|
その19 モテモテオーラ
ずんずんと社内を闊歩してゆく真帆の後ろについて歩きながら、芹菜は未だまとまらない思考を抱えていた。
本当にこれで良かったのだろうか?
よくない気がした。
総務部のドアをためらいもなく開け、中に入って行った真帆に、芹菜は慌てて着いてゆく。
今となると、ふたりが入れ替わっていたこと自体に、確信がもてなかった。あれは本当に起こったことだろうか?
あれは長い夢。
その方が、よほど本当らしく思えた。
真帆に促されるまま、芹菜は紹介された担当者に挨拶をした。
勧められた椅子に座って、机の上に差し出された書類に目を通して記入してゆく。
元に戻れてまだ二日しか経っていなかった。
これからのことを真帆と相談し、確かに、一番と思える決断をしたつもりだった。
最良の決断。
それは、芹菜がアルバイトをするということ。
いまの真帆では仕事にならない。かといって、芹菜が仕事に戻れるわけはない。
芹菜が抜けたら、誠志朗が困ることは目に見えている。
だから芹菜が夏休みの間、アルバイトとして働き、真帆をサポートする。
その間に真帆が仕事を覚える。
九月になって、杉林が復帰してくれば、真帆が会社を辞めたとしてもなんら差し支えない。
確かに、最良の考えだと思う。
思うけれど、実際に行動を起こすとなると、また別の問題だ。
「はい。これでいいですよ」
書類を受け取って確認すると、担当者が言った。
「それじゃ、私が職場までこの子を連れてゆきますから。行くわよ、芹ちゃん」
芹菜がアルバイトをしたがっていると持ちかけると、健吾は二つ返事で了承してくれた。
誠志朗には、今朝、総務の方から話がいっている筈だ。
真帆の親戚の娘が、夏休みの間だけ、真帆の下でアルバイトをする。
誠志朗は、無駄な人材と思うだろう。
芹菜は不安に震えた。
エレベーターに乗り込んですぐ、不安を口にする。
「ね、わたし、ほんとに芹菜に見えない?」
「そりゃあ、見えないとは言えないわよ。厚化粧したって、下地を激変させるなんて出来ないんだから」
真帆は唇を尖らせてそういうと、何の問題もないというように両手を振った。
「でも、大丈夫だって。芹ちゃんが宮島と最後に会ったのはずいぶん前のことなんだし。それに…。え〜っと、まあ、もう十分時効よ、記憶の」
それに…に続く言葉は、言われなくても分かった。
関心を持たなかった子の記憶なんて残っていない。
そうかもしれない。
でも、もしも、気づかれた時、どんなに気まずい思いをすることだろう…。
「帰りたい」
「あんたね。自分を変えるとかって、あれ嘘だったの」
「それとこれとは…」
芹菜は口を閉じた。
エレベーターが止まり真帆が降りてゆく。
芹菜は重い足を引きずるようにして後に続いた。
企画室の、芹菜には見慣れたドアを開けて一歩入ると、真帆はきょろきょろと眺め回した。
「ひさしぶりー」と小声で呟いている。芹菜は顔をしかめた。
見慣れた顔の幾つかが、物珍しげな視線を芹菜に向けてくる。
視線が合ったひとりひとりに、芹菜は小さく微笑んで頭を下げた。
真帆はまず大原室長に芹菜を紹介し、それから自分の机へと向かった。
「どうも、ひさ…おはよう。みんな」
その真帆らしい言い回しに、芹菜は思わず息が詰まった。
そこにいて談笑していたみんなが、ぱっと真帆に振り向いた。
芹菜でいた時の真帆の言葉遣いも生意気な感じだったが、真帆の口から零れると、生意気の枠すら超えて聞こえた。
「あ、おはよう、真帆さん」
いろんな面で衝撃に強い成田が、最初に挨拶を返した。
「ひさ…相変わらずころころしてるわねぇ、成ちゃんってば」
と愉快そうに声を上げて笑う。
真帆の背中を見つめていた芹菜は、このまま逃げ帰りたくなった。
まるで自分が話している錯覚に囚われてしまう。
真帆の上着を引っ張って、もう一言もしゃべらないでと言いたかったが、ぐっと我慢した。
「れ、いじょう?」
真帆の向こうから益田の声がした。
「れ、いじょう? 何言ってんのよ。益田は相変わらず馬鹿ね」
さげすみを込めた言葉を投げつける。
芹菜は眩暈がした。
「令嬢? 君…」
芹菜はその声にびくりと震えた。
「ひさし…。宮島、おはよう!ふふ、そんなに驚くこと。戻っただけじゃない。元に」
「そう…みたいだな」
歯を食いしばったような誠志朗の声に、芹菜は思わず真帆の背中から顔を出した。
強張った誠志朗の顔があった。
彼は真帆の顔をじっと見つめている。
益田は苦々しげに、大川の方はあんぐりと口を開けている。
ふたりの視線も真帆に釘付けになっていた。
芹菜に最初に気づいたのは、藤沢だった。
「君は?」
問いかけられて芹菜は藤沢に向いた。
「あの、今日からこちらでアルバイトさせてもらうことになった…渡瀬…芹香です。よろしくお願いします」
偽名を決める時、芹香という名前には反対だった。
でも真帆から、まったく違う名前つけちゃったら、間違えない自信ないわよと言われ、仕方なく同意したのだ。
「私の親戚。夏休みの間だけアルバイトしてみたいって言うから、お父様にお願いしたの」
真帆の説明はあんまりな気がしたが、確かにその通りなので、芹菜は不満に思いながらもじっと耐えた。
今日家に戻ってから、思う様、真帆に文句を言ってやる。
「へ、へえーっ。僕、大川です。よろしく芹香ちゃん。そう呼んでいいよね。渡瀬さんじゃ、先輩と被っちゃうし」
「はい。構いません。よろしくお願いします、大川さん」
芹菜はあらためて自己紹介されているのがおかしくて、大きな笑みを浮かべた。
「先輩って、つけてくれると…」
そう大川が言ったところで、益田がしゃしゃり出てきた。
益田の次に成田も挨拶してくれ、芹菜は小さく深呼吸してから誠志朗に向いた。
彼の視線は真帆に向いていた。
切なげなその表情。そして悲しげな瞳。
芹菜の頭から、すっと血の気が引いた。
まさか…彼は真帆さんのことを?
