君色の輝き
その30 青い心 



玄関に入ってすぐ、誠志朗は窓を全開にしてエアコンのスイッチを入れた。

座り心地の良いソファーに勧められるまま座り、芹菜はエアコンの冷気にほっと息をついた。

誠志朗が差し出してくれたウーロン茶を受け取ると、彼もグラスを片手に芹菜の横に腰掛けた。

「君に怒ってるわけじゃない。自分に…」

そう言って誠志朗はウーロン茶を一口飲んだ。

「強引だったことも悪かったと思ってる。君が嫌がってるのに、無理強いして」
そう言うと、誠志朗は床に視線を落とした。

唇をぎゅっと噛み締めている彼を見て、彼女の方が切なくなってきた。

「包帯ぐるぐる巻きで、お化粧だってしてないし。こんなみっともない姿、見られたくなかったのに…」

芹菜は肩を落としてため息をついた。

「そんなこと、気にしてるのか?」

取るに足らないとでもいわんばかりに言われて、芹菜はむっとした。

「気にします。素顔だと年齢差感じるって言われたし…」

「それは…まあ、言ったけど。あの場合は驚いたからで…あの時あんな形で君の素顔見たわけだし。僕の気持ちも分かってもらえるとありがたいんだが」

「でも誠志朗さんにとっての私は、お化粧してる私でしょ?」

そう。彼が恋を感じているのは、少なくとも素顔の芹菜ではないはずだ。

「ずいぶん面白いこと言うな。化粧してようがしてなかろうが、君は君だろ?」

「ほんとに、本当にそう思ってます?」

「ああ」

「ひとってなんだと思います?」

芹菜は誠志朗に真正面から向き合った。

「真帆さんの体になっても、私は私でした。でも、他の人からすれば、私の心だけを私としては見ないでしょう?体と心がひとつになって、初めて私として認識してくれるのだと思う」

誠志朗は頷きも否定もしなかった。
ただ、芹菜を包むような目で見ていた。

芹菜は、胸が圧迫されたようで、途切れ途切れに息を吸い、そして吐き出した。

「私だって、もし誠志朗さんが誰かと入れ替わってしまうようなことになったとして、絶対に別の誰かの体に入った誠志朗さんを愛せるって、自信持って言えない…」

誠志朗がそっと動いて、次の瞬間芹菜は抱きしめられていた。

柔らかく包むように抱かれて、芹菜は肩の力を抜いて彼の胸に額をくっつけた。

なんだか涙が出そうになった。

誠志朗の胸が揺れ始め、彼が笑っているのに気づいた。

顔を上げると、その笑いの中に苦さと安堵が入り混じっているように感じた。

「誠志朗さん?」

「好きだな。君のその声。…その声で、他の男の名前なんか呼んで欲しくないなんて考えてる」

誠志朗の腕の力が、言葉とともにきつくなった。

芹菜は、急に怖くなった。

嬉しさを通り越して、未知の領分に踏み込んでしまった怖れ…

彼女を取り巻いている独特の空気に息が詰まり、通常の空気が吸える水面へと逃れたくなった。

「震えてる」

誠志朗の声に芹菜はビクリとした。

「…僕が、怖い?」

芹菜は一瞬だけ首を横に振り、そして俯いた。

「誠志朗さんが怖いわけじゃ…」

「僕に抱きしめられるのは、嫌」

「そ、そんなことはないです…ただこんなこと…」

「初めてで?」

そう続きを当てられて、芹菜ははにかんだ顔で、誠志朗を見上げて、こくりと頷いた。

誠志朗の真剣な目がそこにあって、芹菜は息が止まった。

「キス…していいかな?」掠れた声だった。

芹菜の頭は真っ白になった。
固まっている彼女に誠志朗が言った。

「何も言わなかったら、君が承諾したと取る」

混乱している中で、時がゆっくりと過ぎた。

身じろぎも出来ずに目を見開いていると、誠志朗のズボンのポケットに入っているらしい携帯から、着信音が響き出した。

「いったい誰だ。後で絞め殺してやる」

どうやら、思わず罵りの言葉を吐き出してしまったらしい。

誠志朗がそれと気づいて、しまったというような顔をした。

気まずそうな顔をしている誠志朗を見て、芹菜は笑いがこみ上げてきた。

誠志朗はくるりと背を向け、携帯に出た。

「なんだ、母さんか。何?…ああ、夕飯か、忘れてた。今夜はいらない。…なんでって、その、ひとが来てるんだ。寿司でも取ろうと思ってるから」

「私、帰ります」

芹菜は、誠志朗の空いている方の耳に顔を近づけて囁いた。

彼がくるりとこちらを向いて、首を横に振った。

電話に相槌を打っている誠志朗の耳元に、彼女は潜めた声でまた囁いた。

「夕食作って待ってらっしゃるんでしょ?帰りますから」

誠志朗は、また首を横に振った。

「…いや、拓はいい。それなら大成に持ってこさせてくれる。…うん、うん。ありがとう」

誠志朗がふっと息を吐いて携帯を閉まった。
そして固まっている芹菜を見て、眉をひそめた。

「すまない。どうも拓が勝手に想像膨らまして、家族にあることないこと吹き込んだみたいだ。あいつのああいう性格なんとかならないかな、まったく」

芹菜には、誠志朗の言葉などほとんど聞き取れていなかった。

大成が来る!ここに!

