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その14 心のもやもや
「えっ、仲嶋君にですか?」
車を発進させる前に、翔は玲香から頼まれたCDを、葉奈に渡してくれるように頼んだところだった。だが、三組には、男のナカジマもいたらしい。
「いや、女生徒の方」
車を発進させながら、翔は言った。
「え…、中島さんにですか?」
「そう。彼女に渡しといて。なんか今日、どうしても必要らしいんだ」
翔はそう言ってちらりと葉奈を見て、すぐに前方に視線を戻したものの、葉奈の浮べていた表情に眉を寄せた。
「どうした?」前方を向いたまま翔は問いかけた。
「いえ、わたしから渡すの、おかしくないかなと思って…」
「どうして?」
「先生から渡した方がいいです。そのほうが自然だし…」
「そうか? なら吉永先生にでも頼むか」
「あの…」
「うん」
「いえ…今日の仕事は…どうするのかなと思って」
そう言いながら、葉奈はCDの入っている袋をもてあまし気味にしている。
「それ、後ろの座席に置いててくれればいいよ」
「あ、はい」
「今日も、しもべの仕事は休みだ。私用で急ぎの用事が出来たから、今週はずっと休みにするよ」
「あ、そうなんですか?」
葉奈のその返事は、不自然に感じるほど感情のこもらない無機質なものだった。
彼女の薄い反応に翔はがっかりし、その反動なのか、「寂しいか?」と思わず彼女に囁いていた。
「え…」
「俺と一緒にいられなくて…」
もちろんいつもの冗談だ。翔の本気が含まれているとしても…
だが、葉奈の反応はひどく鈍く感じられ、翔はため息をついた。
「佐倉。だから冗談」
「あ、はい」
葉奈はそう言うと、身体を捻って後部座席にCDを置いた。
彼女の胸が翔にぐっと近付き、彼はドキリとした。
やましい思いがむくむくと、翔の胸中いっぱいに湧き出してくる。
彼がこんな思いを抱いているなんて、彼女は思いもしないだろう。
翔は憐れな自分に向けて首を振った。
葉奈にはじめて会ったのは、大学二年の夏だった。
葉奈の兄の貴弘は、パソコン研究会のメンバーで、ふたりは気が合い、よくつるむようになった。
その夏、コンクールに出品するためのソフトウエア作成を、貴弘を含めた数人と手がけることになり、初め翔の家でやっていたのだが、なぜかみんなが落ち着かないと言い出し、場所を貴弘の家に移した。
初めて会った葉奈は、桃色の可愛らしいキャミソールに白いホットパンツを履いていた。
ほどよい大きさの柔らかそうな胸とむき出しの腿。
釘付けになったのは翔だけではなかった。
葉奈は、あの時からまったく変わらない。
その頬も、瞳も、全身も…
魔法が掛けられていると言われれば、そう信じてしまいそうなほど、彼女の中の時は止まっているかのようだ。
貴弘が葉奈を紹介するときに、たしかに中三だと言ったと思う。だが、あの時の翔は、自分が聞き間違えたのだと思い込んだ。
妹の玲香と、葉奈が同じ歳である筈がなかった。
葉奈の歳を聞いたまわりの連中だって、みなそろって驚きの表情をしていた。
高校三年だと言っても、首を振りたいほどだったのだ。
綾乃の家を素通りし、いつもの公園の駐車場に止めて葉奈を降ろす。
バックミラーで葉奈の全身をさっと眺めてから、翔は目と鼻の先の学校に向けて車を走らせた。
早めに出てきているから、職員室での朝の会まで、15分ほど余裕がある。
翔は自分の部屋に向かい、鞄を机に置くと、コーヒーをいれた。
翔の間抜けな勘違いは、あれから二年半、今年の春まで続いていた。
この学校に新任の教師として入り、始業式への参加。
重複する挨拶にいい加減げんなりしたころ、やっと授業が始まった。
火水とまったく問題なく授業をクリアし、それなりの自信もついた木曜日だった。
翔は熱いコーヒーをそっと唇に運び、ひとくち啜った。
苦味が思考をさらに明瞭にしてゆく。
いま座っているこの場で、やはりコーヒーを飲みながら、次の授業の名簿をさっと見た。
その中に、佐倉葉奈の名を見つけたとき、ひどく驚いた。
珍しい名前なのに、名前だけでなく苗字も同じ子がいるのかと。
翔がドアを開けると、すこしざわついていた教室がしんと静まり返った。
彼は、機敏な動きで教卓に向かいがてら、さっと部屋を見回した。
葉奈の姿を捕らえたのが、教卓に向かう途中だったとしたら、生徒達は、足が竦んで動けない翔を目の当たりにしただろう。
「あー、まったく…やってられるか」
馴染んだ椅子に深くもたれて、翔は意味もなくそう呟いた。
コスプレ。
まさに、その時はそう思った。
ファミレスで会った口の悪い女性が葉奈にそう言ったとき、その時の自分がパッと浮かび、翔は思わず吹いた。
ハタチの筈だった。翔の中で佐倉葉奈は、女子高生ではなかったのだ。
そして、彼女には、新たな衝撃を食らわされた。
あの夏、あれほど頻繁に顔を合わせたというのに、葉奈は翔のことをこれっぽっちも覚えていなかったのだ。いまもそれは続いているはずだ。
「あー、やってられない」
自分の存在の薄さ。
いつまで経っても当たりの方向から逸れて行く冗談。
予定を知らせるアラームが鳴り、翔は立ち上がった。
いま自分に出来ることをやるしかないだろう。
あの時と違い、彼女がフリーなだけまだマシだ。
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