「ほら、宮島にも挨拶なさい」
芹菜は誠志朗の前に押し出された。
足が竦んでしまっていた芹菜は、思わずよろけてしまった。
床に倒れる前に、誠志朗が抱きとめてくれた。
「す、すみません」
誠志朗の触れたところがじんと痺れた。
芹菜は慌てて彼から離れた。
「もう、芹ちゃんってば、何慌ててたのよ」
机に落ち着いた芹菜に顔を近づけて、真帆が小声で言った。
あまりに能天気な顔をぶってやりたかったか、また、ぐっと我慢する。
芹菜は凍えるような冷たい視線を真帆に向けた。
真帆の頬がひくひくと震えたのを見て幾分気を晴らし、芹菜は仕事を始めた。
だが、やり難いことこの上ない。
芹菜に与えられた机は、杉林の机で、右側は真帆だが、左側には誠志朗が座っているのだ。
誠志朗から、仕事の内容は真帆に聞き、仕事も彼女から指示を貰うようにと言われた。
実際それは好都合だったのだが、なぜかショックだった。
誠志朗の声にも、なんの感情も含まれていず、とても淡々としていた。
芹菜になど、まったく関心はないようだ。
バレないだろうかとあんなに心配していた自分が、酷く惨めだった。
詳細なメモ書きを書いて、真帆に指示を出しながら芹菜は仕事をした。
あまりに惨めで、誠志朗が彼女を見て眉を潜めていたのには気づかなかった。
「芹ちゃんってば、どうしてご機嫌悪いの?」
家に向かう車の中で、真帆が言った。運転しているのは真帆だ。
彼女の愛車は、本当のご主人の帰還で、ようやく車庫から救い出してもらえたのだ。
「別に…悪くないです」
「あぁあ、私そういうのって嫌いなのよねぇ。言いたいことあったら言えばいいじゃない」
芹菜は黙り込んだ。
痛いところを突かれて、言葉がなかった。
「わたしって、これっぽっちも魅力ないんですよね」
明るく言ったつもりだったが、惨めさは振り払えなかった。
真帆の時は、芹菜も輝いてたのに…
そう思うと、ものすごく惨めな気分に陥る。
芹菜として誠志朗に逢えることに、何かを期待していた自分にも嫌気がさしていた。
芹菜は苦々しい笑いをこぼした。
「何言ってんの。あんた綺麗だわよ」
「ありがとう。真帆さんの次くらいに?」と自嘲を込めて言う。
「ホントだって」
力強い真帆の言葉にも、芹菜は肩を竦めた。
「なんか、この厚化粧も馬鹿馬鹿しくなっちゃって。明日からお化粧するのもやめようかな」
「だ、駄目よ。あんたの素顔じゃ、とても21じゃ通じないわよ」
「それなら、ホントの歳書けばよかった」
「社の規定で、高校生のバイトは取らないの。お父様がそう言ってたわ」
「真帆さん、モテますよね」
誠志朗の、真帆に向けられた悲しげなまなざしを思い出して泣きたくなった。
「は? あんただってモテるじゃない。私、あんたでいた時、かなりの回数告白されたわよ」
それは初耳だった。
でもそのことは、芹菜の惨めさを増しただけだった。
それは中身が真帆だったからだ。
「真帆さんって、モテモテオーラが発散されてるんですよね。きっと」
「何それ?」
真帆の愉快そうな笑い声が耳に痛かった。
芹菜の惨めさは増すばかりだった。
|
|