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その34 腰砕け
翌日、芹菜は熱を出して学校を休んだ。
どうも本当に夏バテになっていたらしかった。
なかなか引かない高熱に喘ぎながら、朦朧とした意識で誠志朗の夢ばかり見ていた。
熱は二日で引いたが、体調は不完全で結局三日も休むことになった。
三日目の昼間、昼休みを利用して母親が戻って来て、わざわざお昼ご飯を作ってくれた。
「もう良かったのに。熱も引いたし、自分で作って食べたのに」
「無理しないの。あんな高い熱出して苦しんでたくせに。受験生なんだからもっと身体をいたわらなきゃ駄目よ。ところで…」
作ってもらったおじやを、エアコンの効いた居間でふぅーふぅー言いながら食べている芹菜に、母親が爆弾を落とした。
「誠志朗さんって、だあれ?」
芹菜はレンゲの上に乗っていたおかゆを、ものの見事に吹き飛ばした。
「まあ、芹菜ってば、やあねぇ」
ティッシュを取って吹き飛ばされたご飯粒を集めながら、悦子はくすくす笑っている。
「な、な、な…」
「なんでって言いたいわけね。うわごとで何度も口にすれば、耳にも入るわよ」
「信じられない」自分が、と心で付け加えた。
「もしかして、付き合ってるの?」
芹菜はコキンと固まった。
そんな彼女を、悦子は心配と喜びと愉快さが相まった複雑な表情で見つめている。
レンゲを置いて、しばらく思案した挙句、芹菜は話した。
「私、嘘ついちゃって…彼に。本当のこと言って謝らなきゃいけないんだけど。どうしても言えなくて…」
「なんで言えないの?」
芹菜は口ごもった。
母親をちらりと見ると、芹菜を見つめて返事を待っている。
「嫌われたくないから」芹菜は呟くように言った。
悦子がうーんと首をひねった。
「あなた、見くびってない」
芹菜は「見くびる?」と唇を動かしながら母親と視線を合わせた。
「謝っても許してくれない。嘘ついてたことが分かったら、嫌われるって思ってるんでしょ?そんなひとなの、そのひと?」
芹菜は唇を噛んだ。
「早く仲直りしなさい。…そのうち、彼に逢わせてちょうだいね」
そう言い置いて、悦子は学校に戻って行った。
見くびっているという言葉は、ずいぶんと痛かった。
芹菜は両手で顔を覆ってソファに深く凭れた。
六時過ぎたばかりだというのに、真っ黒な雨雲が空を覆い始め、あたりはすっかり暗くなってしまった。
少しずつ雷の音が近づいてくるようだ。
雷の嫌いな芹菜は、窓から空を見つめていたが、強烈な稲光が発した途端、カーテンを閉めた。
部屋の照明をつけ、椅子に座って携帯を取り上げた。
それから三十分ほども彼女は『掛けるのよ、掛けなきゃ』と自分を激励し続け、膨らませた義務感の力だけで電話を掛けた。
芹菜の怖れも知らず、無情に呼び出し音が鳴る。
彼女は必死で電話を切りたがる気持ちを抑えた。
三回、四回とコールが鳴り、もし七回鳴っても彼が出なかったら、電話を切ろうと決めた。
芹菜は息を止めていた。
七回鳴るまでの時間があまりに長すぎて、背中が軋るほどに緊張しているのを感じていた。
「芹菜ーっ、真帆さんがいらしたわよー」
階下から大声で呼ぶ母の声に、芹菜は慌ててしまい、思わず携帯を切っていた。
切ってしまってから、小さな後悔がふつふつと湧き出し彼女を責める。
真帆が突然にやってきたことには驚くこともなかった。
彼女の行動はいつだって突飛なのだから…
タイミングの悪さに泣きたくなった。
電話を掛けてしまったから、もしかしてすぐにでも彼から電話が来るかもしれない。
もし、真帆を含めたみんなの前で電話が掛かって来たら…
そそくさと皆の前から離れて電話に出たような状況では、今の芹菜の気持ちを含めたすべてを誠志朗に話すなど無理なことだろう。
「芹菜ってば、早く降りてらっしゃいっ」
少しきつめの声が飛んできて、芹菜は携帯とドアを交互に見て迷い、携帯を机に置いて、階下へと降りて行った。
部屋から出たところからすでに、携帯を置いてきたことに不安が湧いていた。
なぜか真帆はまだ玄関にいた。
母親は台所に下がったのか真帆ひとりだ。
「真帆さん、いらっしゃい。どうして上がらないの?外、雨降ってきた?雷が鳴ってるのに運転するの怖くなかった?」
