君色の輝き
その5 深夜の見舞い客



潜められた声に、彼女は眠りの中から連れ出された。
ぼんやりとした頭でゆっくりと瞼を開く。

「真帆」

万感の思いを込めた喘ぐような囁き。

「真帆」

薄暗い部屋の中、彼女に覆いかぶさるようにしている人影に気づき、彼女の眠気はいっぺんに吹き飛んだ。

短く息を吸った芹菜は、喉の奥で「ひっ」と引きつったような叫びを洩らした。

「落ち着いて、俺だよ。真帆」

声がなだめるような響きに変わった。

震える指が、彼女の額をなぞっている。
どうやら、彼女が目覚める前から、ずっとそうしていたらしい。

「こんなことになってるだなんて…ちっとも知らなくて。ちくしょう。…真帆ごめんよ」

感情がせめぎ合っている様子で、掠れた声も震えている。

彼女は自分のあまり感覚のない手を、ぎゅっと握りしめられていることに気づいた。

「昨日、知ったんだ。真帆が事故に遭ったって。ああ、君が死にそうになってたなんて…」

これは夢に違いない。
人気俳優の藤城トウキが、この場にいるはずがない。

額を撫でられている感触を無視して、そう自分に言い聞かせる。

頭を酷く打った後遺症が、今頃になって出てきたのだろうか?

