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その17 素敵に花丸
「荷物、俺が持つよ。貸して」
助手席に座ったままの葉奈に、伊坂はそう言って手を差し出してきた。
「佐倉?」
葉奈は、唖然とした顔で伊坂に向き、彼の家を指でさした。
伊坂は何事かあるのかと自分の家に振り向き、なんの変わりもないことを確認してまた葉奈に向いた。
「何か、驚くようなことがあったのか?」
驚いたなんてもんじゃなかった。
ここはどこですか?あなたは誰ですか?と問いたかった。
葉奈の寝る部屋も用意できるし、家族もいるから安心して来いと言われた時、とんでもありませんと直ちに断った。
突然にお邪魔する無礼と、伊坂の家族に会うというダブル特典に、二の足を踏まないほうがおかしい。
けれど、伊坂はすぐに葉奈の母に電話して了解を取ってしまったのだ。
そして自分の家に、客をひとり連れてゆくからと、葉奈の目前で電話してしまった。
泊まらせてもらうことには最終的に同意したが、夕食は恥ずかしすぎてとても一緒にいただけないと抗議した葉奈に、それじゃ外食するかと軽く言い…
あの…あの…あの…
「佐倉。お前ここで夜を明かす気か?」
正直、その方が断然良かった。
葉奈は薄く笑って「はい。出来れば」と答えた。
「バカか、お前は。本気で言うなっ」
伊坂に怒鳴られ、泣く泣く葉奈は車を降りた。
「あの佐倉さんは、もしかして佐倉貴弘さんの…」
瞳をきらきらさせて、伊坂の妹、玲香はそう尋ねてきた。
「そう。あいつの妹」
「貴弘さん、カッコイイですよねぇ。羨ましいなぁ、あんなやさしげなお兄さんで」
「玲、お前、俺に対して喧嘩売ってんのか?」
「えーっ、そんなつもりないけどぉ」
葉奈は、兄妹の愉快なやりとりを苦笑しつつ眺めていた。
貴弘と葉奈も仲が悪いわけではないのだが、貴弘は昔から友達との遊びに夢中で、あまり彼女のことを構ってくれなかった。
兄よりも啓一の方が葉奈を可愛がってくれていた。
啓一がひとりっ子だったからかもしれない。
結婚したいまは、たまにからかいの電話をしてくるくらいだが。
葉奈が中学の時には、お正月、親戚の前でボケと突っ込みコントをして、おひねりを稼いだこともある。
結婚式の盛り上げに、ふたりでやろうぜと啓一に持ちかけられて、可憐な乙女がそんなことは出来ないと断ったのだか、いまとなると、断っておいて本当に良かったと思う。
伊坂の両親は、葉奈が緊張するから気を使ってくれたのだろう、自己紹介が済むと、すぐに居間から出て行った。
伊坂の母には、「ゆっくり休んでね」と、やさしい言葉も掛けてもらった。
「それじゃ、葉奈、部屋に案内するから…」
「あ、はい。あの…仕事は?」
「あれは冗談だよ。でも、手伝ってくれるっていうのなら、遠慮はしないけど」
「はい。もちろん手伝わせていただきます」
「なんかー、変。葉奈さん翔兄ちゃんに遠慮しすぎだよ。翔兄ちゃんの恋人って言うより、秘書みたいに見える」
「そ、そうですか?」
恋人の二文字に動揺して、葉奈の声がひどく上ずった。
「それじゃ、玲、おやすみ」
苦笑していた伊坂は、そう言ってから葉奈の動揺を楽しむように、彼女の背に手を当ててきた。
彼の手のひらのぬくもりに、なんだか知らないが、葉奈の背中全体に、ピリピリした震えが走った。
「えー、まだ話し足りないのにぃ」
「また、連れてくるから」
「近いうちに、絶対だよ。葉奈さん、約束だよ。指きりげんまん…」
玲香につられて葉奈は指を絡め、一緒に歌いながら指きりした。
おかげで少し動揺が収まった。
「ずいぶんと、楽しそうだな」
「聡お兄ちゃん、おかえりぃ。今日は意外と早かったね」
「まあな、そう会社ばかりに寝…」
葉奈を視野にいれて、聡の顔がカチンと固まったのが分かった。
「ああーっ、君は翔のパソコン画像…」
「兄さんっ」伊坂が叫んだ。
「だよな。この可憐な美しさ。こんなに早くおめにかかれるとは思ってませんでしたよ。翔の兄の聡です。よろしく」
差し出された手を、葉奈は握り返した。
伊坂とはまったく違う雰囲気を持ったひとだった。
前髪を後ろに撫で付けているせいで、伊坂よりもさらに大人びてみえる。
「あ、はい。佐倉葉奈です。こちらこそ、よろしくお願いします」
「葉奈…?ハナ。君、ハナって言うの?」
「兄さん、もういいから。疲れてんだろ、風呂に入って早く寝たほうがいいよ」
「そうかぁ、発祥元は君だったんだ」
「兄さん!頼むからもう一言もしゃべらないでくれ」
「翔、俺、ひとに命令されるのは大嫌いなんだ。知ってるだろ」
葉奈はそのやりとりに声を上げて笑った。
いつもは教師然として近寄りがたく、大人と子どもの境界線を感じる伊坂が、とても葉奈に近付いた気がして、胸に嬉しさが湧いた。
「葉奈、おいで」
伊坂が葉奈の背中を強く押して部屋を出ようとする。
「あ、はい。あの、それじゃ、おやすみなさい」
「兄さん、早めに風呂に入ってくれよ。俺たち、もうしばらくしてから入るから」
「羨ましいな」
「何が?」
「風呂、一緒に入るんだろ」
そんなわけがないと、聡は分かって言っているようだった。
伊坂がふっと笑って「ああ」と答えた。
「え? 嘘だろ。ねぇ、君?」
まさかという疑問の払拭を望んで、聡が葉奈に向けてそう聞いてきた。
その時、伊坂が葉奈の背中を指先で突いた。その意味は、即座に理解できた。
一瞬迷った葉奈が「もち…」と言ったところで、伊坂が「のろんろんだよな、葉奈」と言ってじっと見つめてきた。
葉奈は「…の、ろんろんです」と真面目な顔を取り繕って言った。
疑惑の芽を摘めず、聡は複雑な表情で部屋を出るふたりを見つめていた。
聡の後ろに立って笑いを堪えていた玲香は、葉奈と兄の冗談だとはっきり分かっているようだった。
部屋を出てしばらく屋敷の中を歩き、完全に二人きりになったところで、伊坂が立ち止まった。
くすくす笑いが止まらないらしい伊坂は、葉奈の手を取ると、その手のひらに大きな花丸を描いた。
「よく出来ました」
葉奈は、猛烈に笑いが込み上げてきた。
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