恋風
その12 姫のギャグ


放課後、葉奈は伊坂の個室へ行き、綾乃のことを報告した。
綾乃は母親に迎えに来てもらい、すでに帰宅していた。

「あいつ、病院に行ったのかな?」と伊坂が言った。

なぜか、隠し切れない笑みが伊坂の口の端にある。その笑いのわけは、とてもよく分かった。
帰る間際、綾乃は怯えた顔で注射の心配ばかりしていたからだ。

「たぶん…。かなり熱が酷かったから、行ってると思いますけど」

「それじゃ、今日の作業は休みだな」

「え、いいんですか?」

今日は伊坂とこの部屋にふたりきりだと考えて、どうしようとか思い煩っていたくせに、休みだと聞いて葉奈はがっかりした。

「しもべの見舞いに、行かなきゃならないだろ。行っておかないと、後でネチネチ煩いだろうからな」

これから一緒に見舞いに行けると分かって、葉奈の心はぱっと明るくなった。

「何か持ってってやるか。佐倉、何がいいと思う?」

そう問われて、葉奈はハイテンションのまま、はしゃいだ声を上げた。

「私だったら、もちのろんろん、メロンろん」

そう叫び、葉奈は左手を腰にあて、人差し指で空中に輪を描きながら天井に届く勢いで右手を高々とあげた。

「…」

部屋に不自然な沈黙が満ちた。
伊坂の無表情に、葉奈は口元を引きつらせ、そのままのポーズでフリーズした。

彼女のギャグは、派手に滑ったらしい。
葉奈は頬を引きつらせたまま、そろそろと手を下ろした。

麗しの王子の前で…なんてことをしてしでかしてしまったのだろう…

綾乃は、お姫様抱っこだったのに…
わたしは寒いギャグを王子にかまして凍えているピエロですかい…

「メロンろん…ね…」

突然伊坂がそう口にし、葉奈は恥ずかしさに耐えきれず「きゃー」っと叫び、頭を抱えてしゃがみこんだ。

「いまのギャグ、それほど悪くなかったぞ、佐倉」

くっくっという押し殺した笑いととももに、伊坂が言った。

いまさら。無反応だったくせに…

「でも、ケーキにしとくか、あいつケーキに目がないからな」

それならば、わざわざわたくしに聞く必要はなかったのじゃないですか?と、しゃがみこんだまま、葉奈は侘しさを込めて、心の中でぶつぶつと文句を言った。

やっと気持ちを立て直して立ち上がった葉奈は、唇を尖らせて恨めしげな視線を伊坂に向けた。
帰り支度をしていた伊坂が、それに気づいて、意地悪そうにふっと笑った。





「少しは俺の気持ちが分かっただろう?」

車に乗り込んですぐに伊坂が言った。

「気持ちって…」

「お前だって、俺の言う冗談に、まともに反応出来たためしがないだろうが」

「だって…伊坂先生、冗談を言うようなタイプに見えないから」

葉奈にとって伊坂は、彼がイサショウさんだと分かる以前から、近寄りがたい存在だった。
そして、葉奈の麗しの王子様は、ギャグを連発したりしないはずなのだ。

「はっきり言って、お前も見えないけど…」

「え、そうですか?」

「ギャグにはボケと突込みが必要だからな。相方によるんだろうな」

「相方ですか?」

「佐倉の場合…」

「私の場合?」

たっぷりと間が空き、葉奈は運転している伊坂の横顔に視線を当てた。

「俺じゃ…駄目なんだろうな」

前を向いたまま、伊坂がどことなし沈んだ声で言い、沈んだ笑みを口元に浮べた。
葉奈は、どういう反応をすればいいのか迷った。

「あの…?」

「ケーキ、どこの店がいい?」

葉奈をちらりと見て、先手を打ったと思えるタイミングで伊坂が言った。
口にされなかった言葉が、車中を漂っているような気がした。





病院に行き、泣きべそ半分で注射をしてもらい、夕方まで寝ていたという情報を綾乃の母からもらい、笑いを堪えながら、伊坂と葉奈のふたりは綾乃の様子を見に部屋に入った。

学校でのあの異常な様子も消えていて、ベッドに寝転がっている綾乃のまともな表情を目にした葉奈は、心底ほっとした。

「え?お姫様抱っこ?」

葉奈の話に、ベッドに横になった綾乃は、潤んだ目を丸くして驚いた。
どうやら綾乃は、吉永にお姫様抱っこされたことを、まったく覚えていないようだ。

「綾乃、覚えてないの?」

「これっ・ぽっ・ちも覚えてないよ」

指と指の間に、1ミリ程度の隙間を作って、言葉におかしな抑揚をつけて綾乃が言った。

「えーっ、もったいなーい。最高にかっこよかったわよ、吉永先生。綾乃を抱き上げたまま、階段をもの凄いスピードで駆け下りてったんだから」

「どうして携帯の写メとか撮っといてくれなかったのよぉ、葉奈ぁ。そんな体験二度とないかもしれないのにぃ」

憐れたっぷりの綾乃に責められて葉奈は吹きだし、表情を真面目なものに切り替えた。

「気がきかず申し訳ありませんでした。お姫様」

そう言って背筋を伸ばすと、ベッドに指先を付き、葉奈は深々と頭を下げた。
葉奈の小芝居に乗ってきた綾乃が、鼻をつんと上げて指を立てた。

「ほんとに、気のきかない侍女だわ。もう暇を出そうかしら」

「姫様、それだけはご勘弁をぉ」

葉奈は、両手をぎゅっと握り締めて綾乃姫に哀願した。

「お前たち、…俺の存在忘れてないか?」

マジで忘れていた。
熱演していた葉奈は、ハッとして、すぐ後ろに座っている伊坂に振り向いた。

「葉奈も、だいぶ翔の存在に慣れたってことだよ。喜ばなきゃだよ、翔」

赤くなった葉奈の頬を見てくすくす笑いながら綾乃が言った。

「お前、まだ熱があるんだろ。いい加減寝た方がいいぞ」

「見舞い客がいるのに、寝てたら失礼でしょうよ」

立ち上がった伊坂は、ぷーっと膨れた綾乃のほっぺたを指で潰し、綾乃の文句を無視して葉奈に向いた。

「そろそろ帰るぞ、佐倉。あんまり長いすると、こいつの病原菌をうつされる…」

伊坂は言葉を止めて、葉奈をしげしげと見て、ため息をつきながら首を振った。

「すでにかなり、アホ乃菌をうつされてる気もしないでもないが…」

「なんですってぇー」

「興奮しないほうがいいぞ、綾乃。熱が上がると、また注射を…」

綾乃がぱっと上掛けを頭からかぶった。

「さいなら」と、綾乃はほんの少し手を出して、小さく振った。

綾乃は、よほど注射が嫌いらしい。
可愛らしい綾乃が注射を怖がっている様子は、実に微笑ましかった。




   
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