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その9 天使のシャワー
今日はどうしても行けないと真帆から連絡があり、芹菜は暇をもてあましていた。
いつもならば家庭教師をしている時間…
そして、真帆と自分の身体との交流の時…
真帆がそばにいると、無条件で安堵感が湧く。
なぜかは分からない。
参考書に屈みこんでいた芹菜は「あっ」と叫んで顔を上げた。
いま思い出した。
今日は誕生日だ。私の…芹菜の…
自分の知らないところで、17歳になる自分がいるのか。と、ひどく淋しく思った。
それならなおのこと、今日は来て欲しかったのに…
そう考えて、気づいた。
今日は家族みんなで、誕生日を祝っての食事会に行っているに違いない。
それで、真帆はあんなに問い詰めても、理由を言わなかったのだ。
そう分かって、芹菜は苦笑いした。
胸がひりついた。
今日に限って、真帆の父も母も来ない。
魂の芹菜のために、誕生日祝いをしてくれる天使でも現れてくれればいいのに、とあり得ないことを真剣に望んでしまう。
芹菜はふるふると首を振り、また参考書に目を戻した。
ドアがためらいがちにノックされた。
どうやっても勉強に集中出来ずにいた芹菜は喜んで返事をした。
「真帆おねえ〜ちゃん」
扉の下の辺りに小さな頭が覗き、遠慮がちな可愛い声がした。
芹菜はにっこり笑った。
数日前、骨折で入院して来た男の子の妹だ。
名前は知耶子ちゃん。苗字は聞いていなかった。
自動販売機の前に佇み、つまらなそうにジュースを飲んでいるところに居合わせた、それから仲良くなった。
「一緒に、あ・そ・ぼ」
こんな可愛い誘いを断れるわけがない。
芹菜は、知耶子の笑顔にあったかなものをもらい、笑みを浮かべてベッドから車椅子に乗り換えた。
まだようやくといった感じだが、こうしたことも出来るようになったのが嬉しかった。
それでも本を捲るのはまだまだ難しい。
乱雑に散らかったテーブルの上を見つめて、芹菜は、まあいっかと、ドアの前で待っている可愛い友達の元に向かった。
ナースステーションの前にある少し広い場所には、自動販売機と観葉植物で囲んだスペースに、テーブルと椅子が置いてある。
ちょっとした憩いの場だ。
芹菜の祖母くらいの前里が座っていて、にっこり笑って挨拶を返してくれた。
前里はすぐに立ち上がり、芹菜の膝に乗せられていたお財布を預かると、二人分のジュースを買ってくれた。
彼女の缶を開けて、いつものように飲ませてくれる。
このぬくもりはとても心地よかった。
「知耶子がやるっ」
芹菜は微笑んだ。
前里が少し首をかしげて思案している。
芹菜は、前里に無言で頷いた。
一生懸命背伸びをする知耶子の態勢を少しでも楽にするために、芹菜は前かがみになって唇を寄せていった。
すでにかなり飲んでいたし、傾け方が足りなくて、ジュースは口に入らなかったけど、コクコクと飲む真似をして、「おいしい」と心を込めて言った。
知耶子が、天使のように微笑んだ。
ぷくんとした頬が、なんともいえず可愛い。
誕生日の天使かな…
芹菜はふふと笑った。
「真帆お姉ちゃん、何がおかしいの?」
知耶子が真剣な眼差しで聞いてきた。
「知耶子ちゃんは天使みたいだなと思って」
知耶子の顔がぱっと華やいだ。そのあと、急速に翳った。
「違う。羽ないもん。知耶子、天使じゃないよぉ」
ものすごく無念そうだ。
「でも、お姉ちゃんには見えるよ。知耶子ちゃんの羽。ここに」
芹菜は知耶子の小さな背中に、やさしく手を触れた。
知耶子が目を見開いた。
「ほんと」と、不思議そうに聞いてくる。
「うん。天使の光のわっかもあるし…」
芹菜は、知耶子のつやつやした光沢のある髪を、ぎこちない仕草で撫でた。
「うわぁっ」
感激したのか、知耶子が両手を広げてしまい、手にしていたジュースの缶が、芹菜の膝に転がり落ちた。
掛けていたひざ掛けに、しみが広がった。
「あ」
前里が小さな声で叫んだ。
当の知耶子は驚きで目を見開いている。
小さな唇がふるふるわななきだした。
芹菜は知耶子の顔をそっと覗きこんだ。
「天使のシャワーだね。お姉ちゃん今日誕生日なんだ。これ知耶子ちゃんの素敵なプレゼントだね。ありがとう」
知耶子の目がほっと和んだのをみて、芹菜は微笑んだ。
前里が濡れたひざ掛けを取り上げ、濡れた部分を中に織り込むようにして小さく畳み、車椅子の隅っこに置いてくれた。
芹菜は、笑顔を浮かべ感謝を込めて頭を下げた
「天使のシャワー?」
「そ、天使のシャワーを浴びると、とてもいいことがあるんだって」
「真帆おねえちゃんのいいことって?」
「そうねぇ、私だけの王子様が…救いに来てくれるとか…」と、自分で言っておきながら苦笑してしまう。
「真帆ちゃん」
前里に呼ばれて芹菜は顔を向けた。
「はい?」
「先ほどから、その王子様がお待ちよ」と、クスクス笑いながら芹菜の後方を指差す。
えっ、もしかして透輝?
