恋風
その15 苦し紛れの頼みごと



一週間に二度の、このクラスの授業が、以前はなによりも翔の楽しみだった。

いまは朝と夕方、葉奈を独占できるのだ。
その機会を与えてくれた痴漢野郎に殺意を抱くことはあれ、感謝する気はないが、この成り行きを運命だとは感じたい。

この前の授業で懲りたらしい菊山は、これまで葉奈の近くの席ばかりに座っていたが、今日は離れた席に座っていてほっとした。

菊山が葉奈を狙っていたのには気づいていたのだ。

教卓という場所は、ほんとうに教室内の動きが手に取るように分かる。
生徒達の精神的な動きまで、驚くほど捉えられた。

菊山のことは片付いたが、まだやっかいな波根がいた。
奴は、葉奈を斜めの位置に見られる席に今日も座り、横目で葉奈を見つめている。

ライバルと思っていた菊山が退いて、ほっとしてるところに違いない。

翔は教室内をさりげなく歩き、波根の視線を目標物からわざと断ち切った。
波根は仕方なく作業に戻った。学年一の秀才と言われるだけあって、作業も手早い。

「先生、すみません」

そう呼びかけてきたのは中島だった。
彼女の顔を見て、翔は眉をしかめた。

そう言えば、すっかり忘れていたが、預かってきたCDは車の中に置き去りになっている。

「なんだ?」

「あの、先生。これは?」

あたりを気にするようなそぶりをくどいほど見せてから、中島は指を合わせて自分の胸のあたりで○を作った。

その行為は、かなりの生徒の気を引いたようだ。
授業中に聞いてくることではないぞと思ったが、そこまで厳しく言うこともないだろうと、翔は自分をなだめた。

「帰りでいいか?」

「えー、駄目ですよぉ。あれ、今日のお昼の放送で使うんだもん」

拗ねたように中島が言った。
その急に馴れ馴れしくなった口調と態度に、翔は表情を強張らせた。

「教師に対して使う口調じゃないぞ。中島」

翔の厳しい叱責に、中島がぎょっとして緊張したのがわかった。だが、翔は表情を和らげなかった。

「妹から言付かったCDは、授業終了後に放送室に届けておく。これからは、必要なものはよく考えてから人に貸すようにしろ。頼まれる他人の迷惑も視野にいれてな」

「は、はい」

教室内がしーんと静まり返っていた。

真っ赤になった中島の目が、恥ずかしさか悔しさからくるものか分からないが、かなりうるんでいる。
同情するように向けられている目もいくつかあった。

だが、翔の手厳しさは、いまに始まったことではない。
このことで、生徒達に嫌われるならば、それで構わなかった。

ただひとりをのぞいて…

翔はさりげなく視線を葉奈に向けた。
もちろんこんなことくらいで、彼女に嫌われるとは思わなかったが…

なぜか葉奈は、中島よりも落ち込んでいる風情で肩を落としていた。

どうしたんだ?と問いたかった。
翔はその思いをぐっと堪えた。





いつものように携帯で確認を取り合い、いつもの公園の駐車場に車を止めて、翔は葉奈を待っていた。

この公園は学校から近いけれど、方向的に繁華街もバスや駅に向かう道からも外れていて、生徒の姿はまったくない。

公園内には色鮮やかなペンキで塗られた遊具が配置されていて、小学生や幼稚園児の元気に遊ぶ姿が見られた。
まだまだ梅雨の時期で、どんよりと曇っているけれど、子どもの目には、そんな空も素敵に輝いているに違いない。

歩道を少し駆け足でやってくる葉奈の姿を認め、翔は彼女の姿に見惚れた。
彼女だけは、どうしても生徒と認識できない。制服にその身を包んでいても。

彼の隣にいるのが当たり前の存在。いまはそう思えてならなかった。
いったいどうやれば、葉奈に恋をさせられるのだろうか?

「すみません、遅くなってしまって」

「日直だったんだろ?ご苦労様」

「あ、ありがとうこざいます」
葉奈は少し堅い表情で頭を下げ、翔は違和感を感じた。

「どうした?佐倉、なんかいつもと違うけど、何かあったのか?」

「いえ、その…先生は教師ですし。やはり、敬語を使わなければと思いまして…」

「は? お前、昼になんか変なものでも拾って食べたのか?」

「拾い食いなんか…」

むっとして叫んだ葉奈が、なぜか途中でぐっとしおらしくなり、「しません」と丁寧に言葉を結んだ。

「やっぱりおかしいな。あっ、もしかして…」

翔は葉奈のおでこに手を触れた。
もしかして、綾乃菌が本当にうつったのかと思ったのだ。

「熱はないみたいだな」

「わわたしは、いたって健康で、ままともです」声を上ずらせながら葉奈が言った。

「やっぱり、おかしいぞ。頬も真っ赤だし」

理由はすぐに気づいたが、翔はワザとそう言った。

「おかしくないです。頬が赤いのは…」

「うん?」

「な、なんでもありませんっ」

「わかった。それじゃ帰るか」

翔は機嫌よく車に乗り込んだ。
彼が額に触れただけで声を上ずらせてくれるようなら、かなり脈があるとみていいだろうと思えた。

「授業の時…俺が中島を注意した後だけど、佐倉、元気なかったな?」

「あれは…なんだか中島さんに申し訳なくて」

「中島に…どうして?」

「CD、先生からあのまま預かって、彼女に渡してあげれば良かったって、思って。そしたら…」

「叱られることも、ひとには必要なことじゃないか?」

翔の言葉に、葉菜は自分を納得させているのか、何度か頷き「…そうですね」と、恥ずかしげな笑みを浮べた。

その口元に触れたかった。いつになったら触れられるだろう?
果たして、そんな日が来るのだろうか?

綾乃の家の前を素通りするとき、葉奈は思わず「綾乃、早く良くなってね」と心配そうな声を掛けていた。そんな葉奈の行動は、ひどく可愛かった。

「佐倉、お前、今夜またひとりなんだろ?」

「そうですけど」

何気なくそう答える葉奈に、翔は苛立った。
彼女がひとりだと考えるだけで、眠れないほど心配している翔の気も知らず。

「俺ん家に来ないか?」

「ええっ?伊坂先生の家に…?」

葉奈は、言った本人の三倍ほど驚いてぎょっとした。

こほんと咳をして、「それで…」と翔は続けた。
苦し紛れに、いいことを思いついた。

「仕事手伝ってくれ」

これ以上ないくらい、葉奈はあんぐりと口を開けた。




   
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