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その3 恋混じりの礼状
芹菜は生まれて初めて、男性に宛てた手紙を書いていた。
けれど、遅々として筆が進まない。
ラブレターではないのだ。
頂いた花のお礼を書くのだから、つまりは、礼状…
決して恋文などではない。
そう自分に言い聞かせるものの、書き手に恋しい思いがあるのだから同じことなのかも知れないと思えてしまう。
白いビオラの鉢は、芹菜の机に大切に飾られていた。
間違っても枯らしたりしないように、学校の帰りに図書館で、植物の世話の仕方が書いてある花の専門書まで借りてきた。
しかし、花のお礼を書いてしまったら、ほかに書くことが思いつかない。
それだけの内容では、数行で終わってしまう。
ため息をついて周りを見回した芹菜は、自分のバッグを見ていい物を思い出した。
すぐに立ち上がってバッグ取り上げると、芹菜は白い封書を取り出し、中身を確かめてにっこり微笑んだ。
これでいい。
映画の無料招待券だった。
トウキの映画を観に行った映画館で、来場者一人につき一回くじが引けたのだ。
真奈香は外れてしまったが、芹菜は当たった。
三等賞!
特等はなんとハリウッド旅行だった。
映画館全店で5組だけだそうだが…
「同じ三等でも、宮島君のコロッケパン五個よりはましよね」
そう独り言を呟いて、含み笑いをする。
芹菜は2時間後、やっと封を閉じた。
すでに12時が回り、手紙を10数回は見直した。
封をしてしまった手紙を開封して、もう一度確かめたい気分に囚われたが、大丈夫、大丈夫と呟いて通学鞄に入れると、芹菜はようやくベッドに横になった。
放課後、芹菜の精神はヘトヘトになっていた。
一日中、大成に手紙を頼むタイミングを見計らっていたのだが、そのチャンスはなかなか訪れなかった。
たんなる礼状なのだから、そんなに気にせず頼めばいいのだと思っても、恋する気持ちがあるものだから、無性に恥ずかしさが付きまとってくる。
それに、周りのみんなに芹菜が大成にラブレターを渡していると誤解されても困る。
「芹菜。早く、部活行こう」
由梨絵に急かされて、芹菜は荷物を持つと立ち上がった。
風邪が治ったばかりの大成をちらりと見る。
どうやら彼も部活に行くらしく、部活用のバッグを提げていた。
まだチャンスはあると芹菜はほっとした。
部室で着替えている最中に、由梨絵が極端に声を潜めて話しかけてきた。
「芹菜さぁ、好きな人バレバレだよ」
「えっ」
芹菜はうろたえた。
手紙の差出人を見られたのだろうか?
だが、ずっと鞄に入れたまま取り出していないのだから、知られる筈が…
「宮島君も、きっと芹菜のこと好きだよ。告白したら?」
芹菜は目を丸くしてしまった。
「どうして?」
「だって、今日一日中、宮島君のこと心配そうに見つめてたじゃん」
それは大きな誤解だ。
それにしてもそんなに露骨に彼を見ていただろうか?
「違うって。ちょっと宮島君に頼みたいことがあって…それだけ」
「頼み?」
由梨絵が、探るように見つめてくる。
そのまなざしがあまりに強すぎて、芹菜はいささか気が滅入った。
「うん。そう」
由梨絵の瞳が「どんな?」と刺すように問いかけているのに気づかないふりをして、彼女はラケットを掴むと、急いで部室を出た。
由梨絵の方がバレバレだよ。と、芹菜は心の中で呟いた。
芹菜の心は後悔でいっぱいになった。
手紙を手にした大成の驚きといったらなかった。
「誠志朗兄さんに…かい?」
確かめるように、彼がそう言ったのは、これで二度目だ。
宮島君、これラブレターとかそういうんじゃないから。と言おうとしたら、大成が戸惑い顔でこう言った。
「だって、兄さんは僕と一回りくらい違うんだよ。君とじゃ…その」
芹菜は大成の言葉に衝撃を受けた。が、かなりの無理をしてその驚きを隠した。
「あの、とにかくそれ、渡してもらえる? そしたら分かるから」
それだけ言うと、回れ右をして駅に向かって走りだした。
すでに手紙を書いた日から一週間が過ぎていた。
いつも一緒にいる由梨絵が、家の用事があるとかで部活を休んだので、今日ならばと校門を出たばかりの大成を呼び止めたのだ。
思い切って渡した結果がこれとは…。
それにしても、あのひとが一回りも年上だったなんて。と、悲しくなった。
高校2年の芹菜など、とても相手にしてくれないだろう。
大成が驚くのも無理はない。
でも、あれはラブレターじゃないのだから…と思っても、慰めにはならなかった。
あの時感じた誠志朗のやさしさや特別に思えた笑みは、単に、弟の同級生に家の前でばったり会って、親しく話をしてくれただけのことだったのだ。
あの手紙を読んだら…あの人はどう思うだろう?
芹菜の恋心に気づかれてしまうだろうか?
