君色の輝き
その22 消えた思いびと



印刷所での用事を終えて社に戻ってきたら、ものすごく機嫌を損ねた真帆に出迎えられた。

芹菜の片腕をむんずと掴み、「ちょっと行らっしゃい」と、無理やりに引っ張ってゆく。

どこに行くのかと思ったら、なんと社長室だった。
驚いている健吾に「部屋借りるわよ」と言って、返事も待たずに応接室に入ってゆく。

「いつ、私が宮島の婚約者になったのよっ」

怒鳴りつけてから、ソファに凭れた真帆は、頭が痛いというように額に手を当てた。
芹菜は後ろめたさに顔を歪めた。

「あんたってば、もう」

「ごめんなさい」

「あんたたちふたりが出て行った途端、大川君が傍に来て、色々話してくれたわ」

ドアが開き、健吾が入ってきた。

「こらこら、真帆、少しは礼儀をわきまえろ」

「パパもノックぐらいしなさいよ」

「お前だって、しなかったじゃないか」

怒ったような顔をしているが、実のところ健吾は上機嫌だ。
真帆が元の真帆に戻ったことを、無条件に喜んでいる数少ないうちのひとりだ。

「おじ様、お聞きしたいことがあるんです」

「何かね」

「宮島主任に、もしかして私の名前を…」

どうして?と言うように眉をあげた健吾だったが、顎に手を当てて考え込んだ。

「もちろん話していないよ。私が社の規約を破ってるなんて社員に知られたら立場がないだろう」と、にやりと笑う。

胃にあった塊が解けてなくなった気がした。
芹菜はほっと胸を撫で下ろした。

部屋から追い出そうとしても、ちっとも出てゆかない父親に腹を立てた真帆は、また芹菜を引っ張って社長室を出た。

また、いつでもおいで。と、手を振る健吾に、芹菜は苦笑した。

いまは就業時間なのに、社長自らサボりを推奨するなんて…

きっと、ふたりは大して役に立っていないと思っているのだろう。

まだ話の続きをという真帆を振り切って、芹菜は職場に戻った。これ以上仕事をサボっていたら、今日は帰れなくなってしまう。

ドアを開ける前に、芹菜は真帆に振り向いた。

「誠志朗さん、私たちが入れ替わったことを知ってます」
真帆の目が驚きに丸くなった。

「あいつ…信じたの?」

「幽体離脱の経験者…なんだそうです」

三十分も仕事をサボって戻ったというのに、なぜか誰からも文句を言われることはなかった。

だが雑用は山ほどたまっていた。
芹菜は、まずコピーする資料を掴んでコピー室に急いだ。

時間によってはかなり混んでいるのだが、そろそろ昼が近いからか、誰もいなかった。
用紙サイズの変更をしていたら、大川が入ってきた。

「手伝うよ」

「あ、いいですよ。大川先輩」

「いいから、いいから」

手伝ってもらえたおかげで、すぐに終えられそうだった。
コピー機に凭れていたら、大川が横に並んできた。

「君、真帆さんの親戚だよね。彼女の婚約者が誰か知ってる?」

「はい。知ってますけど…」

その答えに、ものすごく興奮したらしく、大川が芹菜にくっついてきた。

「誰?」

「言えません」

芹菜は一歩大川から離れた。するとまた一歩、大川が寄って来る。

「えー、どうして隠すんだよ。宮島主任なんだろ」

「違います」

そろそろコピー機の周りを一周しそうだった。
芹菜は苦笑した。
仕事は出来るのに、ほんとに子どもっぼいところのある人だ。

「そうなの。でもなぁ、絶対あのふたり、怪しいんだけどなぁ」

怪しいという言葉に、ずくんと痛みが走った。

「な、芹香ちゃん、今日帰りに飲みに行こ?」

「行きません。飲めないから」

「それなら夕食一緒に食べよう」

その言葉と同時に、大川の腕がぽんと肩にまわされた。
突然のことにぎょっとして固まっていたら、前方のドアが開いた。

誠志朗だった。

彼は何も言わず、芹菜の肩にまわされた大川の腕に視線を当て、それからふたりをじっと見た。大川が慌てて腕を外した。
一瞬、気まずい沈黙が流れた。

誠志朗はふたりに歩み寄って、手にしていた用紙を手渡すと「五部頼む」と一言言って出て行った。
パタンとドアの閉まる前まで見えていた誠志朗の背中が、信じられないほど冷たく感じられた。

「なんて顔すんだよ」

大川の言葉に、芹菜は振り返った。
唇が震えているのが自分でも分かった。

「すっごい、泣きそうな顔してる」

芹菜は、涙をぐっと堪えた。こんなところで泣きたくなかった。
誠志朗の持ってきたコピーを大川に押し付け、コピーを終えた書類を抱えて部屋を出た。
すでに昼の休憩時間で、がやがやと騒がしい。
真帆と成田が芹菜が戻ってくるのを待っていた。

「芹ちゃん、コピー室で何かあった?」

そう真帆は言ったが、固い表情の芹菜を見て眉を寄せた。

「戻ってきた宮島の目、北極の氷も破壊しそうなくらい恐かったんだけど」

「大川先輩が、私の肩抱いてるの見て…」

真帆が「はぁっ」と叫んだ。

「明らかに嫉妬。ですね」
机から立ち上がりながら成田が言い、芹菜はポカンと口を開けた。

「そういえば、真帆さん」

「なぁに、成ちゃん」

「主任への恋煩い。戻ったショックとかで、なくなっちゃったんですか?」

「誰がよっ。そんな事実、過去にも未来にもどこにもないわっ」

頭から噴煙を上げそうなほど怒りまくって、そう切り捨てるように言うと、「お昼に行くわよ」と真帆は先頭を切って歩き出した。

さっきの誠志朗の態度は、本当に嫉妬だったというのだろうか?
始め喜びが湧いたが、すぐに真実に気づいた。
それは芹菜に対して抱いた嫉妬ではあり得ない。

食事を食べ終える頃には、芹菜の中でひとつの結論が出ていた。

彼が恋をしたのは、真帆の姿をした芹菜なのだ。
真帆に対して、恋をしていたのではなかったらしいことは、正直ほっとしたが、この結論が当たっていれば、誠志朗の恋の相手は、すでにこの世から消えてしまったということになる。

真帆の身体のままでいたら、彼はずっと芹菜を愛してくれたのだろうか。と考えている自分に気づいて芹菜は唇を噛んだ。

身代わりなどになりたくない。
それくらいなら、嫌われた方がまだましだと芹菜は思った。




   
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