君色の輝き
その23 天の助け



今日は最悪の日だった。
その最悪の日も、すでに夜の八時になろうとしていた。

最後の残業組みが、帰り支度を始めたらしいのに気づいて、芹菜も机の上を片付け始めた。

本当はもう一時間くらいやってゆきたかったのだが、この広い部屋にひとりで残るなんて、とても考えられない。

真帆は透輝のところに行ってしまった。
昼食を食べている最中に真帆の携帯が鳴り、透輝が倒れたと言ってきたのだ。

すぐに飛び出して行った真帆から、二時くらいに連絡が来て、「過労なんだって」と言っていた。

そんなに深刻な状態ではなかったようで、芹菜もほっと胸を撫で下ろした。

電話では話していただろうけど、元の身体に戻った真帆が透輝と会うのは初めてだ。
彼も以前の真帆に会えて喜んでいることだろう。

家で出来そうな仕事だけカバンに詰めて、芹菜は廊下に出た。

エレベーターに向かって歩いていたら扉が開き、驚いたことに誠志朗が現れた。

なぜか髪が濡れそぼっている。
いつの間にか雨が降り出したのかと思ったが、彼の背広は濡れていない。

「これから帰るところか?」

「あの、何かありました?」

どうしても気になるものだから、ちらちらと濡れた髪を見てしまう。
誠志朗もそれに気づいたのだろう。

「シャワー浴びた」

「社に、そんな施設あったんですか?」

「いや、自分の家。…大川は?」

誠志朗は芹菜の背後を見つめている。

「いないのか?」

「ええ。私が最後で、もう誰もいません。大川さんに用事があったんですか?」

「いや、…いないならいいんだ」

誠志朗ははっきりと迷いの表情を見せ、それから「送るよ」と言い、自嘲気味に唇の端を歪めて、「送らせてくれるだろ?」と言い直した。

いつも後ろに撫で付けている前髪が濡れた重みで幾筋か垂れていて、ものすごくセクシーに見える。

芹菜は居心地が悪かった。

「電車で帰りますから」

誠志朗の顔が曇った。

「そうか。…さんざん君に酷い態度取ったんだから、嫌われてるだろってことは分かってたんだが」

苦い笑みを浮かべて言う。

「嫌ってなんか…いません」

「ほんとかい?なら、今日だけでも送らせてくれないか。もうかなり遅いし。…心配だから」

まごまごしていたら、誠志朗に促されるまま歩き出していた。


夜の景色だからか、車中の雰囲気が、昼間とは絶対的に違う気がした。

空気がぴりぴりしているという表現が、一番ぴったりくるだろうか…
なんだかわけが分からぬままに、芹菜の動悸が早まってゆく。

「アルバイトの君にこんな時間まで残業させて、自分は定時で帰るなんて、最悪の上司だな」

悔いるような彼の言葉に、芹菜は驚き大きくかぶりを振った。

「そんなことありません! 与えられた仕事をちゃんと出来なかったわたしが…」

「いや、君は過ぎるくらい良くやってくれてる」

芹菜の言葉をさえぎって、誠志朗が言った。

「これからは、君がもっと楽に仕事がやれるように、配慮するから」

芹菜は素直に頷いた。そうしてもらえたら正直とても助かる。

明後日からはお盆休みの連休に入るし、たまってしまった仕事を連休前までにすべて処理するなんて、いまの彼女の能力ではとても無理だ。

「アルバイトは、30日までだったね。あと二週間か」

芹菜は頷いたが、誠志朗の言葉は、まるで独り言のようだった。
自分で言って確認しているという感じだった。

その誠志朗の言葉に、彼女がどれだけ苦悩を感じているかなんて、彼には分からないだろう。

あと二週間。
それを過ぎたら…もう、逢うことはないのだ。

身代わりだろうがなんだろうがそれでもいい。いまはそう思った。

もし、彼が…

「ここ…だったね」

芹菜は頷いた。

車は渡瀬家の前に停車していた。
お礼を言って芹菜は車を降りた。

心が空虚だった。
ありえないことばかり考え、自分勝手に盛り上がっている自分が情けない。

「芹香君」

芹菜は振り返った。
車のドアを開けて、誠志朗が佇んでいた。

だが、いくら待っても、彼はなんの行動も起こさなかった。

誠志朗は、自分が何を語りたいのか、どう行動したいのか分からず、途方にくれているようだった。

誠志朗の頭上にある外灯が、暗闇の中、彼だけを浮き上がらせている。

手の届かない存在。嫌と言うほど、そう感じさせられる。

ほの暗い中で、言葉を発することもせず、芹菜はただ彼の姿を見つめていた。

胸が、つぶれそうなほど痛かった。

連休の五日間が過ぎたら、アルバイトの残りはもう十日ほどしかない。
そしたら逢えなくなる。二度と。芹菜は唇をかみ締めた。

彼との思い出を記憶に刻みたければ、自ら行動を起こすべきではないのか…と、助言する声が聞こえた。
だが、その思い出に苦しむことになるかもしれないぞ…と、別の誰かが忠告する。