「誠志朗さんのご実家、ここから近かったんですか?」

考えたくもない予感に、芹菜はめまいがした。

「歩いて、五分かからないくらいかな。おかげでしょっちゅう家族がやって来るよ。とくに一番下の大成はね。僕もちょくちょく戻ってるし、土日はあっちで夕食食べてるし、一人暮らししてても、とても自立してるとは言えないな」

「私、帰りますっ」

芹菜はバッグを掴むと、慌てて玄関に急いだ。

「芹香君、急にどうしたんだ」

「だって…弟さん、来るのでしょ?こ、こんな姿でお会いするの嫌だし…」

芹菜は片足を靴に突っ込んだ。

誠志朗の手が芹菜の腕を掴んだ。

「大丈夫だから。なんなら奥の部屋に入ってればいい。弟は玄関先ですぐに帰すから」

「で、でも」

芹菜は誠志朗の腕の力に抵抗しつつ、もう片方の靴にも足を滑り込ませた。

「もうこっちに向かってるだろうし、君を送ってゆく暇もない。それに今ここを出たら、それこそ下でばったりなんてことになるかもしれないぞ」

ドアノブに手を伸ばそうとしていた芹菜は、そのままの姿勢で立ち竦んだ。





2LDKのマンションの一部屋は、誠志朗の書斎になっていた。
隣り合わせにあるもう一部屋が寝室なのだろうと思えた。

大きな机がでんと据えられ、壁の片側には大きな書棚があって、本がぎっしりと詰まっていた。

汚いというわけではないが、、綺麗好きというほどでもなく、雑誌が雑然と床に積み上げられているし、パソコンやそれに付属した機器もやたらにあり、床ではコードが複雑に絡まりあって、少しほこりが積もっていた。