「まだ、雨降ってないわよ、今にも降りそうだけど。それより、連れがいるのよ」
そう言うと、真帆が玄関のドアの向こうに頭だけ出した。
「お望みの彼女と、久々のご対面よ」
真帆が頭を元に戻すと、入り口にひとりの男性がすっと入って来た。
「透輝!」
帽子とサングラスを外し、彼は輝く笑みを浮かべて、「やあ、芹菜」と言った。
前に会った時から呼び捨てにされていたけれど、場所が自宅だからか、芹菜はものすごい違和感を感じた。
楠木の玄関先に、あまりに不似合いすぎる、超ビジュアル系の俳優…
真奈香の部屋のドアに張られた藤城トウキのポスターが、ここに移動したような感覚しか湧かない。
「どうしてそんなに驚くかな。ともに過ごした時間は数え切れないほど…いてっ」
透輝は真帆に額を叩かれて、楽しげにくすくす笑った。
「もう、その口なんとかなんないの?」
「なんともなんない」
そう言った途端、透輝は芹菜をぎゅっと抱きしめた。
固まって口をパクパクさせている芹菜に、透輝が言った。
「なんか俺の中で、真帆の分身って感じなんだよなぁ。この反応とか」
「透輝ってば、あんまりふざけてると追い出されちゃうわよ」
真帆に叱られ、愉快そうに笑いながら透輝は芹菜を開放した。
「芹菜っ、紅茶入ったわよ。早く上がってもらいなさいな。それと真奈香も呼んであげてちょうだい、たぶんあの子、寝てると思うのよ」
「お母さん、紅茶もう一人分追加して。真帆さんの…」
芹菜はそう言ってからふたりを見た。
「なんて紹介すればいい?婚約者って言ってもいいかしら?」
芹菜は早口にたずねた。
「構わないよ」と透輝が嬉しそうに言った。
真帆は少し顔をしかめている。
芹菜はにこっと笑って台所に向けて叫んだ。
「真帆さんの婚約者の方も一緒だから」
ドタドタドタという音とともに母親が出てきた。
「まあ、真帆さんの…」
そこまで言って悦子が固まった。
ありえないものを見るように、透輝を見つめている。
「二人ともあがってて。私、真奈香を…うーん」
階段に向かおうとした芹菜は足を止めて、真帆にどうしようと視線を向けた。
「真奈香ちゃん、喜ぶか、悲しむか、分からないわね」
「真奈香ちゃんって、芹菜の妹?」
「そう、あなたの大ファンなの」芹菜はため息混じりに言った。
「それなら、逢わないほうがいいかもな。イメージ壊しても可哀想だし」
苦笑して透輝が言った。
「よく分ってんじゃない」
真帆が小馬鹿にしたように言うと、透輝が少し傷ついた顔をした。
芹菜はまだ現状に追いつけていない母親の肩をポンと叩き、居間に向かった。
真帆と透輝も付いて来た。
「真帆さんってば、その憎まれ口、少しは控えないと。真帆さんに悪意がないと分かってたって、言われたら透輝だって傷つくのよ」
居間に入りながら芹菜は、いささかきつく諌めるように言った。
「そんな、怒んなくったっていいじゃない。分かってるわよ」
ふたりにソファを勧めて、腰掛けたのを見届けてから、芹菜は反対側に座り、ポットから紅茶を注いだ。
母親がやって来ないのが気になったが、真帆に言ってやりたかったことを思い出して彼女をじろっとねめつけた。
「分かってる? どこが? その口の悪さを直す薬とかあれば、今すぐ飲ませてあげたいわっ」
芹菜はそう忌々しげに言うと、カップを「どうぞ」と言いながら二人の前に置いた。
なぜか透輝は瞳を輝かせて、賞賛するように芹菜を見つめている。
芹菜は眉を寄せた。
「あんたねぇ、何もそこまで言うこと…」
カップを持ち上げながら真帆がひどく不満そうに言った。
芹菜は、さりげなく切り出した。
「宮島君を、下僕のように呼んでいたそうですね」
紅茶を飲もうとしていた真帆が「うぐっ」という叫びとともに、凍りついた。
「彼、ひどく辛かったみたいです。わたしも、彼になんて謝ればいいのか…あまりに申し訳なくて…」
「あ、あの子が…宮島の弟だったもんだから…」
芹菜はじっと真帆を見据えた。
真帆がぞっとしたように顔を伏せた。
「気持ち良かったのよぉ。だってあの子、宮島にそっくりなんだもん。さんざん見下されてた反動が出ちゃったというか…ねっ」
顔を上げて、同意を求めるように言われ、芹菜の怒りが増した。
「真帆さん!」
真帆がびくーんと震えた。
