君色の輝き
その33 真実の世界 



「お姉ちゃん、お風呂空いたよぉ」

携帯を耳から離して、芹菜は真奈香の声に「はーい」と返事をした。

真帆の怒りを含んだ声が一端途絶え、また続きが始まった。

芹菜はため息をついて、真帆の声に被せるように言った。

「真帆さん、分かってる。何度も電話しようとしてるの。…でも、どうしても勇気が…」

「勇気、勇気って、そんなの言い訳よっ。ただ逃げてるだけじゃないの」

芹菜は目を閉じた。
言葉が胸に突き刺さる。

「宮島に、さっさと言えばいいのよ。それで嫌われてもあんたが悪いのよ。騙して付き合ってたあんたが」

「嫌われたくないのっ!」

心からの叫びだった。

真帆が黙り込んだ。

「我が儘だって分かってるっ。でも嫌われたくない、嫌われたくないの…」

芹菜は囁くように言って、すすり泣いた。

「わ、分かったから、もう少し落ち着きなさい。あんたが泣いたら、…私まで泣けてくるじゃないの、馬鹿ね、この子はっ。もうっ」

真帆との会話を打ち切り、携帯を机に置くと、芹菜はベッドに突っ伏した。

お風呂に入らなければならないが、身体がだるくてたまらなかった。

誠志朗と別れた次の日の早朝、芹菜は夜に書いておいた、真帆と真帆の両親宛ての手紙を台所の食卓に並べて家を出た。

野木さんはいつもと同じようにすでに起きていて、荷物を持っている芹菜を見て問いかけるように見たが、「帰るの?」と言っただけで、他のことは一切何も聞いて来なかった。

そんな形で戻ったことで、昨日までの真帆の不機嫌さは、いまよりもっと凄かった。

芹菜は部屋にこもり、問題集に取り組むことで、現実から逃げていた。

眠れない夜は朝方まで勉強した。
睡眠不足になれば、眠りが訪れた。

だが明日から新学期だ。

芹菜は起き上がり、大きく深呼吸して、ストレスで凝り固まった身体から力をすーっと抜いた。

真帆が作り変えてしまった芹菜の世界に戻らなければならない。
でも、始め感じていたほどの怖れはもうなかった。

自分は自分らしくあればいい。そう思った。

芹菜がまた変わったことで、みんなが驚こうがひそひそと囁きあおうが構わないと思った。

いつだって芹菜は芹菜でしかない。

少し成長しようが、それぞれの段階で悟りらしきものを得ようが、また後退し、そして前進する。

ただ、これまでずっと維持していた優等生の殻は確実に脱ぎ捨てていると思う。

少し強くなった自分を感じるし、これから先も変わってゆく自分がすでに見えるような気さえした。

誠志朗には、いますぐには伝えられないけれど、必ず伝える。

参考書が積み上げられている机を前にして座り、携帯をそっと手にした。
誠志朗の番号は、着信拒否に設定した。

臆病だと思う。卑怯だとも思う。
だが、いままでのように、自分を責めるのは止めたのだ。

道理はわきまえているし、過ちが許されるとも思わない。
だがその時その時、精一杯の思いで生きているのだから…

芹菜は携帯のディスプレーに表示された画像を見つめた。

彼と水族館に行ったとき、こっそりと写した一枚の写真。

お手洗いに行って戻ったとき、野外に作られたペンギンの柵にもたれていた誠志朗を写したのだ。

全身が撮れている分、顔の表情ははっきりとしていないが、芹菜にはこの時の彼の表情がはっきりと脳裏に描ける。

携帯には小さなアシカのついたストラップがつけてあった。

アシカのショーを見た後、お互いに買って交換したのだ。

ほかにもかわいらしいものがいっぱいあったけれど、たっぷりと水を被った記念にと、まだ湿った服のまま、笑い合いながら買った。

ノックの音もなく、ドアがバンと開いた。

「お姉ちゃんってば、早くお風呂入りなよぉ。テレビゲームやる暇なくなっちゃうよ」

不服そうな声全開の真奈香に、芹菜は「はいはい」と答えた。

心の思いとは別に、彼女を取り巻く日常は過ぎてゆく。





久しぶりの制服。そして満員電車。
校門を抜ける時、なぜか胸が震えた。

ありえないくらい短くなっているスカート。
今朝履いた時、恥ずかしさよりも、これを履いていた真帆に呆れてしまった。

でも、不思議な開放感を感じたのも事実だ。

背中の真ん中ほどまで垂れている髪は、ストレートに戻していた。

校庭を眺め、靴箱のあたりを見回し、廊下を歩いてゆく。

様々な場所で、芹菜だった頃の真帆の記憶が飛び出してくる。

否定も肯定もせず、芹菜はそれらの記憶を受け入れた。

