大丈夫よ。心配ないわ」
慌てている由紀子に笑いを堪え、芹菜は自分の部屋に戻った。
散らかったテーブルの上を片付け終わり、勉強をする気も起きず、ぽすんとクッションに腰を落とす。
膝をぎゅっと両腕で抱き締めて顎を乗せ、ふうーっと長い吐息をついた。
真帆は、個性的な彼女特有の気性を持っている。
物怖じしない態度、誰にも媚びることのない素直な言動…
極めつけは、まばゆいほどの華やかな雰囲気…
芹菜が、自分がこうであったならと思い描いていた人物像に近い気がする。
入れ物が変わっても、真帆のかがやきや華やかさは損なわれたりしない。
それと同じで、この美しい容貌をした真帆のからだを借りても、中身が芹菜では、真帆と同じきらびやかさは発散されないのだ。
それは、うちに秘めるものが…元となるものが違うからなのだろう…
私はあんな風に輝いてはいなかった。
華やさなど微塵もなかった。
真帆によってのみ美しく見える自分に、芹菜は哀しみを感じた。
芹菜は棚に置かれているアルバムを、ためらいがちに取り出して開いてみた。
制服姿だ。中学だろうか…
真帆の笑顔はいつもそうだが、どの写真も屈託がない。
母親に似た、ただ美しいだけでない華やぎも、こんな平面的な映像の中にまで捉えられているようだ。
「かなわないなあ」
アルバムを閉じると、芹菜はベッドにうつ伏せになった。
変わりたい…
自分でこさえてしまった厚い殻を破って、自由になりたい…
自分の身体に戻れたら、その時はきっと…
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