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その11 お姫様抱っこ
すっかり内容が頭に入っている資料を開き、自分が打ち込んだ文字を形だけ目で追いながらパソコン画面を直視しつつ、葉奈が本当に見ているのは教卓に凭れた麗しの王子様だった。
事実を掴んだ今朝の車の中は、すでに馴染んだはずなのに、別世界に思えた。
伊坂の黒っぽいスーツに包まれた肢体が微かに動くたび、葉奈のすべての意識はそちらに向き、すっと動いた手が彼の髪を掻きあげるたび…
「どうしたの、気分でも悪いんじゃないのぉ?」
右隣から潜められた声で囁かれ、葉奈は驚いてピクリと身を揺らした。
横を向くと、まったく知らない男子生徒だった。
「別に悪くないですけど」
「なんか、さっきからずっとぼーっとしてるからさぁ。気分悪いなら、保健室、俺、付き添ってあげてもいいよ」と、なんらかの含みのある笑みを浮べる。
「いえ、そんな必要ありませんから」
好意を無にしないように、礼儀正しく葉奈は答えたが、実のところ無性に嫌悪感が湧いていた。
相手のわざとらしい親しげな仕草と笑みに、胸の中にまで鳥肌が立った気分だった。
「どうした?私語はつつしめよ」
伊坂の厳しい声が、ピシリとしなるように飛んできた。
顔を上げて視線を合わせると、いつもに輪をかけて視線が鋭い。
「伊坂先生、無駄口叩いてたわけじゃありません。ただ、彼女が気分悪そうだったから、声を掛けたまでで。葉奈、本当に保健室行かなくていいのか」
葉奈は、馴れ馴れしく身体を寄せてきたうえに、名前を呼び捨てにされ、ぎょっとして身体を引いた。
「佐倉、気分悪いのか?」
いつの間にか、すぐ隣に伊坂がいて、そう問いかけてきた。
「いえ、この…えっと…」
葉奈は眉を潜めて男子生徒の顔を見つめ、「あなたのお名前は?」と尋ねた。
名前を聞かれた男子生徒が、有り得ないというように、葉奈を見つめ返してきた。
相手の反応に、葉奈はさらに眉を潜め、伊坂に向いた。
「あのぉ…とにかく、伊坂先生、このひとの勘違いなんです」
「俺は、菊山だよ。菊山剛士」
菊山の大声が可笑しかったのか、教室の中に笑いの渦が湧いた。
彼の大声に驚いた葉奈も菊山に振り向き、「ああ、…そうですか」と、一応の返事を返し、また伊坂に向いた。
「それで、保健室の必要はまったくありませんから、伊坂先生」
「わかった。それじゃ、笑ってる奴ら、もう十分だ口を閉じろ」
スパーッと室内の空気を切るような伊坂の声に笑い声が消えた。
葉奈は『お見事』と、頷きだけで伊坂に伝えた。
そのニュアンスを見事に捉えたのか、伊坂が「どうも」というように微妙に頭を動かし、口元に微かな笑みを浮べた。
テキストにさりげなく視線を戻した葉奈だったが、伊坂と無言のコンタクトを取っている自分が、嬉しくてならなかった。
菊山剛士なるものの正体は、お昼を食べながら理穂によって明かされた。
彼は、校内ではかなり知名度のあるバンドのボーカルとかで、信じがたいことだが、ファンまでついているらしかった。
つまりは、知ってる人は知ってるが知らない者は知らないのだという、当たり前のことが分からない愚か者ということだ。
「それであの自信たっぷりな笑みだったわけね。呆れるわ」
「人間、キャーキャー騒がれると、どうしても慢心しちゃうんだわねぇ」
綾乃が、彼女らしくない間延びした声で言った。葉奈は、綾乃の様子に眉を寄せた。
「波根君は、騒がれても慢心なんかしないわよ」と、友紀が自慢げに言った。
「神田君だって、いくら騒がれたって、ぴくりとも揺れない水面のような精神してるわよ」と、対抗意識満々で、友紀に顔を近づけて理穂が言った。
葉奈は、苦笑した。
けっきょく、話の最後は、波根と神田で〆なければならないようだった。
それよりも葉奈は綾乃の様子が気に掛かった。
「綾乃、どうしたの?おとなしいね」
「うーん。なんかね、ずっと頭がぼーっしてて…変な感じでさぁ」と、はっきりしない声でもごもごと言い、綾乃はしきりに首を捻った。
葉奈は、眉を寄せて綾乃の額に手のひらを当てた。
熱いなんてものじゃなかった。
「綾乃ってば、熱があるわよ」
「ええーっ、ほん゛とにぃ゛?」
つくはずのない文字に濁点を器用につけて、綾乃がキーの高い声で嬉しげな叫びを上げた。
葉奈は綾乃の反応に、いささか怖くなってきた。
「綾乃、すぐに保健室行くわよ」
「へーっ、熱?ほんとにぃ゛。わたし熱なんて出したことないんだー」
椅子に座ったままの綾乃は、上半身を左右にゆらゆらと揺らし、普通でない笑みを浮べたまま立ち上がった。
「なんかぁ゛、すっごく嬉しーーい゛」
泥酔して帰宅した父親に類似していて、ずいぶんと危ない奴に見える。
その綾乃が急に不満顔になり、唇を尖らせて、ストンと椅子に座り込んだ。
「だけどぉ゛、次の授業、吉永先生だからさぁ゛。保健室なんて綾乃゛、行きたくないよぉぉ゛」
「綾乃ってば…」
葉奈は嫌がる綾乃を無理に従わせ、友紀とともに綾乃の両脇を挟んで教室を後にした。
後ろから理穂も着いてきた。
廊下をまっすぐに歩き、階段を降り始めたところで、下から吉永が上がってきた。
階段を降りてくる四人に気づいて、吉永が驚いた声を掛けて来た。
「どうしたんだ?」
綾乃は、歩いたために気分が悪くなったのか、葉奈にぐったりとしてもたれかかっている。
「綾乃、熱がかなり高いみたいなんです。吉永先生、保健室に連れて行きます」
「葉奈…なんか、吐きそう゛…」
綾乃が苦しげに言った途端、吉永が三段飛ばしに階段を駆け上がってきた。
葉奈が気づいたときには、綾乃の身体を抱き上げている吉永がいた。
「俺が連れてく、俺が戻るまで、みんなに自習しとくように言っといてくれ」
階段を駆け下りながら、葉奈たちにそう言った吉永は、すぐに見えなくなった。
「吉永先生って、案外すばやいんだね」
友紀が、半分呆気に取られた顔で笑いながら言った。葉奈も同意見だった。
「吉永先生ってさぁ、わたしらが熱出しても、あんな風に動くのかな?」
葉奈は、理穂の言葉にただ笑って返した。
正直、お姫様抱っこだなんて…羨ましすぎた。
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