はじめ馴染みのある教室に向かおうとして、芹菜は足を止め、そして回れ右をした。

靴箱は間違えなかったのにと、笑いを洩らした。

教室に向かう途中で、たくさんの声が掛かった。
芹菜は言葉には言葉を、手を振ってくる者には手を振り返した。

「芹菜っ、ひさしぶりっ、元気だった」

彼女は肩を叩かれて後ろに振り返った。

由梨絵だった。懐かしさに胸が熱くなった。

「夏休みの間、ちっとも遊んでくれないんだもんなぁ」

「ごめんね。ずっと親戚の家に行ってたから」

「いいよ。電話では話してたんだし。それで、お土産は?」

「あ…」

芹菜は、舌をちょこっと出して肩を竦めた。

「えーっ、ないのぉ。ひどーい楽しみにしてたのにぃ。もう私のお土産、あげないっ」

「ごめんごめん、今日、帰りにパフェ奢るから」

途端に由梨絵のご機嫌がなおった。

小さな袋に入ったお土産を渡して、「ほんじゃ、放課後ねぇ」と自分のクラスに入って行く。

由梨絵とクラスが別れたことは、少し寂しかった。

教室に入ると、みんながどっと寄ってきた。

これも真帆パワーのなせる業かしらなどと思いつつ、芹菜は自分の机に座った。
取り巻いている輪が一緒に移動してきていた。

そのうちに、みんなも気づくだろう。真帆ではない芹菜に…

芹菜は困るほどお土産を貰った。
そして全員に缶ジュースを奢る約束をした。

貰ったから返すという気持ちではなく、単なる勢いだ。

缶ジュース一本なのに、みんなが大喜びしている様が楽しくて、芹菜の笑顔が膨らんでゆく。

「楠木、お前なんかイメージ変わったな。なんかすっげ、可愛いいぞ」

林田という男子生徒が開けっぴろげに言った。

照れる台詞をあまりにおおらかに言われて芹菜の頬が染まった。

思わず俯いてから顔を上げて、はにかんだ笑みを浮かべて「林田君、ありがとう」と言った。

「芹菜ぁ、あんたねぇ、こんなチンケなクラスの男子相手に、魅力振り撒き過ぎだって」

三年になって同じクラスになった黒木真由が呆れて言った。

林田は、「チンケとはなんだよぉ」と、むくれている。

魅力などありはしない。林田の勘違いに過ぎない。
真帆パワーが、みんなの中に残っているだけだ。

芹菜はそう思って苦笑した。

「おっ、宮島、おはよっす」

芹菜は思わず教室の入り口に振り返った。

大成の姿を見つけて息が止まった。
苦い思い出がまざまざと蘇った。

まるで、あの時にタイムスリップしたような感覚に襲われた。

入れ替わっていた時のすべてが夢のように感じた。

誠志朗に淡い恋心を抱き、大成に手紙を託した。あの時に…

だが、それは一瞬だった。

いま、芹菜の中で、誠志朗はけして消せない存在になってしまっている。

「楠木、なんだよー、大成となんかあったのかよ」

「えっ」

「恋心バンバンって感じだったぞ。目から熱いハートビームが…」

芹菜はくすくす笑い出した。

「ありえないから」

芹菜は立ち上り自分の席に着いている大成に近づいていった。

「宮島君、おはよう。夏休みはごめんなさい。せっかく電話まで掛けて誘ってもらったのに」

「や、やあ…おはよう。こちらこそ、悪かったなと思ってたんだ。あいつらがあんまりうるさくってさ」

なぜかかなり戸惑っている表情だ。

芹菜は首を傾げた。

「わたし、何か変なことでも言ったかしら?」

「いや、だって、ずっと呼び捨てにしてたじゃないか、僕のこと。悪い意味で言うと下僕みたく」と苦笑いしている。

芹菜は、胃の辺りをどんと突かれたような衝撃を受けた。
マジでふらりと倒れそうになった。

「ごめんなさい。もうけして呼び捨てになんかしないから、許してもらえる?」

申し訳なさに縮こまって芹菜は言った。

真帆の置き土産に、こんなものまで含まれていたとは…

いったいどんな顔をすればよいのか困りあぐね、彼女はしょげ返って俯いた。

「君、以前の君に戻った…みたいに見える」

芹菜はその言葉に柔らかに微笑んだ。
そして深く頷いた。

「そうなの、元に戻ったの。事故のせいで頭打っておかしくなってたけど、一学期の私は私じゃなかったのよ」

芹菜は微笑みながら、素直に言葉にした。

芹菜の後ろで二人の会話を聞いていたらしい集団が、芹菜の言葉に大爆笑した。

彼女は俯いて小さく笑った。
やはり、信じてはもらえないようだ。

すぐにホームルームが始まり、始業式が行われ、学期始まりだというのに午後から二時限、通常の授業があった。

帰り支度を始めて教室を出た芹菜に、大成が声を掛けてきた。

