恋風
その16 ふたつめの勘違い



少しフォーマルな服を、と言ったのは、確かに翔だった。
助手席に座っているドレッシーな黒のドレス姿の葉奈。

家から出てきた彼女を見た時はぎょっとした。

『あなたは、ほんとうに高校三年生ですか?』

玲香に向けたと同じ問い(完璧に言葉が変化しているが…)が口から思わず飛び出そうになった。

「あの、伊坂先生、本当にご馳走様でした」

ものすごく遠慮がちに葉奈が言った。
心ここにあらずと思えるくらい、目が空中を泳いでいる。

「美味しかっただろ。あそこの店、美味いんだよな」

「メニューに値段、書いてありませんでしたね…。あの…先生、大丈夫なんですか?」

手にしたハンカチをくちゃくちゃにしながら、それを見つめつつ、葉奈が搾り出すような声でそう尋ねてきた。

「なにが?」

「先生のお財布、空になっちゃったんじゃないかと思って…」

こんなに色気のあるドレスを着た葉奈が、翔の財布の中身の心配を本気でしている姿は、ひどく愛らしかった。

「俺がもらったメニューには値段ついてたんだ。それに、君が思ってるほど、高い店じゃないから」

「えっ、そうなんですか?」

「うん、そう。それよりとても似合ってるぞ、そのドレス」

安心したからなのか、彼の言葉にトキメイタのか、彼女の頬に少しずつ紅がさしてゆく。

「フォーマルって言われたら、これしか思いつかなくて、従兄の結婚式の時に…」

「北川啓一の」
彼は、外見なんでもなくそう言ったが、どうしても口元が強張った。

「え?は、はい。そうです…けど」

「知ってる。俺も出たから」

翔のさりげない言葉に、葉奈が目をまん丸に見開いた。
今年の三月だった。

あの結婚式の日、ひさしぶりに彼女の姿を見たのだ。
北川家の親戚の席にいた葉奈と、翔のテーブルは遠く隔たっていた。

披露宴の間中、彼女に声を掛けるタイミングを見計らい、見計らっているうちに終了してしまった。
まだ二次会があると目算していたのに、葉奈は二次会などにも参加せず、親戚の者たちとバスに乗り込み、早々と引き上げて行ってしまった。

「北川と結婚した中道和歌。彼女、パソコン研究会の副部長してたんだ。それで彼女側の客として招待された」

きっと、葉奈が来る。そう確信して招待に応じたのだ。
そうでなかったら、北川の結婚式など出ていない。

貴弘と仲の良い北川は、ちょくちょく研究会に顔を出していた。
コンピューター関連はあまり好きじゃないと入部はしなかったが、すぐに中道に夢中になって…

「その…」

「はい。…伊坂先生?」

翔はためらいに囚われて、なかなか口に出来なかった。

「先生?」

「いや、…その…お前、北川のことは、…もういいのか?」

「はい? 啓ちゃんのことって…何が、もういいんですか?」

「だから…その。付き合ってたろ」

眉間を寄せた葉奈は、口元を曲げ、大きくしり上がりに「はい?」と言った。

彼女の顔の周りで、クエスチョンマークがぴょんぴょんと飛び跳ねている。

北川と付き合っていただろう?という問いが、行き場を失って消滅した。

右にウインカーを出し、前方から来る車の列が流れてゆくのを視野にいれ、翔は黙り込んだ。

勘違い?

けして忘れられない過去の記憶。
佐倉家の庭にいた北川と葉奈。
顔を寄せ合ってくすくす笑いながらぼそぼそとささやき合っていたふたり。
そしてはっきりと耳にした会話。

「啓ちゃんだけだよ」

「俺も葉奈だけだよ」

葉奈の手が北川の背中に触れ、北川も彼女の肩に手を置くと、ふたりは微笑んで見つめ合った。

あれが…勘違い…

「先生?伊坂先生、矢印出てます」

葉奈の手が肩に置かれて翔は我に返った。
矢印を確認し右に回る。

たしかに、翔はあの時の葉奈を高三だと勘違いしていた。
だから北川と葉奈が従兄妹同士と知っていても、あの時のふたりの様子から、ふたりは付き合っていると決め付けた。

翔に、葉奈への強い恋心がなければ、もっと冷静な目で、あの時のふたりを見られたのかもしれないが…

北川と中道が良い感じだと気づいて、ふたりが本格的に付き合い出せばいいと望んだ。

結婚式のあとも、どうにかして葉奈と逢えないものかと思って、思索してもいたのだ。
そんな中、彼女に逢った。

こともあろうに教え子として…

「なんかなあ」

「先生、…あの、わたし、何かいけないこととか…しました?」

「え?…なんで?」

「なんでって…伊坂先生、ずっとため息つきながら考え込んでるから」

「お前、付き合ったことあるか?男と」

眉間を寄せた葉奈は、また口元を曲げ、大きく尻上がりに「はい?」と言った。

「すまない。いまの質問は忘れてくれ」

家の車庫に車を乗り入れながら、翔は言った。




   
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