君色の輝き
その4 記憶の混乱



もがいてももがいても、意識の底に沈んだまま、浮き上がれない気がした。

点滅する光。靄の中に揺らいでいるような感覚。

耳に入る音もあやふやで、彼女の世界に確かなものは何もなくなってしまったようだった。

いったい、どのくらいこうしているのだろう…
わたしの体はどこに行ってしまったんだろう…

諦めた時には、いつも眠りが訪れた。
彼女は、この瞬間が一番好きだと思った。





「まったく、ここの医者はヤブばかりだ」

鋭い声に芹菜はぎょっとした。

頭が酷く痛かった。

痛みに声を上げたつもりだったが、口からはなんの声も出せなかった。
声どころか、口を開くこともできない。

芹菜は、ぐっと力を入れて瞼を引き剥がそうとしたが、こちらもどうしても開かなかった。

ため息をついたとき、潜められた声が聞こえた。

「あなた、大声出さないで、外に聞こえますよ」

上品そうな女性の声。誰の声だろうか?

彼女はもう一度瞼をこじ開けようとした。

ようやく光が見えた。けれど、ひどくまぶしく、反射的に瞼が閉じてしまう。

「くそっ、移動させられるものなら、ここよりもっといい病院に替えてやれるのに…」

忌々しげな男性の声に、芹菜の神経がきりりと軋んだ。

この男性は誰だろう?
その声の響きには、明確すぎるほどの苦悩が含まれている。

間をおかず、大きな靴音が響き始めた。

部屋の中を歩き回ってでもいるのか、靴音は遠のいてゆかない。と、その音にヒールの音が重なった。

「何処に行くんだ?」

吠えるような声が飛んだ。

「分ってらっしゃるくせに。…予定が詰まっているんですよ」

「仕事なんかよくやってられるな。こんな…こんな時に。たいした母親だよ、お前は」

気持ちを落ち着かせようとしてか、女性は大きく息を吸った。
震える声が続く。

「付き添う間、罵ったりばかりしないでくださいね。私だったら意識を取り戻すのを止めたくなりますよ。5時間ほどで戻って来られると思います。そうしたら交代しますから」

「戻って来なくていい! この子の付き添いは私ひとりでやる」

ヒールの音が遠のく。
芹菜の意識も遠のき始めた。

ドアが閉まる音、男性の更なる罵りの声が、遥か彼方で響く。





瞼を暖かなものが優しく触れている。
そのまま首筋、肩、腕と撫でてゆくぬくもりは、とても心地よかった。

芹菜は瞼を開け、眩しさに目を細めた。

目の前に誰かの背が見えた。
少しして、こちらにゆっくりと振り返った。

きれいなひとだ。この人は誰だろう?

よく考えたら、見覚えがあった。

母だ。

ふと浮かんだ思いに、戸惑い、そんなわけないと否定する。

その人は真っ白なタオルで、芹菜の指の一本一本をゆっくり丁寧に拭いてくれていた。

芹菜の視線に気づいた途端、その人の体がビクンと揺れた。

「真帆、まあ、真帆、意識が戻ったのね?」

真帆(まほ)? 

芹菜はきょとんとした。

慌ててナースコールを取り上げて、看護婦に連絡する。
驚くほどの速さで、医師と看護婦数人がやってきた。

初めはいろいろと質問されたが、彼女の声が出ないのが分かると、誰も話掛けて来なくなった。

そして、検査が終わると、医師と看護婦は、潮が引くように去って行った。

残された芹菜は、恐れおののいていた。
言葉も話せなければ、手足も動かない。

芹菜の恐怖を感じて、その人は触れるほど近くに寄り添い、額をやさしく撫ではじめた。

「大丈夫よ、大丈夫。少しずつ良くなってゆくわ、真帆」

彼女の身を案じてくれるひとがいることに、深い安堵を覚えたものの、芹菜の恐怖と混乱は去らなかった。

この人は、渡瀬由希子(わたせ ゆきこ)
そして、私の母?

いや、違う違う。そうじゃない。

考えれば考えるほど、混乱が増してゆく。

私はどうしてしまったのだろう?

