君色の輝き
その20 疑惑と罠 



芹菜は、首の左半分に痛みを感じて、指先で首を揉んだ。
誠志朗を意識し過ぎている自分は嫌なのだが、自分でもどうしようもない。

「芹香君」

やさしい呼びかけにどきりとして、芹菜は誠志朗に向いた。

真帆でいた頃は、こんなやさしい声で呼びかけてもらったことなどなかった。だが、これが本来の彼なのだ。

芹菜が真帆の中にいたとき、彼の冷たい態度に幾度も悲しい思いをしたが、今考えれば、あれは愛情の裏返しだったのだろう。
真帆にはすでに婚約者がいたから、彼は真帆にきつく接することで、自分を律していたのかもしれない。

真帆は美しい。
そして、口が多少悪かろうが、本当の彼女はとても思いやりがある。
誠志朗は、そういう真帆の本質を見極める目を持っている素敵なひとなのだと思うと、芹菜の切なさもいくらか慰められた。

「すまないが、宛名書き頼めるかな?」

手渡された封筒を受け取ってパソコンを脇によけながら、小さくため息をついた。

宛名書きや、コピーといった簡単な作業を、みんなが彼女に頼んでくる。
アルバイトなのだから、当然だろうが、そのため仕事のロスは計り知れない。
会議の資料作りともなると、コピーだけで半日が終わってしまったりするのだ。

その間、真帆にメモを手渡して仕事を頼んで置くのだが、真帆の仕事の処理速度は、とても頼りにならない。
本人は一生懸命やっているし、そんなことにはちっとも気がついていないようだし、頑張っている真帆を相手に、文句など言える筈もなかった。

宛名書きを終えて、誠志朗に手紙を渡そうとしたら、郵便局まで行って速達で出してきてくれと言われた。
山積みの仕事を考えていささか苛立ったが、芹菜はぐっと押さえ込んだ。
「はい」と返事をすると、すぐに立ち上がり小走りで出口に向かった。


郵便局から戻ってきたら、企画室の手前で真帆に呼び止められた。
そのまま給湯室の前の、少し引っ込んだところに引っ張っていかれた。

「どうしたんですか? 仕事は?」

「あいつは、腹が立つほど頭が切れるのよ」
忌々しげに真帆が言った。

「あの、真帆さん?」

「あんたのこと、絶対わざと郵便局に行かせたのよ」

「は?」

「新しい仕事くれて、それ急ぎだからすぐに頼むって、それも15分以内によ」

「はぁ?」

「あんたが戻って来られる時間のタイムリミット。郵便局までの行き帰りに必要な15分。もちろんできやしないわ。それで腹痛がするって、嘘ついて出てきたのよ」

芹菜は、真帆の後ろにすっと現れた人物に驚きすぎて声が出なかった。

「嘘って」
真帆の肩がビクンと震えた。

小脇に大きな封筒を抱えた誠志朗が、笑みを浮かべて壁に凭れた。

「いま戻ろうと思ってたところよ。さ、芹ちゃん行くわよ」

誠志朗の質問を完全に無視した真帆に引きずられるようにして、芹菜は職場に戻った。
後ろから誠志朗もついてきた。

芹菜は、真帆のいま言った言葉を反芻していた。
でも、それほど危機感を感じなかった。

ふたりの入れ替わりなど信じるものがいるとは思えなかった。
元に戻ってしまった今はなおさらだ。

それに、真帆が仕事ができないと知られたって、別に構わないではないかと芹菜は思う。
あと三週間もすれば、芹菜のアルバイトは終わるのだし、真帆も仕事を辞めるつもりなのだから。

たった三週間だ。なんとかなる。

「桜井からイラストが届いた。成田君、確認しといて」

芹菜は、封筒から中身を出している成田のところに行って、一緒にイラストを覗いてみた。
クレヨン画のタッチはとてもやさしい画風で、杉林の推薦を受けるだけのことはあった。

「わ、これいいですねぇ」

「ほんと、さすが千尋さんだね。いいよ、桜井さんのイラスト。これからも彼女に頼んだらいいんじゃない」

「えぇっ、成田さん、それじゃ福井さんが困っちゃいますよ。骨折してタダでさえ仕…」

「芹ちゃん!」
真帆に大声で呼ばれ、驚いた芹菜は目を見開いて瞬きした。

「真帆さん、何?」

真帆は小さく首を振って、顔をしかめている。
芹菜は肩をそっと叩かれた。
いつの間に後ろに来たのか、やさしげに微笑んだ誠志朗が彼女を見下ろしていた。
あまりに接近しすぎている気がして、芹菜の頬がぽっと赤らんだ。
頭までも舞い上がってしまう。

「福井のことは心配いらないよ。これからも仕事頼むから」

誠志朗のさりげない言葉に、芹菜は安堵し、はにかんだ顔で頷いた。

「そうですか。良かった」

「芹ちゃん」
真帆が弱々しい声で言った。
それでもまだ、芹菜は自分の犯した失敗に気づけなかった。

「それじゃ、今回のイラストはこれで決まりだな。桜井さんに電話して、これでいいって伝えといてくれ、令嬢」

「えっ、私が?」

「これから、印刷所に行ってくる。芹香君、君も一緒に来てくれ」

「えっ」

芹菜は、肩を押されてそのまま職場を出ることになってしまった。
誠志朗の車の助手席に収まって、車が動き出してから、どうして自分はここに座っているのだろうと不思議だった。




   
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