机の上にも書籍がいっぱい重ねられ、開いたスペースは少ししかない。

「ずいぶんと、酷く散らかってるな」

誠志朗は、まるで他人の部屋のように眺めて笑った。

「ここに座ってて、そろそろ来ると思うから」

机の椅子を勧められ、芹菜はおとなしく従った。
こうなったら、腹をくくるしかない。

「やっと涼しくなってきたな」

確かに、書斎のエアコンが効き始めようだ。
額の汗が冷たく感じる。

「ところで明日はどうする? あざが気になるなら、レンタルのビデオでも借りてきて、ここで一日過ごす?」

なんだか答えが分かっているというような、少し意地悪な笑みを浮かべている。

芹菜は笑いながら首を横に振った。
やはりなという顔で誠志朗が苦笑した。

二人きりで一日中なんて、芹菜の青い精神ではとても持たないだろう。

「誠志朗さんがこのあざを気にしないのなら、どこかに遊びに行けたら嬉しいです。…デ、デートみたいなのして、思い出作れたら嬉しいし」

デートの一言で、顔がカーッと熱くなった。

「真帆さんにも、このあざがあまり目立たないようになんとかしてもらいますから」

「そんな必要はないさ。傷に触ると良くない。明日は素顔のままでいいから。目のあざの心配ばかりしてるけど、こっちの腕の傷は大丈夫なのか?」

「こっちの方は擦り傷ですから、まだ少し、ひりひりしますけど」

「それにしても、大変だったな。ところで、なんで…」

誠志朗が言葉を止めた。インターホンの鳴る音がした。

緊張した芹菜を置いて、すぐに誠志朗は出て行った。

開け放されたままのドアを芹菜はそっと閉めた。
ドアに耳をくっつけてみたが、残念ながら何も聞こえない。

彼女は仕方なく、書棚の方にぷらぷらと近づいて、本の背表紙を眺めた。

見覚えのある一冊の本が目に飛び込んで来た。

並べられた本の上に置かれている、汚れジミのついた本…

思い出がまざまざと蘇って胸が迫り、芹菜は思わず書棚を開けてその本を手に取っていた。

「捨てなかったんだ」

ふたりの思い出の品を彼が捨て去らなかったことだけで、どうしてなのか分からないが、芹菜は救われた思いがした。

その反面、苦いものが胸にこみ上げてくるのをどうしようもなかった。

彼女は急いで、本を元の場所に戻し書棚を閉めた。

この本を手にしているのを見たら、誠志朗が変に思うに違いない。

もう一度椅子に座り込んで数分経ったところで、誠志朗がドアを開けて入ってきた。

「ごめん、長く待たせて。参ったよ。あいつら、しつこくて」

「あいつら?」

「兄弟三人、揃って来たんだ。拓は来るだろうなとは予想してたけど、次男の賢司まで来るとは思わなかった」

「四人兄弟なんですか?凄い」

「ああ、母親が女の子が欲しくてね。諦め切れずに四人。僕は長男だから被害受けてないけど、拓と大成はよく女の子みたいな格好させられてたよ」

あの大成が女の子の格好と聞いて、芹菜は笑いが堪えきれなかった。

「でも、次男の賢司が結婚して、いま二歳の娘がいるんだ。母は今、狂喜乱舞状態」

「次男さんのご家族も、この近くに住んでらっしゃるんですか?」

「同じ敷地に家を建てて住んでる。家の敷地の反対側に父親の経営してる店舗があるんだ。ミヤジマ電器。知ってる?」

「えっ?あ、あのミヤジマ電器?」

芹菜は驚いた。

彼女の家の近くにも一軒ある。
数年前にオープンした店舗は、かなりの大型店で、芹菜が使っている携帯も、そこで購入したのだ。

「そう。いま十五店舗くらい…かな、たぶん。次男の賢司は電器店を手伝ってるんだ」

「誠志朗さんは?」

「僕は勘当された」

驚いている芹菜の顔を見て、誠志朗は意味深に笑っている。

「母親の手製だから、君の口に合うか分からないけど、食べないか?」

そう言って部屋を出てゆく誠志朗の後に続いた。

そっと外を伺うそぶりをした彼女を見て、誠志朗が「もういないよ」と可笑しそうに笑った。

キッチンの前に設置されているカウンターに、大皿に入れられたカラフルな色彩の散らし寿司があった。

それだけでなく、から揚げや、お惣菜も何品かある。

「私の分までいただいてしまって、良かったんでしょうか?」

「お盆だからね。親戚もやって来るし、大量に作ってるんだよ」

「誠志朗さんは、親戚の方にご挨拶しなくても…」

「いいさ、勘当されてる身だし」

芹菜の顔が心配で曇ったのを見て、食器棚から皿を出していた誠志朗が慌てて言った。

「ごめん、冗談だから」

カウンターの椅子に並んで腰掛けて食べながら、誠志朗がいろいろ語ってくれた。

「父親がね、僕が長男だって言うだけで継ぐのが当たり前みたいに思ってて、あまりに横暴でね。押し付けられた人生歩むなんて、絶対に嫌だった。それで入社と同時に家を出た」

散らし寿司をほおばった芹菜は、誠志朗と目が合って、こくこくと頷いた。
なぜか誠志朗が、楽しそうに微笑み返してきた。

「だけど、母親が近くに住んでくれって言って譲らないもんだから、こんなに近くに住むことになったんだ。それでも三年近く、父親との確執があって、一度も家には帰らなかったな。いまはそれも過ぎた話だけど…」

誠志朗が視線を外さずに語っているので、芹菜も口をもぐもぐさせながらも誠志朗を見つめていた。

コクンと飲み込んだとき、彼の視線が芹菜の口元に移り、すっと手が伸びてきた。

驚きに目を見開いた時には、芹菜の口元についたご飯粒を摘み、間をおかず「はい」と、芹菜の唇に近づけてきた。

芹菜は思わずぱくっと食べたが、彼の指までしゃぶる形になった。

芹菜は自分がいま味わった誠志朗の指先をじっと見詰めた。
その指先がゆっくりと動き、芹菜の唇の輪郭をなぞり始めた。

彼の指が触れた唇が甘く疼き、細かく震えているのが自分でも分かった。

「ごめん」

誠志朗がそう言うと同時に指を引いた。

グラスに半分ほど入っていたウーロン茶をぐっと飲み干して、彼は息をついた。

芹菜は、いま与えられた馴染みのない感覚に背筋が震えていた。

「君の気持ちを無視した行動はしないって決めたのに、駄目だな」

自嘲するように誠志朗は言った。

芹菜は彼の優しさが嬉しくて涙が出そうになった。

誠志朗の腕に体を寄せ、芹菜は彼の腕に遠慮がちに手を触れた。

彼の腕が芹菜の背中に当てられ、少しの間を置いて、芹菜は頭のてっぺんに、誠志朗の唇と温かな息を感じた。




   
inserted by FC2 system