芹菜はその女性をじっと見て、ハッと気づいた。

そうだ。この人は、峰岸雪子(みねぎし ゆきこ)だ。女優の…

なぜこの人がここにいるのだろう?

その問いに、彼女の脳が答える。母だから…

混乱した芹菜を酷い眩暈が襲う。

きつく目を瞑ると、この不思議な現実から逃れるように、彼女は眠りの中へと落ちていった。





眠れば、確実に目覚めが来る。

芹菜は自分と、なぜか渡瀬真帆の記憶を持っていた。

唇の麻痺は次第に良くなり、数日経つと片言ならば話せるようになった。
手足の痺れも、日増しに良くなってゆくようだった。

だが、回復してゆく体に反比例して、芹菜の心の混乱は増幅してゆくばかりだった。

「今日から流動食が食べられるのよ。良かったわね」

優しい声に、彼女は頷いた。
口元に近づけられたスプーンから熱い重湯を啜る。

「どう、おいしい? 真帆」

「はい」

芹菜が声を出して返事をするたび、これ以上ないくらい喜んでくれる。

芹菜は、口に含んだ重湯をゆっくりと味わいつつ目を閉じた。

私は楠木芹菜だ。
だが、真帆と呼ばれると、そんな気もした。

この曖昧な感覚はなんなのだろう?

まるで、2人の人間がひとりに結合したような、そんな感じにも思えた。

彼女は、恐ろしくてずっと言い出せないでいた言葉を、覚悟を決めて口にした。

「お…母様…鏡、見せて」

芹菜の言葉に軽く頷くと、由希子は持っていたお椀を置いて立ち上がった。

バッグから手鏡を取り出して来ると、芹菜の顔が写るような角度に向けてくれた。

手鏡を向けられた瞬間、芹菜はぎゅっと目を塞ぎ、ぐっと全身に力を入れてベッドに沈み込んだ。

全身が硬直したように強張ばった。

「心配いらないのよ。傷もすっかり癒えて、ほとんど痕は残っていないわ」

息を詰めていた芹菜は、大きく喘いだ。

見たくなかった。
それでも見なければならないと分かっていた。

答えは初めからわかっていた気がする。
そこに写っている顔は、芹菜ではない。渡瀬真帆だった。

彼女の全身に強烈な震えが走った。恐れで震えが止められない。

「真帆、真帆、どうしたの? 大丈夫? すぐにお医者様を呼ぶわね」

芹菜の異常な震えに驚き、由希子が慌てて立ち上がった。

「いいの!」

思わず強い叫びをもらしてしまう。

芹菜は目を閉じ、自分をなだめるように何度も大きく息を吸った。

「お医者様はいいの。それより、もう一度鏡を見せて」

見なければならなかった。
この現実を認めなければならない。

彼女の精神が崩壊する前に…





「お礼が言いたいの。お父様、彼女を呼んでくれる?」

芹菜は、父に言った。
彼は渡瀬健吾(けんご)、真帆の父だ。

この1ケ月、混乱と向き合って、彼女は落ち着きを取り戻していた。

彼女は芹菜だ。真帆ではありえない。
けれど、いまの彼女は、真帆の体の中にいる。

答えはひとつしかなかった。
あの時の衝撃で、ふたりは入れ替わったのだ。

馬鹿馬鹿しい。
そう思う。
けれど、その馬鹿馬鹿しいことが、この身に起こったのだ。

「ああ、すぐに連絡を取ってあげよう。あの子からも一度お見舞いに来たいとずっと言われていてね。お前の調子が良くなったら来てもらおうと思っていたんだ」

彼女の方は、3日ほどの昏睡状態の後、意識が戻り、3週間ほど入院して退院して行ったらしい。

芹菜は、意識が戻るのに1ケ月かかってしまったから、事故の日からすでに二ケ月あまりが過ぎていた。

「本当はこちらから伺わなくちゃならないんだがなぁ」

思案顔で健吾は言った。

芹菜は、命の恩人ということになっている。
歩道橋の階段から落ちそうになった真帆を、体を張って助けようとしてくれた。と。

「ちゃんと、お礼を言うわ」

芹菜は力強く請け負った。

早く逢いたかった。
自分の存在を確かめたかった。




   
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