「…これは…、夢よね?」

彼女は怯えを滲ませたまじめな顔で、幻想に問い掛けた。
トウキは、微笑みを残したまま、辛そうな目を向けてくる。

「そうじゃないさ、ほら、夢じゃないだろ」

彼女の手の甲に、そっと唇を触れる。

「ほとんど感じないの」

「なに言って…」

彼がはっと喘いだ。
手の不自然さに気づいたのだ。

「か…感覚がないのか?」

「これでも良くなったんです。事故後は全身だったから。やっとここまで回復したの」

彼女は、彼の前に両腕を持ち上げて見せた。

手首から先が、だらりと垂れている。

それを目にして、彼は苦しげに息を吐き、彼女の両手をそっと自分の震える手で包み込んだ。

芹菜はそれを困惑して見つめた。

「あなた、本当にトウキなの…? あの藤城トウキ? 俳優の…?」

「今度は、俺を忘れたなんて言い出すつもりじゃないだろうな。君らしいけど、こんな時に冗談はやめてくれよ。俺のヤワな心臓がもたないよ。からかうのは無しだ。いいね」

芹菜は、じっと考え込んだ。
そうすると、真帆の記憶の棚から必要な情報が取り出せる。
もちろん、いつもではないが…

大量の情報が押し寄せてきた。
この人は、藤城透輝(ふじしろ とうき)…渡瀬真帆の婚約者だ…

「記憶がとても曖昧なんです。ごめんなさい。すぐに思い出せなくて」

「冗談…てことじゃなくて…」

透輝は息を止めたまま、押し殺したような声で言った。
彼女はこくりと頷いた。

「信じられない。それでか…まったく連絡がなかったわけだ」

溢れてくる苦悩を押さつけるかのように、彼は両手で頭を抱え込んだ。

「まさか、俺のこと…、何も覚えてないのか?」

「いえ、そんなことはありません。きっかけさえあれば、思い出せます」

でも、と芹菜は続けた。

「別れたんですよね。あなたと未莉華との熱愛発覚報道があって…、携帯で電話して…一方的だったけど」

「そうだ。一方的だった。酷いよ、真帆。君だって、あんな報道、嘘だって分かってたはずなのに。…俺のこと、もう愛してないなんて、絶対嘘だよな」

芹菜は真帆の記憶をさぐった。

「そうですね。嘘だと思います」

「なんだその言い方。他人事みたいに言うなよ」

「ごめんなさい。初めに言ったように、記憶がとても曖昧なんです。自分でもどうしようもなくて…」

芹菜は申し訳なさを込めて答えた。

「わかった。まだ体が元通りじゃないんだものな。ごめん」

透輝もまた、申し訳なさそうに微笑んだ。

心臓を止めてしまいそうなまぶしい笑顔と、うっとりとさせずにおかない、さわやかでよどみない声の響き…

それに、愛のエッセンスを混ぜたような甘さが、オーラのように彼の全身から滲んでいる。

トウキとおしゃべりしたと真奈香に言ったら、うらやましがるどころか口も聞いてくれないくらい怒るだろうなと考えて、芹菜は笑った。

「真帆」

ふと気づくと、透輝の顔が近づいてきていた。
芹菜は慌てて腕を持ち上げ、口を覆った。

いくら自分の体じゃないとしても、意識が芹菜なのだから、ここで初めてのキスを彼に奪われたくはない。

キスを拒まれて、彼はぷぅっと頬を膨らませた。

映像の中ではクールな二枚目役が多い彼の、そのかわいらしい表情に芹菜は苦笑した。

その笑いを見て、透輝の頬がさらに膨れた。

真帆の両親はふたりの婚約を認めていない。
透輝は昨日、友人に頼んで真帆の自宅に電話し、家政婦から彼女の事故のことや入院していることを、やっと聞き出せたのだという。

透輝は真帆の携帯はもちろん、家にもずっと電話を掛け続け、花や手紙も送っていたらしい。

「俺、真帆の親父に嫌われてるからな。きっと処分されたんだろうな」

透輝は強ばった顔に、少しの怒りと寂しさ滲ませて言った。

家を訪ねても真帆はいないの一点張り。
2週間ほど前には、彼女の勤める会社にまで逢いに行ったという。

「いま考えたら馬鹿みたいだけど…。だんだん打つ手がなくなって…、俺も必死だったんだ」

透輝はそう言うと、口許をほころばせ、ひそめられた笑い声を洩らした。

「全身黒ずくめでね。物陰に潜んで会社から出てくる君を待ち伏せしてたんだ。みんなからじろじろ見られて、…俺だって気づかれるんじゃないかとひやひやしたよ。足の先は凍えて冷たいし、最後には妙に馬鹿でかい男が出てきてさ、眼光鋭く睨み付けてくるし…」

透輝がその男の顔を真似て見せ、芹菜も口許を押さえてしのび笑いを洩らした。

時刻はすでに、午前2時をまわっていた。

彼は救急の入口から人目を盗んで忍び込んできたと言い、その時の模様を笑いを混ぜて説明してくれたが、彼がどれほど真帆に会いたかったかを如実に物語っていて、芹菜の胸をジーンとさせた。

帰り際、脳裏に焼き付けようとするかのように、透輝は彼女の、真帆の顔を食い入るように見つめた。

それから、魅入られたように、彼女の唇に視線を当てたものの、頬に軽く手を触れただけで、時間が取れ次第逢いに来ると言って帰って行った。





透輝が帰った後、暗闇で芹菜は誠志朗のことを考えていた。

彼のことは、これまで故意に思い出さないようにしていた。
真帆の記憶から、彼の情報を知るのが恐かった。

彼は真帆の婚約者ではなかったのだ。
芹菜はそのことに心の底からほっとしていた。

彼が今日には会いにくるのではないか…そればかり恐れていた。

でも、考えてみれば、すぐにわかったはずのことだ。

婚約者だったなら、真帆の両親の口から彼のことが出ないのはおかしなことだったし、病室にも現れないわけがなかった。

真帆の記憶によると、誠志朗との関係は、婚約者どころかその逆で、ふたりは犬猿の仲だったようだ。

ふたりは同じ会社の同じ部署に勤めている。
その会社の社長が、真帆の父、渡瀬健吾だ。

誠志朗のことをとても気に入っていた健吾は、社長という立場を利用して、娘を彼と同じ部署にしたのだ。
毎日顔を合わせていればもしかして、と考えて…

透輝を愛している真帆は、父親の企みを知っていたものだから、誠志朗に露骨なほど反発していたらしい。

会社を休むと、その分だけ小遣いが減らされていたらしく、芹菜はその記憶に苦笑した。

真帆という女性は、ものすごく金遣いが荒い。
お金持ちのお嬢さんだから仕方ないのかもしれないが…

それでも、お金につられて父親の言うなりになっている自分に、ものすごく腹立ちを感じていたようだ。

歩道橋の上での真帆の叫びが蘇ってきて、芹菜は久しぶりに心地よい笑いを洩らした。




   
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