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その17 始まりに戻って
次の日、芹菜は会社を休んだ。
行きたくないという以前に、動くことが億劫だった。
一日中ベッドに転がって、何も考えずに宙を見つめていたら、自分に嫌気が差してきた。
まるで悲劇のヒロイン気取りでいる自分。
真帆の姿でいるばかりに、自分はこんなに辛い目にあっていると嘆いている自分。
芹菜でいた時にだってそうだ。
自分に不満ばかり持っていた。
やぼったかったのも、周りの期待を裏切れなかったのも、自らの選択だったのに。
真帆があんなに芹菜を変えてしまっても、それでも周りはそれを受け入れている。
なのに、自分は、こんなに美しい真帆の身体を与えられても、輝かないなどと不満を抱いているのだ。
私は私なのに。それ以外にはなりえないのに。
変わりたいなら、自ら変わろうとしなければいけなかったのだ。
芹菜はふっきれた気分だった。
彼女は誠志朗を愛している。
その思いは誰からも文句を言われることではない。
愛する気持ちを否定することもない。
愛されないと嘆く必要もないのだ。
愛するひとがいること、それだけで素敵なことだ。
始まりと同じだなと芹菜は思った。
誠志朗に恋心を抱いて、幸せを満喫していた時と。
結局、自分を不幸にしていたのは、芹菜自身だったのだ。
「福井が、腕を骨折したそうだ」
受話器を下ろした誠志朗が、眉をしかめて言った。。
「えっ、イラストレーターの?」と成田が驚いて叫んだ。
「代わりを見つけなきゃならないな。誰か心当たりないか?」
心当たりと言われてもと、みんなお互いの顔を見合わせているばかりだ。
芹菜は数回逢ったことのある福井のことを思い返していた。
「イラストレーターって、かっこいい職業ですね」と言ったら、「仕事もらってなんぼですから、けっこう辛いっす」と苦笑いしていた。
彼にとって骨折は最悪の事態だろう。生活は大丈夫なんだろうかと心配になる。
「真帆さん、顔広そうだけど、誰か知り合いに、絵描きとかいません?」
「残念だけど…あの、杉林さんに電話で相談してみたら…」
芹菜の言葉の途中で、誠志朗が賛成しかねるというように首を振った。
「彼女はいま育児で忙しいだろう。煩わせるのは…」
「そんなことないと思います。返って喜ぶと思います。頼りにされるって嬉しいことですから」
絵描きの知り合いも見つけられず、結局、誠志朗は杉林に電話を掛けた。
杉林は、思案した後、桜井瑞樹という若手のイラストレーターの画風がいいんじゃないかと言い、桜井の経歴と彼女の連絡先もきっちり教えてくれた。
誠志朗はすぐに桜井へ依頼の電話をかけ、その場で話が決まってしまった。
「令嬢。正解だ」
その言葉に、みんながほっと胸を撫で下ろした。
誠志朗の口元に笑みがあるのをみて、芹菜は幸せな気分になった。
芹菜が変わったからなのか、何か思うところがあったのか、あの日以来、誠志朗の態度も和らいできていた。
限界を超えることも、ひとには必要らしい。
あの日がなければ、いつまでもあの状態を引きずっていただろう。
明日は楠木の家に行くことになっていた。
真帆に来ないかと言われたあの時は、すぐに首を横に振ってしまったのだが。
いまも心はやっぱり臆病で、真帆の姿で両親や真奈香に逢うことを思うと、足に震えが走る。
だが、壁にぶつかる度、逃げてばかりいた自分に気づいた今、目の前にある壁をひとつずつ超えてゆこうと決めたのだ。
「恋煩い…ですか?渡瀬先輩」
大川の潜めた声に、芹菜は我に返った。
いつの間にかパソコンのキーを叩くことも忘れて物思いに沈んでいたらしい。
おまけにその視線は、思いびとの誠志朗に向けられていた。
芹菜は、ぱちぱちと瞬きした。
「え、な、何?」
大川がぐっと顔を寄せ、耳打ちする。
「潤んだ目で、宮島主任をぼーっと見つめてるんだもんな。ちきしょ、宮島主任うらやましすぎ」
ボンと頭が爆発して粉々になった気がした。
「大川」
誠志朗の声に、驚いたふたりはパッと離れた。
「郵便物、これ出してきてくれ」
「はい。わかりましたぁ」
ぱっと立ち上がった大川は、郵便物を受け取り、芹菜に意味深な笑みを向けてから出て行った。
その背中に、「誤解ですっ」と叫びたかった。誤解じゃないけど。
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