どちらを選択するかは、彼女次第だ。

どちらにしても、同じだけ苦しむだろう。

それならば…

彼女は誠志朗に、震える足で近づいて行った。
口を開いたが、声が出てこない。

「自分が…」

言葉がふいに降って来て、芹菜は彼の顔を見上げた。

ふたりの視線が交わる。
あまりに真剣な誠志朗に彼女は目が離せなくなった。

「こんなに…意気地がないとは、思わなかった」

芹菜はどう反応してよいのか分からなかった。
誠志朗はまた黙り込んでしまった。

外灯の明かりの中にふたり佇んで、ここだけが特別な空間のように芹菜には思えた。

この明かりを出てしまったら、もう二度と、彼の傍に戻っては来れない気さえする。

その時、後頭部に妙な違和感を感じた。
その違和感がもぞもぞと動き、芹菜の全身がぞわっと総毛だった。

「き…きゃーーーーっ」

絶叫すると、芹菜は誠志朗にしがみついた。突然のことに誠志朗が固まっている。

「取って取って、何かいるー。ぞわぞわしてる。はやくー、誠志朗さん、取ってぇーーー」

頭を誠志朗の胸に擦り付けるようして、芹菜は早口で必死に叫んだ。

「どこに?」

「頭、頭の後ろっ。はやくっ、誠志朗さん」

そう叫んでいる間も、髪の毛に絡み付いてもぞもぞと動いている生き物。
時々頭皮に虫の手足らしいものが当る感触までする。

「もうやだーーー」

芹菜は涙目になった。

誠志朗が後頭部を撫で始めた、「あ、これか」と言ったと同時に髪の毛を引っ張られる感覚があり、芹菜を総毛だたせた生物は彼女から離れてくれたようだ。

「とれたぞ」

芹菜は全身の力を抜いて、はーっと長い息を吐き出した。

タダでさえ蒸し熱いのに、今の騒ぎで、全身汗びっしょりになってしまった。

「ほら」

誠志朗が摘み上げた虫を、どうやら芹菜の顔の近くに持ってきたらしい気配がし、芹菜は彼の胸にさらに顔をくっつけた。

「み、見たくないっ」

「そんな毛嫌いするような虫じゃないぞ。この辺りでもクワガタがいるんだな」

クワガタ?

芹菜は彼の胸から顔を離した。
そっと横を伺うと、誠志朗が指で摘んでいる小さなクワガタが見えた。

「ほんとだ」

「ここは外灯の下だからな。少し離れよう」

誠志朗がクワガタを開放し、ふたりは少し薄暗いところに移動した。

「あー、驚いた」

そう言ってから、芹菜はくすくす笑い出した。

いまになると、自分の反応はあまりに大袈裟だった気がしてくる。

あんなにシリアスに悩んでいたのに…

その時、誠志朗の腕に力がこもった。

ぎゅっと抱きしめられてようやく、芹菜は自分が彼の身体にしがみついたことを認識した。

「大川と…付き合ってるんだろ?」

事実を確かめるというような言葉に、芹菜は目を見開いた。ぶんぶんと首を振って否定する。

「でも、君…。肩を抱かれてた」

そう言うと、誠志朗が唇をかみ締めた。

切なそうなその表情に彼のあからさまな恋心がはっきりと伝わってきた。

芹菜の心臓がもんどり打った。

「あれは、大川さんがふざけて…。肩に置かれたとき、誠志朗…み、宮島主任が…入って来て」

芹菜は慌てて言い直し、思わず口を押さえてしまった。

さっきあんなハプニングに見舞われて、彼の名前をさんざん口にしてしまったことに、いまになって気づいた。

芹菜の顔を覗きこんで、誠志朗が不思議そうな顔になった。

「君は…令嬢だったころから、僕を名前で…呼んで…」

芹菜は頬が引きつった。

なんと言えばこの場が丸く収められるのだろう?

「それは…その…主任が…その。素敵だなぁとかって思って、な、名前が…だから、好きで…」

必死で考えて言っているつもりなのに、説明しようとすればするほどおかしな具合になってくる。

「それって」

誠志朗の言葉を、突然鳴り出したメロディーがさえぎった。
芹菜が持っているバッグの中の、携帯の着信音だった。

芹菜には、まるで天の助けのように思えた。




   
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