その16 心の限界
「なんかあった?」
パソコン用語が満載の、分厚い専門誌にずっと目を落としていた芹菜は、真帆の声にはっと顔を上げた。本の内容など、まったく頭に入っていなかった。
真帆は夏休み前の期末テストを明日に控えて、今日は猛特訓を受けにやってきている。
「なにも」と、芹菜はそっけなく答えた。
真帆は疑わしげに芹菜を伺っている。
「不健康な体質…心質と呼ぶべきかしら、してるわよね。芹ちゃん」
芹菜は、黙りこくった。
真帆の言いたいことはだいたい見当がつく。
自分の性格には、自分でも手を焼いているのだから。
指輪の件と、透輝の一件以来、誠志朗の態度は悪化した。
すべて自分が招いたものだと納得していても、あの冷淡さには耐えられない。
これまでも目が合うと、すっと視線を外されたり、嫌そうな顔をされて悲しい思いをしていたが、いまの誠志朗の態度はそんな生半可なものじゃない。
あの瞳の冷たさで、芹菜の心臓は瞬間凍結しそうになる。
芹菜は、目を閉じて、誠志朗のことを頭から追い払い、口調を明るくした。
「そうそう、杉林さんの出産祝いに、明日、成田さんと病院へ行くんですけど、真帆さんも一緒に行きます?」
おととい、杉林が無事出産したと、ご主人から職場に連絡があった。
全員が安堵すると同時に、大きな歓声があがった。
あの瞬間だけは、芹菜もひさしぶりの喜びを感じた。
「行っていいかなぁ。行きたいなぁ。女の子だったんでしょう? 千尋さんはいいお母さんになれるわ ふふ」
真帆は羨ましげに言うと、後ろ手に両手をつき、倦怠感の滲んだ顔で天井を見上げため息をついた。
芹菜もつられてため息をついてしまう。
このままでは疲れるばかりだ。
身体は22歳でも、中身は17歳なのだ。
好きな男性から、あんなに冷たい視線を浴びせられ、それでも彼に協力して仕事をしなければならない。
正直、すぐにでもいまの生活から逃げ出したかった。
「ああー、元に戻りたい」
芹菜のせっぱ詰まったような叫びに、寝転がったままの真帆が眼だけ向けてきた。
「楠木の家に、来ない?」と、珍しく真帆がまじめな口調で言った。
お昼の休憩時間。
食事を終えて戻ったところで、思い出したように成田がバッグからかわいらしい表紙の本を取り出した。
「ね、みんな誕生日っていつ?」
デスクにはすでに全員揃っている。
いつも、皆より遅れて食事に行くことの多い誠志朗も、今日は席に戻っていた。
「なんで」と、藤沢が聞き返した。
「占いだよ。面白いの」
それを聞いて益田が俺俺と叫んだ。こういうのが好きらしい。
誕生日を聞いて、なにかしら足したり引いたりした挙句、成田が占いの結果を出す。
「えーと、益田さんのキャラはCDだって」
「CD?」
わけが分からないという顔で、益田が叫んだ。
「そ、いろんな雑貨がキャラになってるの。で、CDのあなたは」
「うんうん」と相槌を打つ益田。
「独りよがり。自分の歌いたい歌を歌い、自分の語りたいことだけ語るあなたは、相手の心をないがしろにして、ひんしゅくを買ってしまいがち。CDからCD−RWにグレードアップすることで、相手の心を聞くこともできるようになるでしょう」
読み終えた成田が本から顔を上げた。
「なんじゃ、そりゃ」と呆れたように益田が言った。ものすごく不服そうだ。
芹菜は、堪えきれずに噴出した。
大川と藤沢は、当ってる当ってると大ウケしている。
「ほんじゃ、次、真帆さん」
「え、私はいいです」
「いいからいいから、誕生日はいつ?」
益田と大川が早く早くとせかすように言う。
「わたし、3月21…」
芹菜はそこで口を噤んだ。
成田はすでに3月…と言いながらメモしている。
「ち、違いました。間違えました」
焦り過ぎて大慌てで叫んでしまった。
「自分の誕生日、間違えるやつなんているか?」
呆れたように益田が言い、みんなの失笑を浴びてしまった。
「で、ホントのバースディは、いつなの?」
けらけら笑いながら成田が言った。
「7月21日です」
「明日じゃん」
叫ぶように成田が言った。
成田が占いの結果を読み上げている途中で、誠志朗は席を立って行った。
その顔を不機嫌に歪めて。
その不機嫌な顔の原因が自分だと、直感が告げる。胸の重みが増した。
「もう、いいよ。君は帰って」
芹菜は誠志朗の言葉に顔をあげた。
「でも、まだ」
すでに全員が帰ってしまってから、三十分ほど経っていた。
杉林が抜けている今、残業しないと仕事が追いつかない。
たしかに、二人きりの空間はいたたまれなかったが、誠志朗だけに仕事を押し付けて帰る気にはなれなかった。
「いいから。今日は誕生日なんだろう。家族が待ってるんじゃないのか?」
誕生日の祝いは今度の土曜日に、真帆を招いてすることにしてある。
今日、由紀子は仕事だし、健吾も料亭で食事会だとか言っていた。
お昼には透輝からも電話が来て、誕生日に会えなくてごめんと謝っていた。
もし、来れるなら、土曜日のパーティーに来て欲しいと伝えたのだが、その返事はあまりはかばかしいものではなかった。
真帆に彼と会わせてあげたかったのだが。
「今日はいいんです。お祝いは土曜日にすることになっているので」
まだ何か言いたそうだったが、誠志朗はそのまま仕事に戻った。
明日の会議で必要な書類を作り終え、内容をチェックしてもらうために誠志朗に差し出した。受け取ったと思って手を離すのが早すぎたのか、書類が床に散らばってしまった。
「すみません」
芹菜は慌てて屈みこんだ。誠志朗も拾い上げている。
懐かしい記憶が、まざまざと蘇った。
誠志朗との間にある、キリキリとした緊張。日ごろの鬱屈。あの時の誠志朗への懐かしさ。
すべてが同時にこみ上げて、芹菜の胸を突き破るような勢いで感情が膨張してゆく。
書類にポタッポタッとシミがついた。
芹菜はそのシミを慌てて手のひらで押さえた。
だが、その手の甲にも涙が次々とこぼれ落ちてゆく。
もう限界だった。
すべてがもうどうでも良かった。
芹菜はゆっくりと立ち上がった。
視界のぼやけた目に、床に屈みこんでじっと動かない誠志朗が見えた。
芹菜はそのままよろよろと歩いて部屋を出た。
エレベーターに乗る気がしなくて、階段をゆっくり降りた。
一階まで降りて、玄関に向かって歩いていたら、前方からきた人物に阻まれて芹菜は立ち止まった。
「送ろう」
ぶっきらぼうに誠志朗が言った。
芹菜はゆっくりと首を振ると、そのまま歩き出した。
玄関を出たところで、後ろから「令嬢」という声が飛んできた。
芹菜は歩きながら、「わたし、令嬢なんかじゃない」とポツリと呟いた。
「令嬢?」
芹菜は振り返った。
「すみませんでした。主任。バッグを…」
それだけ言って手を伸ばし、誠志朗からバッグを受け取ると、芹菜は何も言わずに駅に向かって歩き出した。
駅の前まで、誠志朗が後を着いて来てくれていたことを、芹菜は知らなかった。
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