そういう気持ちをほんの少しでも感じさせないように、気を配って書いたつもりだったが…
家に帰り着いて洗面所で手を洗いながら、ふっと顔を上げて鏡を見る。
芹菜は、乾いた笑い声をあげた。
鏡に映るのは、ただの高校生だ。
それも三つ編み姿の、冴えない女子高生…
後悔と哀しさで、涙がとめられなかった。
「楠木さん」
翌週、月曜の放課後、大成に呼び止められて、芹菜はどきりとして振り返った。
隣を歩いていた由梨絵も驚いたように振り返った。
「あの、いまちょっといい?」
由梨絵から芹菜に視線を移しながら、芹菜に場所を変えようと暗に伝えてくる。
「私、先に部活行ってるね」
由梨絵が妙に明るく言った。
あとでの説明が大変だと、芹菜は心の中で深いため息をついた。
大成の後について、中庭まで移動した。
振り返った彼は、言い難そうに口籠っている。
その様子を見ただけで、彼の言葉を聞かずにこの場から逃げ出したいと、彼女は切に思った。
「ごめん、兄貴からの返事はないんだ。その、でも気にすることないよ。君と兄さんは歳が違いすぎるし…」
「もういいっ!!」
芹菜は叫んだ。
それ以上、何も聞きたくなかった。
芹菜らしくない大声にたじろいだ大成は唖然としている。
彼女は走り出した。
もう部活などどうでも良かった。
いつもの電車の中、芹菜はドアにもたれて、目に映る景色をぼおっと眺めていた。
お馴染みの景色。いつもと同じ電車の揺れ…
何もかもたまらなく辛かった。
恋をして、ほんのちょっと欲を出して…結果がこれ…
これからもっと多くの恋を体験してゆけば、今のこの気持ちも微笑みながら思い返すことが出来るのかもしれない。
でも、いまは駄目だ。
彼女は、電車を降りた。
まだ降りる駅ではなかったが、まっすぐ家に帰る気持ちにはとてもなれなかった。
知らない町並み、知らない通りを歩きたかった。
そして、これまでの彼女ならば絶対にしないような事をしでかしてみたかった。
たとえば、この通学バッグを捨てちゃうとか…
そう考えたものの、自分にそんな度胸はとてもないと分かっている。
芹菜は自虐的な表情で笑った。
とぼとぼ歩いていると、目的を持った人たちが、すいすいと追い越してゆく。
芹菜は、その見知らぬ背中のいくつかを何気なく見つめていた。
すると、いま追い抜いていったばかりの女性が、バッグの口を開けると、自販機の空き缶入れに何かを押し込んだ。
缶ではなさそうだった。
芹菜は通り過ぎざまに、その物体に視線を向けて唖然とした。
信じられないことに携帯電話だった。
故障?
そう思った時、その携帯が鳴り出した。
焦りが高じて思わず掴んでしまう。
女性を目で追うと、すでにずいぶん遠くを歩いていた。
芹菜は、鳴り続ける携帯を手に走り出した。
凄い人だと思った。携帯を捨てるなんて…
芹菜の歩みが少し緩んだ。
どんなことがあっても通学鞄を捨てられない自分と、あの人は、なんと違うことだろう。
確かに非常識な行動だけれど、その非常識をやり遂げてしまったあのひとに、いまの芹菜は強い憧れの気持ちを感じてしまう。
再び走り出した芹菜は、歩道橋の柵の真ん中を握り締めて立っている、先程の女性を見つけた。
歩道橋を上りきって、その女性の方に歩み寄ろうとした芹菜は、その場に凍りついた。
彼女が大声で叫び出したのだ。
「宮島誠志朗の馬鹿野郎!真面目にやれば、あんたなんかよりずっと有能なんだぞぉ。いつでも涼しい顔して、あんたはクール宅急便かっての」
芹菜は、頭の中が真っ白になった。
女性は数歩先にいる。
怒った顔をして指にはめている指輪を見つめ、それを抜き取った。
一瞬、投げ捨てようとしてさすがに思いとどまったのか、バッグの中に放り込んだ。
指輪? 宮島誠志朗? その意味するところは?
芹菜は、手に握り締めた携帯を取り落としそうになった。
まるで携帯が熱を帯びてきたように感じられた。
このひと…婚約者? あの人の…? まさか!
芹菜は女性の手に携帯を押し付けた。
そしてそのまま、歩道橋の階段を飛ぶように降りた。
地面に足をつけた時、何かに操られたように彼女は後ろを振り向いた。
その女性は階段の一番上から芹菜を見下ろしていた。
美しいひとだった。
信じられないくらい美しいひとだった。
芹菜の瞳に涙が滲んだ。
「あっ」
芹菜は目を見開いた。
一瞬だった。
その女性が降りてこようとして踵のヒールを引っ掛け、体がぐらりと傾いだ。
落ちるっ!
何も考えず、芹菜は階段を駆け上がった。
激しくぶつかる音。頭への強い衝撃。その後の浮遊感…
意識が遠ざかる間、彼女は奈落の底に落ちて行くような恐怖を味わっていた。
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