君色の輝き
その26 わだかまり 



「もう、芹ちゃんってば、馬鹿なんだからっ」

真帆からどんな罵倒をされても、何の反論もする気になれなかった。
あの後、誠志朗が絶対に追っては来れない女子用トイレに立てこもり、芹菜は真帆に助けを求めた。
急いで来てくれた真帆に従って、やってきた場所は、またまた社長室の応接室だ。

「はい。出来上がり。いまさらって気もするけど。それでどうするの?仕事」

化粧道具を仕舞いながら真帆が尋ねてきた。だが、芹菜自身どうすればいいのかなんて分からない。

「真帆さんだけでも先に行ってください。そろそろ時間だし」

「行かないわよ。これから透輝のとこに行くんだもの」

「そ、そんなぁ。真帆さん、わたしを見捨てるんですか?」

「あんたねぇ。もう、このお馬鹿」
真帆が叩く真似をしてきて、芹菜はきゅっと目を瞑った。

「戻るつもりがあるなら、ついてってあげるわ。でも十時くらいまでよ。やめて帰るなら家まで送ってあげるけど、どっちにするの?」

誠志朗が最後に口にした、『なんだか…』と言う言葉が脳裏に張り付いていた。
その後を、彼はなんと続けようとしたのだろう?
「真帆さん、誠志朗さんが『口紅くらいつけた方がいいかな。なんだか…』って言ったんですけど、いったいなんて続けようとしたと思います」と、ためらいがちに聞いてみた。

「そんなこと本人じゃないんだから、わかんないわよっ! でもまあ、『なんだかガキっぽい』とでも言おうとしたんじゃないの」

芹菜はショックを受けた。その芹菜の様子に真帆が慌てた。

「ごめん、ちょっと表現悪過ぎたわ」

たしかに真帆の表現はあんまりだと感じたが、彼が言わんしたのは、たぶんそういうことなのだろう。芹菜は肩を落とした。

ただ慰めは、彼女が芹菜だということに、彼が気づかなかったということだ。
裏を返せば、彼は芹菜のことなど、まったくこれっぽっちも覚えていないということで、それはそれで哀しい現実だった。

落ち込みすぎて、吹っ切れてきた。
上だろうが下だろうが、テンションも頂点を極めれば通常に戻るものらしい。

ふたりが企画室のドアを開けたとき、始業を知らせるオルゴール調のメロディーが鳴った。
仕事が始まっても、芹菜は誠志朗と顔を合わせる勇気がなくて、ずっと彼のことを避けていた。

十時過ぎてみんなが一服しているところで、真帆は宣言どおり退社して行った。心のよりどころの真帆の後姿を、知らず芹菜は恨めしげに眺めてしまった。





「どうも、宮島さん」

芹菜はその独特の張りのある声に顔を上げた。思ったとおり、イラストレーターの福井だった。見たところとても元気そうだ。
迷惑を掛けたことを詫び、それから見舞いに来てくれたことに礼を言っている。
どうしたのか、福井らしくなく、何か言いにくそうに口ごもった。
周りのみんなは、福井と挨拶を交わした後は、それぞれの仕事に集中しているようだ。

「福井君、どうした?」

「いや、その…仕事、これからもやらせてもらえるんかなって…」
言葉が、しりつぼみに小さくなってゆく。

福井の心境をいち早く察知して、誠志朗が笑顔を向けた。
「ああ、もちろんだ。これからもよろしく頼むよ」

「あ、ありがとうございます」
彼はそう礼を言うと「よかったー」と叫んで涙ぐんだ。

「す、すんません。仕事、何本か打ち切られたもんで…俺」
腕で目を隠して、男泣きに泣いている。芹菜まで涙が出てきた。

「芹香君、君まで泣くことないだろ」

誠志朗に苦笑しつつ言われて、彼女は慌てて涙をぬぐった。
必死で避けていた誠志朗と顔を合わせてしまったことに、気まずさも感じた。

「宮島さん、このひと?」

「バイト。夏の間だけだが」

「そうっすか。は、初めましてっ!俺、福井良太って言います」

良く知ってます。と芹菜は胸のうちで呟きながら、「初めまして」と微笑んだ。
福井は芹菜の両手をぎゅっと握り、上下にブンブン振ってきた。

「俺のために泣いてくれるだなんて、なんてやさしいひとだぁ」
あまりに大きく振るものだから、頭まで上下に揺れて、芹菜は気分が悪くなってきた。

「名前聞いていいっすか?」
やっと振り回すのを止めてくれてほっとしたが、手のほうはなかなか離してくれない。

「楠…、わ、渡瀬です」
芹菜は冷や汗を掻いた。危ないところだった。

「福井君。せっかく来たんだ。場所変えて、仕事の打ち合わせでもしとこうか?」

「あ、はいっ」
福井は、叫ぶように答えながら、なぜか敬礼している。芹菜は笑いを堪えた。
福井はまた芹菜に向き直った。

「渡瀬さん、また」
最後に力を込めてぎゅっと手を握ぎられ、芹菜も、「はい、また」と、条件反射で返事をした。

もう一度こちらに振り向いて手を振る福井に、彼女はくすくす笑いながら小さく手を振り返した。
福井の個性は本当に独特の味がある。もう逢うこともないだろうが。

芹菜は肩を指先でちょんちょんと突付かれて振り返った。大川だった。

「芹香ちゃん、あんな気を持たせるような雰囲気で男と接しちゃ駄目だよ」

芹菜は、大川の言葉に驚いた。
始めどういうことか分からなくてポカンとしてしまったが、だんだんその意味が胸にしみてきた。いまの彼女の態度は、そんな風に見えたのだろうか。
自分がものすごく嫌な女になったような気分に陥った。恥ずかしさが湧き、それに付随して気が落ち込んできた。

目の前では、成田、藤沢、益田の三人が、なにやら頭をくっつけるようにしてぼそぼそと囁き合っている。彼らも、彼女のことを話しているのではと思えて、胸が苦しくなった。
そんな状態なのに、大川はまだ続けた。

「それに君の表情も、…少しは自覚しないと」
心に痛みが走った。喉に詰まりを感じて、それをコクンと飲み込んだ。

藤沢が突然すっくと立ち上がった。

「あのなぁ、大川。そういうのを余計なお世話って言うんだぞ。意識してないのに、自覚しろって無理に決まってんだろ」

普段温厚な彼のどこにこんな声が隠れていたのだろうと思わせるような、怒りを含んだ低い声だった。

「見ろ、芹香ちゃん、相当傷ついてるぞ」

みんなの目がいっせいに自分に向けられ、驚いた芹菜は咄嗟に下を向いた。

「えっ、えっ、お、俺そんなつもりじゃ…」と、大川が慌てふためいた。

「あぁあ、芹香ちゃんに嫌われたな」と、ずいぶんと楽しそうに益田が言った。

成田がくすくす笑い出した。
「芹香ちゃん、許してあげなよぉ、大川君、反省してるみたいだし」

「ごめん。その、つい…。ほんと、ごめん」

胸の前で両手をあわせて必死に謝る大川に、芹菜は「もう良いです」と言った。
でも、何が良いのか分からなかったし、謝られたところで、芹菜の中に湧いた羞恥も消えなければ、落ち込みからも抜け出せなかった。
わだかまりが心の傷にしみこんでゆくのを彼女は感じていた。

なぜか、怒鳴りつけた当の藤沢は、大川の背中を強めに叩いて慰めている。
慰めて欲しいのは私の方なのにと、芹菜は恨めしく思った。




   
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