芹菜は振り返った。
そこに佇んでいたのは、けして彼女の王子様ではなかった。
「誠志朗さん?どうして? あ…」
あまりに意外だったせいで、思わず名前で呼んでしまった。
芹菜は青くなった。
「わぁ、知耶子の天使のシャワー、ほんとうに願い事叶えちゃった」
知耶子は手を叩いて無邪気に喜んでいる。
誠志朗は何も言わない。
芹菜はあまりに気まずくて、顔もあげられなかった。
「ちょっと話がしたいんだが」
誠志朗が固い口調で言った。
芹菜は俯いたまま頷いた。
前里に挨拶して、知耶子にバイバイと手を振ると、誠志朗が車椅子を押しはじめた。
部屋に戻っても、二人とも黙り込んでいた。
こんな進退窮まった気まずさを味わったことはない。
いや、二度目かな。と小さなため息をつく。
「意外だったな」
芹菜はちらりと誠志朗を見た。
仕事の帰りだからだろう、きっちりと背広を着込み、髪を後ろに撫で付けている。
これまで目にした彼とはかなり印象が違って見えた。
大人の壁を、もっと強く意識させられた。
「君にあんな面があるなんて、思わなかった」
あんな面…?
その意味が分からず、彼女は首をかしげた。
「あの、用事って?」
「…」
「あの?」
口を閉ざしてしまった誠志朗を不審に思って、芹菜は顔を上げた。
眉を寄せて、じっと何かを睨んでいる。
芹菜はその視線の先を追ってみた。
テーブルの上の参考書を見つめているようだ。
あんまり散らかってるから呆れたのだろうか?
「片付けようとは思ったんですけど、知耶子ちゃんに誘われちゃって」
その言葉を聴いているのか、誠志朗は無言で開いている参考書を手に取った。
「物理。君が物理?」不思議そうに言う。
芹菜は眉をしかめた。
考えてみれば、社会人の真帆がいまさら物理の参考書で勉強なんて、やはり不自然だろう。
「君が変わってしまったと杉林と成田が言っていた。だが、冗談だと思ってたんだが…」
誠志朗は、そこまで言って口を噤んでしまった。
「いまの私は、傍目から変かもしれません。でも、いずれ以前の私に戻ります」
『きっと』と、芹菜は心の中で強く願った。
「はっきり言って…」
なんとなく、彼の言葉の先は推し量れた。
「戻ります」
被せるように芹菜は言った。
彼女の言葉に含まれた怒りを感じたのか、誠志朗は黙り込んだ。
「用事があるのでしたら、早くすませてお帰りください」
芹菜は冷たく言い放った。
心に無理をしすぎて、肩が震える。
胃のあたりも冷たく冷えていた。
もどかしいほどの沈黙が過ぎて、やっと誠志朗が口を開いた。
「謝罪に来たんだ。この間、君の手足が麻痺しているとは知らずに、失礼なことを多々言った。すまなかった」
彼の声が震えていた。
ものすごい怒りを含んでいるのを感じる。
「あれは私が悪いんです。謝罪は必要ありません」
「…それじゃ、君の望みどおり、消えるとするよ。お大事に」
芹菜は誠志朗の背中を見つめた。
ドアの取っ手を掴んで彼が振り返り、芹菜はそれと気づいてすぐに顔を伏せた。
「おめでとう」
思ってもみなかった言葉に、芹菜はハッとして顔を上げた。
「誕生日なんだろ?」
胸に、急激に熱いものがこみ上げてきた。
芹菜はぱっと顔を覆った。
「帰って、お願い帰って」
涙を見られたくなくて悲痛な叫びになった。
すぐにパタンとドアの閉じる音がした。
魂が求めるものを得られず、痛みを増してゆく。
五分もしないうちに、またドアが開いた。
驚いて顔を上げると、そこに大きな帽子とサングラス、おまけにマスクをつけた男が押し入ってきた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で芹菜が悲鳴をあげる直前、男がぱっとサングラスとマスクをはずした。
透輝だった。
じっと芹菜の顔を見つめてくる。
「あいつ、誰?」
その目に、強烈な嫉妬が燃えていた。
芹菜は深いため息をついた。
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