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その13 千客万来
パソコンの画面に心を奪われていた翔は、ドアが静かに開いたのにも、背後にしのびよる気配にも、まるで気づかなかった。
突然、翔の肩に飛びつき、わっと叫んだ彼の手元…キーボードに不時着した物体。
「ハナッ!」
翔のきつい呼びかけに、なんの頓着もなく、ハナはキーボードの上に座り込み、緑色の目でじっとパソコンの画面を見つめている。
「お前、この最近、とみに性格悪くなってないか?」
翔はそう言いながらハナを掴み上げて床に降ろした。
なんの抵抗もせず、ハナは床に降りると、用は済んだとばかりに上品な足取りで部屋を出て行った。
少し開いたドアの隙間から出てゆくハナを見つめていたら、ハナと入れ替わるように、聡(さとし)が入ってきた。
「よう、今、いいか?」
「構わないけど…今度は何?」
翔は少しきつめの声で聡に言った。
聡は、翔より二つ上の兄だ。
この兄が、翔の部屋にわざわざ顔を出す時は、たいがい面倒事を頼むと決まっている。
「わたしは歓迎されてないみたいだな」
心に覚えがある聡は、にやつきながら言う。
当然だ。
父親の会社で仕事をしている聡は、いつだって面倒なプログラムの修正とかを彼に頼んでくる。
会社は儲かっているのだから、優秀な人材をいくらでも採用すればいいものを…
いまだ、諦めていないからなのだろう。
聡も父親も、翔を自分たちの会社に入れたいのだ。
「ただ働きじゃないにしても、いま、学校の仕事が忙しいんだ。これ以上、仕事を増やしたくない」
「ふーむ」意味ありげに聡が言った。
「何?」
「いや、お前の忙しいの正体が分かったからさ」とにやついている。
翔は、はっとしてパソコンの画面に振り返り、いまさら立ち上がって背中に隠した。
「世間には、取引…なんて言葉もあるな。翔」
そう言いながら、手にしたデータ入りのディスクを、聡はこれ見よがしにトントンと指先で叩いている。
「いくらなんでも、ただ働きなんてことは言わないぞ。わたしはやさしいからな」
聡が差し出してきたディスクと、かなりの枚数の書類を翔はむっとして受け取った。
ハナといい、兄といい、この家にはろくな奴はいない。
「それじゃあ、頼んだぞ。期限は三日後だ。よろしく」
「三日!冗談…」
「大丈夫、お前ならやれる。わたしが保証する」
そう言うと、聡はさっさと翔の部屋から引き上げてゆく。
そんな保証に、どんな価値もないぞ。と兄の背中に言ってやりたいのを、翔はぐっと堪えた。
ひとりになって、ディスクを見つめ、翔はため息をついた。
「あー、もうこの家…出るかな?」
口に出して言ってみると、ものすごく妙案に思えた。
この広い屋敷には、部屋が有り余っている。
プライベートはけっこう守れるし、静かだし、食事や家事の心配も無く、これまではひとり暮らしなど考えたことも無かったのだが…
翔はプリンターに写真用の用紙を入れ、印刷を開始した。
リズムに乗って印刷された用紙が出てくるのをじっと見つめていたら、また部屋の外から声が掛かった。
翔の返事を聞いて、妹の玲香(れいか)が顔を覗かせた。
ちっこい頭に、ターバンのようにタオルを巻いている。
「翔兄ちゃん、お風呂空いたよ」
「ああ、玲、ありがとう」
「ね、いまちょっといい?」
「あ…ああ」
翔は印刷し終わった用紙をさっと取り上げて、裏返しにして机に置き、その上にパソコン専門書をすばやく置きながら、「どうぞ」と玲香に言った。
玲香は、綾乃と同じ歳だ。
綾乃もどちらかというと、歳より若く見えるが、綾乃の場合それなりに色っぽさもなくはない。
だが玲香は、ひどく子どもっぽいのだ。
高校三年生だというのに、中学の低学年程度にしか見えない。
「翔兄ちゃんの学校にさ、私の友達の美智がいるの知ってるよね?」
美智…?
「さあ?」
「なんだ覚えてないの?家に良く遊びに来てるんだけど。翔兄ちゃんにも何度か会って挨拶してるんだよ、美智」
「そうか。それで?」
「美智、三組だって言ってたけど。ああ、苗字は中島だよ」
三組というと、葉奈と同じクラスだ。
「中島なら知ってるよ。俺の授業受けてる」
「うん。そうなんだってね、美智も言ってた。それでさぁ、美智に借りたCD、返して欲しいんだ。この間の日曜日に借りたんだけど、明日、どうしても必要なんだって」
「まあ、いいよ」
「ほんと?助かっちゃったぁ。それじゃ、後で持ってくるね」
「玲、髪、早く乾かしたほうがいい、風邪引くぞ。綾乃みたいに病院行って、注射して泣きたくないだろ」
「注射ごときで、わたしは泣いたりしないよ。綾みたく弱虫じゃないもん」
怒ったらしい玲香は、片足をダンと前に踏み出した。
唇を尖らせて抗議する様は、お子様そのものだ。
翔は堪らず噴き出した。
「お前、ほんと高三か?」
心から本気の問いを、翔はマジ顔で玲香に向けた。
「えーっ、翔兄ちゃん、その言い方。カッチーンだよ」
玲香は、カッチーンの言葉に合わせて、ずいぶんと面白い仕草をしてみせた。
「面白いな」
「笑わせるためにしたんじゃないやい」
真っ赤に怒った玲香は、笑っている兄に捨て台詞らしき言葉を吐くと、ドタドタと小さな足を踏みしめて出て行った。
その姿にしみじみと見入っていた翔は、妹の姿が見えなくなっても、ドアを見つめて物思いに浸った。
葉奈と玲香が同じ歳…
いまになっても、翔は納得できなかった。
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