真帆の隣に座っていた透輝がやおら立ち上がり、芹菜の側にやって来て座り込んだ。
「事情は良くわからないが、まあ、身から出たさびってやつのようだな。俺としても、助けてやりようがない」
真帆の頬がぷーっと膨れた。
その顔に、芹菜は笑いのつぼを刺激され、堪えきれなくなった。透輝も声を合わせて笑い出した。
ズダダダダっと、ものすごい勢いで階段を駆け下りてくる足音が響いて来た。
芹菜はハッとして真帆と視線を合わせ、その一瞬後、真横に座っている透輝と顔を見合わせた。
バターンという大きな音とともに、真奈香が現れた。
真正面に座っている真帆を見つめ、真奈香は脱力感に見舞われたように、頭をガクリと落とした。
それから「ウキーッ」と奇声を上げながら、地団太を踏み始めた。
「ああん、もうもうぅぅ、騙されたー、くやしー」
「真奈香」
芹菜の声に、真奈香がムッとした顔を向けて来た。
透輝と目が合ったらしい真奈香の顔から、あらゆる表情が抜けた。
「やぁ」と片手を上げた透輝から、輝く微笑を向けられた途端、真奈香の腰は砕けた。
透輝の存在を現実としてなかなか受け入れられない真奈香と母親のために、真帆と透輝は一時間ほどで帰ることになった。
ふたりを送るために一緒に外に出ると、先ほどまで騒音のようにうるさかった雨脚も弱まり、傘が必要ないくらいの小降りになっていた。
「それじゃ、明日は絶対に忘れないように来るんだよ、芹菜」
透輝にそう強く念押しされて、芹菜は困った。
なんだかよく分からないが、一週間くらい前に透輝から電話があって、エキストラなるものを頼まれたのだ。
「でも、エキストラなんて、私」
「大丈夫。歩道をまっすぐ歩くだけで良いんだ。それだけのことで、バイト代は滅茶苦茶良いはずだから。お小遣い稼ぎにおいで、真帆も一緒だし、なっ」
「簡単そうだし、小遣い貰えるならいいじゃないの。芹ちゃんのお小遣い、あまりにも小額だし」
「真帆さんってば、そんなに少なくないわ」
真帆は芹菜の言葉などまったく聞いていないようだ。
顎に人差し指をあてて、思案顔をしている。
「場所があそこだっての、なんか因縁感じるわね」
そう言われれば、ちょっと不思議な気がする。
芹菜と真帆が入れ替わってしまった歩道橋の近くの歩道が、撮影現場だというのだ。
「あそこの辺り、建物の立ち並ぶさまが画像的に綺麗なんだってさ。明るすぎず暗すぎず、邪魔になる看板もあまりない。それに君らが入れ替わったあの歩道橋も、あの風景に浮くことなくぴったりマッチしてるとかって。なんだか言い過ぎだろってくらい監督は絶賛してたよ」
透輝は思い出しながら言いつつ、笑いながらも呆れたような顔をしている。
「明日は、九時に真帆が迎えに来る。真帆、本当に頼んで大丈夫か?スタッフに頼んでもいいんだぞ」
「なによ。私のこと信用出来ないとでも言いたそうね」
「撮影ってのは、少しでも遅れると、ほんと困るんだよ。日差しとか、かなり詳細に考えてあったりするから。今回はコマーシャル用の映像だから、尚更映像の出来は大事なんだよ」
「あの、私…自信ないし、やっぱり」
「ダメダメ。大丈夫だから。カメラも遠い位置に据えて撮るから、どこから撮ってるかも分からないくらいだよ。ただ普通に歩けばいいだけ、簡単、簡単」と、透輝は前に言ったのと同じ台詞を繰り返した。
「それじゃ、明日の仕事無事に終えたら、真帆と三人でデートしような」
車に乗り込む直前、透輝はそんな冗談を言って帰って行った。
透輝の強引さに負けて承諾してしまったが、やはりエキストラなんて気が重かった。
熱がもう一日続いてくれれば良かったのに、と芹菜は肩を落とした。
ふたりがいなくなったことで普通に戻った真奈香は後悔を募らせ、母親はちゃんとしたもてなしが出来なかったと悔しがった。
芹菜は、真奈香と悦子の愚痴を仕方なく聞いていたが、父親が戻ってくると勝手にバトンタッチして二階に駆け上がった。
本当はもっと早く部屋に戻って、携帯を確かめたかった。
誠志朗からの着信が何件も入っているかもしれない。
携帯を手にした芹菜は、期待を裏切られてその場に座り込んだ。
着信の表示は一件。だが、不在着信の主は、誠志朗ではなかった。
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