「靴箱まで一緒に…いいかな?」

芹菜は了解の印に頷いた。
並んで歩きながら大成が言った。

「君は以前とは、やっぱり違うよ。そのスカートとかさ。でも、ああ言ってもらえて嬉しかったよ」

芹菜は大成の声に、誠志朗の声を重ねて聞いていた。

顔も体格も良く似ているふたりだから、その声もとても似通っている。

「君の態度、けっこう気持ち的にきつかったから」

大成はそう言って一度息をついた。

「君が変わったのは僕のせいだ」

芹菜は顔を上げて大成をじっと見つめた。

「誠志朗兄さんの手紙のことあって、その日君が事故に遭って。…退院して来た時、君は劇的に変わってた。だからそうとしか思えなくて。僕は君を取り返しがつかないくらい深く傷つけてしまったんだって…」

芹菜は立ち竦んでいるばかりで、苦悩している大成になんと言えばいいのか分からなかった。

「だから、呼び捨てにされても、仕方ないと思ってた」

「たしかに、とても傷ついたわ」

芹菜はためらいがちに口にした。

大成が顔をゆがめたのを見て、芹菜は急いで続けた。

「でもね、それは宮島君のせいじゃない」

芹菜は大成に正面から向き合った。

「わたしこそ、こんなに長い間、宮島君を苦しめてたなんて知らなくて…本当にごめんなさい」

「あ、いや」

大成が黙りこくった。
まだ胸にわだかまるものがあるらしい。

芹菜は窓から外を眺めた。
まだ暑い日ざしが、夏を忘れさせまいとして頑張っている。

廊下から人影がすべて消えた時、大成が言いにくそうに口ごもりながら言った。

「あの手紙」

芹菜は視線を大成に戻した。

「渡してないんだ。誠志朗兄さんに…」

「えっ?」

芹菜は、衝撃に目を見開いた。

「渡せなかったんだ、どうしても。誠志朗兄さん、君の事を全然覚えていなくて…。手紙を渡す前に確かめたんだ。君のこと覚えてるかって…。兄貴、『制服着てたよな、でも顔までは覚えてないな』って言ったんだ」

「そう…」

やはり、誠志朗は彼女のことを、覚えていなかったのだ。
そしてあの手紙も、彼に渡ってはいなかったのか…

「手紙は?捨てた?」

「いや、まだ持ってる。とても捨てられなくて」

「それなら、返してくれる?私が自分で処分するから」

「わかった」

大成がはっきり分かるほど安堵の吐息をついた。

芹菜は胸が痛んだ。

たった一通の手紙のせいで、こんなにも長い間、辛い思いを引きずらせてしまったとは…

「明日持ってくる」

芹菜は頷いて歩き出した。
数歩歩いてから、もう一度大成に振り返った。

「あれ、礼状だったの。去年の文化祭の日の二日目、宮島君休んだでしょ?その時ビンゴの景品、コロッケパンだったけど、それを持ってあなたの家に行ったの」

大成が思い返すように頭の片側に手を当て、そして眉を寄せた。
覚えていないようだ。

「その時、お会いしたのよ。お兄様に。少しお話して、花が綺麗だって言ったら、ビオラの鉢植えを下さったの。…そのお礼に、映画の優待券を差し上げようと思っただけなの」

言葉が無意識に哀しげになったが、芹菜は気づかなかった。

「だから、宮島君が気に病む必要なんて何も無いのよ。私は事故でちょっとおかしくなっただけ。宮島君こそ、そんな私の被害者になってしまって…私の方が謝らなくちゃいけない立場だわ」

「それなら、今からでも兄貴に渡しておくよ」

芹菜は慌てて首を横に振った。

「もう必要ないわ。私に返して欲しいの。宮島君、お願い」

思わずすがりつくような言い方をしてしまい、芹菜は唇を噛んだ。

「君、やっぱり…」

芹菜は諦めて小さく笑った。

「そうね、淡い恋してたかも。…あれは本当に礼状だったけど…それは認めるわ。だから返して欲しいの」

大成が頷いたのを見て、芹菜はほっとして大成に微笑みかけた。

別れの言葉を言うと、彼女は少し早足でその場を離れた。

下駄箱の辺りで、由梨絵が待っているに違いない。

「楠木さんっ」

走って追いかけて来た大成が、また横に並んだ。

「言った方がいいのか、わからないけど…。誠志朗兄貴、もう彼女がいる」

「そう」

芹菜は、思わず目を閉じた。

心が震えて、彼女は唇をぎゅっと引き結んだ。

そんな芹菜の表情を誤解したのだろう、大成が痛ましげな目で彼女を見つめ、こう言った。

「手紙は返す。明日、必ず持ってくるから」




   
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